PR

大河ドラマ「光る君へ」第39話感想|藤原惟規の最期の話等

光る君へ

毎度「天邪鬼」な大河ドラマレビューを書いております。批判的な分析を主旨としておりますため、世間一般の論調とはかなり乖離しているかと思います。そのため、ご不快に思われる方もおられるかもしれません。前もってお詫びいたします。(以下ネタバレも含みます)。本ブログは、素人による雑多な自由研究の備忘録であり、更新もかなりのんびりしております。悪しからず。

第39話「とだえぬ絆」感想

賢子の父の話を為時が知らなかったというのは私も失念していました。このあと賢子と道長の関係性はどうなって行くのでしょうか。

伊周が遂に亡くなりましたが、現代的に言えばようやく安寧を得たということでしょうか。息子はかなり手が付けられない悪になりますが、このあと「中関白家」は隆家によって命脈を保つことになります。彼の立ち回りを今後どんな風に描くのかが楽しみです。

今回「まひろ」が彰子に進講していたのは、白居易『新楽府』「百錬鏡」でした。「百錬鏡」は、揚州から献上された鏡についての話。唐の太宗は人をもって自らを写す鏡とし(太宗常以人為鏡)、文字通りの鏡は使わなかったという逸話を載せています。天子の理想を語る、壮年の白居易らしい作品です。書物を一生懸命学ぶ彰子は、少しずつ中宮の風格が出てきた気がします。

惟規が残念ながら退場となりました。ちょっとドラマの作りが性急過ぎて雑だったのが残念です。当時としては早世とまでは言えませんが、叙爵を受けて栄達もかない、一族としての念願もかなえたと言えます。親の心配をして官途を諦めてまで越後へ行くというのですから、かなりの親孝行だったのですね。「まひろ」と娘の気持ちも少しずつ通じ始めたようです。

藤原惟規の最期の話

史実としては、弟か兄かはわからない惟規。『日記』にも弟とは書いていないわけですが、なんとなく紫式部の彼への目線(小姑感)や、父為時の「言いよう」からすると素人考えでは兄のような気もします。いずれにしても紫式部が愛した兄弟でした。

ドラマでもいくらか採用されていた惟規の最期の逸話は、史実かはわかりませんが『今昔物語集』や『俊頼髄脳』などによるものです。『俊頼髄脳』の方が元ネタと言われますが、惟規という人をよく表した逸話です。『俊頼髄脳』によって簡単に要約しますと、下記のような話です。

今際の際の惟規を、父為時が看病しているシーンから始まりますが、もはや回復の望みがないことを知って父は息子に出家を勧めます。やってきた僧侶から、「このまま出家しないと往生できず地獄に落ちます。中有ちゅうう(次の生を受けるまで居る広漠とした場所とされる)の心細さを想像してご覧なさい」と説教されます。すると瀕死の惟規はその僧侶に「中有には美しい紅葉や風流な虫の声はありますかと尋ねたと言います。(当時の常識であった)出家の話に興味を示さない惟規に、僧侶は不機嫌に「どうしてそんなことを聞くのか」と尋ねます。惟規は、「それらがあれば、中有の旅の気慰みにはなるでしょうね」と答えたので、僧侶は怒って出て行ってしまうのです。(つまり出家しなかった)。

まさに風流人の最期という感じがします。ここで『俊頼髄脳』の著者源俊頼は、「さる人の心ばえもありけりとしろしめさむ料にやくなけれど申すなり」と一言私見を添えています。つまり、「臨終に至るまでも風流な心持ちでいる人もいるのだという一つの資料として、読者のお役に立つかはわからないけれども参考までに記すものである」という意味です。(すいません私訳です・・)。ここでの俊頼の書きぶりは、いかにも「歌論書」らしく惟規に好意的なものです。

しかし面白いのは、同じ事を書いている『今昔物語集』1の評では、出家しなかった惟規を「罪深いことだ」と評しています。これはそれぞれの書物の立場の違いによるものですが、『今昔物語集』はあくまで仏教説話的な背景で書かれているからでしょう。

