前回の記事「陳寿考」に続いて、三国志ネタを。アイキャッチ画像は、引き続き「武候祠」(諸葛亮らを祭った祠廟)の写真。
陳寿が著した正史『三国志』本文には「出師の表」は一つだけ(俗に言う「前出師の表」)しか掲載されていませんが、註にはもう一つ「後出師の表」が載録されています。その悲壮感漂う名文は古来から愛されてきました。今回は考察というより雑感的な記事です。
「鞠躬尽瘁」か「鞠躬尽力」か
上の写真は、諸葛亮の「後出師の表」の岳飛(宋代)の書の拓本です。素晴らしい筆跡です。画像真ん中部分(5~6行目)に現在では「鞠躬尽瘁、死而後已」と通常読まれるようになる有名な一節が書かれています。『三国志』の註に引用された最初の段階ではまだ「尽力」であり、上掲岳飛の時代もまだ「鞠躬盡力」でした。いつから「尽瘁」へ変わっていったかは諸説ありますが、後の明代の『三国志演義』の第九十七回「討魏国武侯再上表 破曹兵姜維詐献書」では既に「尽瘁」なので、「演義」が普及させた(あるいはその頃には一般的だった)表現なのかもしれません。
冒頭で述べた通り、「後出師の表」は『三国志』本文にはなく、註にのみ引用されているため、未だに真贋論争はあります。
「後出師の表」とはなんなのか
この「後出師の表」についての陳舜臣さんの「諸葛孔明」(中公文庫)での描写がとても印象に残っています。この小説(人物伝)の一部を以下に引用します。
臣、鞠躬尽力し、死して後已む。成敗・利鈍に至りては、臣の明の能く逆覩する所に非ざるなり。
陳舜臣「諸葛孔明」下巻 (中公文庫)p345(太字下線筆者)
表を結んだが、孔明はそれを読み返し、紙を鷲摑みにして、二つに引き裂いた。
「なんたる・・・・」
悲しみの心ばかりが文章に表れていた。これはなんたる表なのか。人を鼓励するのではなく、人に悲哀の情をおこさせるではないか。
皇帝に上表することは、全軍に公表することに他ならない。蜀の国民にもそれは伝えられる。軍民の心を沈めるような文章は公表すべきではない。
孔明は別の紙を取り出した。
兄に喬の死をしらせなければならない。それは簡単な文明であった。孔明はしばらく考えたあと、二つに引き裂いた表の草稿を、兄への手紙のなかに同封した。
上記冒頭の「後出師の表」の現代語訳は「正史三國志5蜀書・諸葛亮伝」(ちくま学芸文庫)から引用しますと、「臣はつつしんで力を尽くし、死してのちやむ覚悟であります。事の成功失敗、遅速については臣の明らかに予見しえないものであります」となります。こう考えると、文章は素晴らしいものの、出陣に際しての公の上表文としては似つかわしくない、悲壮感あふれるものです。
上記陳舜臣さんの『諸葛孔明』では、「後出師の表」は書かれたけれども公表されず、呉にいる兄の諸葛謹に贈ったという話になっています。この小説のストーリーはまったく根拠がないものでもありません。この「後出師の表」は蜀漢系の文書にまったく見えず、呉の張儼の「黙記」(現在は散逸)に記載があったという註があるからです。呉には兄の諸葛謹がいたわけですので、なかなか面白い解釈だと思うのです。この「後出師の表」の真贋論争は続いていますが、名文であることは変わりません。
まとめ
私の中では、『NHK人形劇三國志』で、孔明役の森本レオさんが朗読した「後出師の表」が一番心に残っています。当時テープレコーダーに録音して、何度も聞いた覚えがあります・・。(私の中では「前出師の表」よりもイメージが強いのです)。なんとなく、その文章が持つ「悲壮感」が強烈な印象を残したのかもしれません。
(2016年6月初稿。2024年11月改定)