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大河ドラマ「光る君へ」第32話感想|伊周の漢詩「花落春歸路」の話

光る君へ

毎度「天邪鬼」な大河ドラマレビューを書いております。批判的な分析を主旨としておりますため、世間一般の論調とはかなり乖離しているかと思います。そのため、ご不快に思われる方もおられるかもしれません。前もってお詫びいたします。(以下ネタバレも含みます)。素人の自由研究レベルでありますので、誤りがありましたらご容赦ください。

第32話「誰がために書く」感想

「まひろ」がついに『源氏物語』書き始めます。火事騒ぎがありましたが、一条天皇と彰子の絆も、ほんの少し深まったよう。

父為時が「まひろ」言った、「お前がおなごであってよかった」は素晴らしい伏線回収でした。

ただ、毎度気になるのは、道長のキャラクターの描き方です。非常に美化していることはドラマの主要キャラゆえにしょうがないのですが、どうもつかみ所がないのです。非常に有能なのか、凡庸なのかもよくわからない。特に「まひろ」にたいしての言動が今一つ不可思議です。「権力を握って変わってしまった」というわけではないことは、色々な場面で強調されます。自らの立場ゆえに苦悩している様子もなんとなくは描かれます。ただ、どうも「まひろ」に素っ気ない部分があります。たとえば、「まひろ」に『源氏物語』の続編を依頼する部分は、頼むだけ頼んで去ってゆくのです。これは、二人が気の置けない仲であるからという解釈も無理がありそうです。以前なら、多少のフォローや道長の苦悩が描かれたと思いますが、かなりあっさりしているのに違和感がありました。(一方で「まひろ」もあっさりしていますが)。うまく表現できないのですが、「つかみ所がない」と感じるのです。

藤原伊周の漢詩

ドラマでは、道長主催の詩会があり、伊周の漢詩が出てきました。伊周の(表面上は)道長を立てる様子がよく描かれていました。これはある種の彼の執念でもあるのでしょう。一方で、道長も(非常に苦しい立場になっていたとはいえ)懐の広さ(深さ)を示します。藤原実資はその日記にこう書いています。

さきの越後守朝臣、云はく、「一昨、左府の作文、外帥がいそちの詩、述懐有り。上下、涕泣す。主人感歎す。・・」

【私訳】前の越後守(藤原尚賢)が言ったことには、「一昨日の左大臣(藤原道長)の作文会で、外帥(藤原伊周)の漢詩に「述懐」(広辞苑:「心中のおもいを述べること。特に、漢詩や和歌・連歌で、心中のおもいを詠むこと」)があった。上下の者は涙を流した。主人(道長)も感嘆した。・・・」

『小右記』寛弘二年(1005年) 四月二日条(摂関期古記録データベースの読み下しより)

ドラマでも出てきましたが、この時の伊周の漢詩を以下に引用いたします。

「花落春歸路」 儀同三司

春歸不駐惜難禁 花落紛紛雲路深
委地正應隨景去 任風便是趁蹤尋
枝空嶺徼霞消色 粧脆溪閑鳥入音
年月推遷齡漸老 餘生只有憶恩心

春帰りてとどまらず惜しむこと禁じ難し
花落ち紛紛として雲路深し
地に委つるは正に景に随ひて去るべし
風に任するは便ち是れあとひて尋ぬ
枝は空しく嶺をめぐりて霞色を消し
けわいもろく渓しづかにして鳥音を入る
年月は推遷し齢ようやく老い
余生は只だ恩をおもうの心有り

『本朝麗藻』「春」(書き下しは筆者) 
※(「深」で韻を踏んでいる)

最初の6句で季節の移ろいなどを嘆き、最後2句でに自分の人生を振り返り、「老いた」と言います。しかし、伊周はまだ32才でした。平均寿命が短い時代とはいえ変転この上ない自分の人生を振り返り、感慨もひとしおだったかもしれません。

ただ、伊周は純粋な思いだけで詠んだわけではないでしょう。この時の彼には「中関白家」の再興がかかっており、ようやくその兆候が見えている時期でした。この漢詩には、単なる「述懐」だけではなく、道長へのアピールでもありました。「余生は只だ恩を憶ふ」という部分は、ドラマでは「天子の恩顧」と解釈していましたが、「道長の恩」と解釈する説もあります。1

