毎度「天邪鬼」な大河ドラマレビューを書いております。批判的な分析を主旨としておりますため、世間一般の論調とはかなり乖離しているかと思います。そのため、ご不快に思われる方もおられるかもしれません。前もってお詫びいたします。(以下ネタバレも含みます)。素人の自由研究レベルでありますので、誤りがありましたらご容赦ください。
第30話「つながる言の葉」感想
毎度思うのは、安倍晴明の描写があまりにファンタジーで違和感があります。個人の勝手な望みとしては、史実に近い(伝説化される前の)権力に忖度する官人としての晴明が見たいのです。まあ、そんな晴明を描いても、視聴者には喜ばれないでしょうけれども。
いよいよ、紫式部が批評した三才女が勢揃いとなりました。泉さん演じる和泉式部(名前がかぶる!)が今後どんな風に描写されるのかも楽しみです。
今回は、いよいよ物事が大きく動く前段階ですが、そのぶん若干話が間延びした気はします。『枕草子』の流行とともに、「まひろ」(紫式部)の存在が道長の目にとまる(思い出される)わけですが、安倍晴明に「まひろ」の存在を指摘されてからの時間がどうも間延びしているのです。おそらくドラマの全体の構成上の時間稼ぎと思われますが、スピード感が失われた気がします。次回予告はかなり良い印象を受けたので、次回に期待です。
劉希夷の詩「代悲白頭翁」
ドラマ内で紀貫之の「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」の解説部分で登場した唐の詩人劉希夷(庭芝、廷芝とも)の「代悲白頭翁」について取り上げてみます。ただ、今回は殆ど話の内容には関係ないので、だいぶ脱線になりますが。
劉希夷については、以前にもほんの少し取り上げました。(脚注などもご参照ください)。以前取り上げた際は、自らの不遇を怨むタイプの詩「詠松詩」が、やがて白居易の『新楽府』につながるという話でした。
今回はそれとは関係なく、「まひろ」が紀貫之の歌を解説する場面で「意識されている漢詩」として紹介されていました。彼の代表作であり、唐詩選でも有名な詩です。(「まひろ」が直接引用したのは、下記引用の青い下線部)。
「代悲白頭翁」は、彼の代表作ですが、異説では宋之問の作ともされます。劉希夷はこの詩に関連して宋之問に殺されたというものもありますが、不確かな伝承の類いのようです。宋之問は文人としては著名でその詩才は高く評価されていますが、一方で権力者に常に媚びへつらって処世した人物であるため、批判も多い人です。そういう「負のイメージ」から生まれた伝承かもしれません。また、異文も多いので、ここでは唐詩選で採用されているものを引用いたします。
「代悲白頭翁」
洛陽城東桃李花 飛來飛去落誰家
洛陽女兒惜顏色 行逢落花長歎息
今年花落顏色改 明年花開復誰在
已見松柏摧爲薪 更聞桑田變成海
古人無復洛城東 今人還對落花風
年年歳歳花相似 歳歳年年人不同
寄言全盛紅顏子 應憐半死白頭翁
此翁白頭眞可憐 伊昔紅顏美少年
公子王孫芳樹下 清歌妙舞落花前
光祿池臺開錦繍 將軍樓閣畫神仙
一朝臥病無相識 三春行樂在誰邊
宛轉娥眉能幾時 須臾鶴髮亂如絲
但看古來歌舞地 惟有黄昏鳥雀悲
【書き下し】
洛陽城東桃李の花 飛び來たり飛び去って誰が家にか落つ
洛陽の女兒顏色を惜む 行くゆく落花に逢うて長く歎息す
今年花落ちて顏色改まり 明年花開いて復た誰か在る
已に見る松柏摧けて薪と爲るを 更に聞く桑田變じて海と成るを
古人復た洛城の東に無し 今人還た對す落花の風
年年歳歳花相い似たり 歳歳年年人同じからず
言を寄す全盛の紅顏子 應に憐れむべし半死白頭の翁
此の翁白頭眞に憐む可し 伊昔紅顏の美少年
公子王孫芳樹の下 清歌妙舞す落花の前
光祿の池臺錦繍を開き 將軍の樓閣神仙を畫く
一朝病に臥して相識無し 三春の行樂誰が邊にか在る
宛轉たる娥眉能く幾時ぞ 須臾鶴髮亂れて絲の如し
但看る古來歌舞の地 惟有り黄昏鳥雀の悲むのみ
前半部分を現代語訳してみます。(あくまで私訳ですので誤りがありましたらすいません)。
- 1,2句洛陽城東桃李の花 飛び來たり飛び去って誰が家にか落つ
(春うららかな)洛陽の東、桃李の花が風に舞い、誰の家に落ちたのだろうか
- 3,4句洛陽の女兒顏色を惜む 行くゆく落花に逢うて長く歎息す
洛陽の少女は容色が衰えていくのを惜しみ、舞い落ちる花に長く嘆息した