純粋な気持ちを吐露したものなのか、それとも戦略的に弱みを見せたのかはわかりません。ただ、内容はこれまでの傲慢な彼の雰囲気とは正反対で、非常に内省的で謙虚なものです。このような詩情に、人々は感嘆し感慨深く思ったのかもしれません。

32才だったということから、中国西晋の潘岳の『秋興賦』の序文(『文選』巻十三)を意識しているという学者もいます。2そこには「晋十有四年、余春秋三十有二、始見二毛」(晋十四年、私は32才で初めて白髪を見た)とあります。潘岳は序文の続きで不遇の自分にため息をつきつつこの『秋興賦』を作ったと述べています。確かに、伊周と同じ年齢、心境(境遇はかなり違うが)などが似ているので、意識されたのかもしれません。また、「老い」を詠っている点も潘岳の「二毛」(白髪)につながります。この『秋興賦』は『文選』収録でもあり、日本でも良く引用されていましたから、伊周ももちろん知っていたでしょう。

ちなみに(伊周と同じく)潘岳は大変な美男で名文家でしたが、時の権力者に阿諛追従し「塵を望みて拝す」(「後塵を拝す」の由来)とも言われました。つまり、「権力者の馬車の砂煙にさえもお辞儀をする」という人でした。そして結局、非業の死を遂げました。立場も方法も違うとは言え、権力に固執する点でも二人は似ているのかもしれません。また、二人の最期が無念の死であることも似ています。(伊周は病死、潘岳は刑死ですが)。

いずれにしても、自らの老いを強調して、過去の傲慢な自分を反省するかのようなこの詩は、多くの人の感情を揺さぶりました。これは彼の率直な感慨であったと同時に、計算し尽くされたアピールでもあったのでしょう。

これに対して道長は、この漢詩に感動して贈り物までしています。このころ道長は伊周の懐柔を狙ってか、彼の復権を助けています。もちろんそれは一条天皇の強い意志もあったのでしょうけれども、やはり現段階(彰子懐妊の兆しがない状況)で伊周を敵に回すのは良くないと考えたのでしょう。ドラマでは道長の度量を褒める場面がありました。

ただ、そうは言ってもこの頃の伊周の行動は多くの問題を起こしていました。当時の公卿たちの日記には彼への多くの不満が述べられています。ドラマでも、宣旨によって半ば強引に席次が決められた結果、かなりの不満があったことが描写されました。

こう考えると、伊周・隆家兄弟の方向性の違いが顕著なのがよくわかります。もちろん、隆家も「中関白家」の再興を諦めてはいませんでしたが・・・。この二人については、ドラマ監修の倉本氏の『藤原伊周・隆家:禍福は糾へる纏のごとし』(ミネルヴァ日本評伝選)にも詳しいですのでお勧めです。


藤原伊周・隆家:禍福は糾へる纏のごとし (ミネルヴァ日本評伝選)
ミネルヴァ書房
藤原伊周(974~1010)、隆家(979~1044) 平安期の公卿。父道隆に引き立てられるも、その死後に叔父道長と対立し、花山上皇と闘乱した等の罪で大宰権帥に左遷された伊周。兄に連座して左遷されるも後に復帰し、大宰権帥として「刀伊の入寇」を撃退した隆家。栄華を誇る道長の陰で生きた中関白家の栄光と没落、そしてその後を描く。

まとめ

いよいよ「まひろ」の出仕となりました。『紫式部日記』に書かれている宮廷の様子や感慨がどのようにドラマで描かれるのかも楽しみでもあります。個人的には「後宮のドロドロした感じ」は苦手ではありますが、次週どうなってゆくのでしょうか。


紫式部と藤原道長 (講談社現代新書)
講談社
無官で貧しい学者の娘が、なぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか?後宮で、道長が紫式部に期待したこととは?古記録で読み解く、平安時代のリアル

  1. 津島知明「『枕草子』と〈伊周の復権〉」2014 ↩︎
  2. 津島知明「『枕草子』と〈伊周の復権〉」2014に引用される今浜通隆の説 ↩︎