※異文:「幽閨女兒惜顏色 坐見落花長歎息」(『宋之問集』等)。この場合「深窓(幽閨)の少女が」「なんとなく(坐見)覚える」感情となり、あまり深い悩みではないと解する。さらに「惜顏色」>「好顏色」とするものもあり。(全唐詩巻82) - 5,6句今年花落ちて顏色改まり 明年花開いて復た誰か在る
花は散り落ち、人の容色も衰えていく。来年またこの花が咲く様を誰が見られるだろうか。
- 7,8句已に見る松柏摧けて薪と爲るを 更に聞く桑田變じて海と成るを
松柏はいつしか薪になる(のが理であり)、桑田(さえ)もいつしか海となると聞く。
※『文選』(巻二十九)詠み人知らずの詩「去者日以疎」に、「松柏は摧かれて薪と為る」(松栢摧為薪)とある。(永遠のものはない)。
『神仙傳』(巻三・王遠)で仙女麻姑が王遠に対し「東海が3度桑田になるのを見ました」(見東海三變爲桑田)と言った話より。(不変と思えても世は移り変わる)。 - 9,10句古人復た洛城の東に無し 今人還た對す落花の風
洛城の東で(散る花を嘆じた)昔の人は既にないが、今も人は落花の風に吹かれ(嘆い)ている。
- 11,12句年年歳歳花相い似たり 歳歳年年人同じからず
毎年花は同じように咲くが、人は移ろいゆく。
- 13,14句言を寄す全盛の紅顏子 應に憐れむべし半死白頭の翁
美しい盛りの少女よ、聞きなさい。この半死の白髪老人は憐れむべきものなのだ。
※「全盛の紅顏子」を、一貫して「洛陽の女児」であると解釈するものと、若者または男性[=子]と捉える説あり。この場合は、異性(女児)への呼びかけとするほうが妥当か。1 - 15,16句此の翁白頭眞に憐む可し 伊昔紅顏の美少年
この白頭の翁こそまことに憐れむべきものなのだ。昔は紅顔の美少年だったのだから。
この歌の解釈は様々ですが、人生の無常を深刻(あるいは不吉)に捉える解釈と、それを軽く捉える解釈があるように思います。私は(結構古いですが)『新唐詩選』(岩波新書)の三好達治氏の解釈にしたがい、軽く解釈したいと思います。そもそも、劉希夷は30才にもならずに亡くなった(無頼の)早世の詩人です。彼にとって人生が無常であったとしても、「老い」は現実のものではありません。(もちろん、詩の形式にそった「老い」の設定ではありますが)。
三好氏は、若い頃この詩を読んで「殆んど字々みな落花のように眼前に入り乱れて繽紛として見えた」とも述べています。三好氏の詩全体に対する評は次のようなものです。
この詩の読後に胸にもたれ気味の感の残るのも、通篇のテーマの人生無常迅速の嘆が嘆声としてもう一つ痛切を欠き、テーマとして実はいささかそれが無力なところに原因があるのであろう。そういうふりではあるが、詞句の対比と関連とはまことに見事で、情景の移りゆきが夢のようで、流麗の極をつくしている。
『新唐詩選』(岩波新書)吉川 幸次郎、三好 達治
(中略)
ただ歳々年々人同じからずといい、宛転たる蛾眉能く幾時ぞという、その趣意の、この詩のテーマの痛切なるべきが如くには、これを一読し了った後の後味は何か痛切ではなく、むしろ甘ったるくどこか空々しいのは、裕福な家庭の隠居どもが、愚痴とも繰り言ともつかぬものを呟きながらそれを楽しんでいるような風体の如くにも推せられる。
私個人としては、この三好氏の評に納得させられました。奇跡的なまでに美しい「年年歳歳・・」の句とは裏腹な「だるさ」のようなものこそが、作者が感じた無常感だったのかなとも思います。
今回はドラマ本編とはあまり関係がない「小道具」的な登場だった「代悲白頭翁」ですが、漢籍を重視する「まひろ」と、小難しいと皮肉を述べる和泉式部を対照的に描くための効果的な「小道具」ではありました。
以下は上記で引用した、吉川幸次郎と三好達治共著の『新唐詩選』(岩波新書)です。この新書では、前半を吉川氏後半を三好氏が担当していて、この「代悲白頭翁」については、三好氏の解説です。1952年とかなり古い本ですが、今でも大変参考になる本です。
まとめ
今回は、前述のとおり今一つスピード感に欠ける印象でした。せっかくダイナミックに展開できるような時期(タイミング)なのに、もったいないという(勝手な素人)感想でした。次回はかなり重要な回になりそうなので、楽しみにしています。
- 川口喜治「劉希夷『代悲白頭翁』詩私解」2014 ↩︎