さらに、江戸時代の服部南郭(荻生徂徠の弟子)が表した『大東世語』(漢文で書かれた偉人伝)でも藤原惟規の同じ話について言及があります。若干話が違いますが、「中有」でも秋の景色や虫の音はありそうだと知った惟規が、「中有もまたいいものですね」(中有も亦た好し)と述べて僧侶を遁走させるという話になっています。この場合も、惟規の風流人としての瀟洒なイメージが語られています。

『俊頼髄脳』に話を戻すと、続いて彼の辞世の句が紹介されます。都の恋人(斎院の中将)へ送った歌とも言われます。これは多くの書物に載っていますが、若干の違いがあります。

みやこには恋しき人のあまたあれば なほこのたびはいかむとぞ思ふ
(都には恋しい人が大勢いるので、やはりこの旅[度])は、生きて帰りたいと思う)

『今昔物語集』のバージョン:
みやこにもわびしき人のあまたあれば なほこのたびはいかむとぞ思ふ
(都には私が死んだら寂しく思う人が大勢いるので、やはりこの旅[度]は、生きてかえりたいと思う)

続いてこの話の補足として、(ドラマでも描写されましたが)惟規が最後の「思」の字を書いた時点で力尽きた話が紹介され、父為時が「おそらく『ふ』で結びたかったのだろう」と書き足した、という話が続きます。そして、為時はそれを形見とし、読む度に涙を流したため、破けて失われたと結ばれます。なので、ドラマでは、その手紙の原文が「まひろ」たちに贈られてしまっているのが、若干残念。このあたりをもう少し丁寧に描いて、父が肌身離さず持っているという設定にしてほしかったです。(勝手な感想ですが)。

以上の話は、バージョンによって差異はありますが、基本的に息子を失う親の悲しみを描いていると思います。息子惟規については、載録した書物によって評価が違いますが、父為時の悲哀は共通しています。惟規は風流人として逝ったかもしれませんが、父としては息子が出家せずに死んで行くのを見ているのは当時の宗教的な背景を考えれば大変辛いものだったでしょう。為時は数年後には出家していますが、やはり心残りだったのでしょうか。

以上の話がどの程度史実かはわかりません。ただ、この話が惟規の友人源為善を介して伝わっていると考えられることから、かなりの確度がある話と言えるのかもしれません。源為善の父源国盛は、為時と越前守の件で悶着があった人(俗説では憤死したとも)ですが、それでも息子同士は友人だったということなのですね。(二人は蔵人としても同役だった)。

惟規についての情報の伝承過程の仮説 2
  • 1
    源為善

    惟規の友人で同僚だった。惟規死の直前に歌の贈答があり、臨終の話を聞いていたらしい。

  • 2
    源経信『難後拾遺』

    惟規臨終について為善から聞いたとし、惟規が逢坂の関から為善に贈った歌を載録。「あふさかの関うちこゆる程もなく今朝は都の人ぞ恋しき」。1086年に総覧された『後拾遺集』のバージョンの「今朝は」は、元は「先づは」だったと批判しつつ引用している。(「難」後拾遺の歌論なので)。
    越後への旅の途中で病み、越後で亡くなったと記録。

  • 3
    源俊頼『俊頼髄脳』

    源経信の三男。父親から聞いた?現行の逸話を記載。(詳細まで事実かは不明)。俊頼版の『難後拾遺』もあったとか。

  • 4
    『今昔物語集』

    『俊頼髄脳』を参照して書かれたと思われる。
    他に『十訓抄』(鎌倉時代)などにも同じ逸話の記載あり。

前述の通り、『難後拾遺』『俊頼髄脳』は歌論であり、『今昔物語集』は説話集ですから、それぞれ違った思惑で載録されており、話もアレンジされている可能性がありますので、本当のところどうだったかはもはやわかりません。ただ、上記のような伝承過程を考慮すると、いくらかの事実が含まれているのではないかと思います。

国文学者の高橋文二氏の古い論文3を拝見していまして、この逸話についての阿部秋生氏の「枯野のすすき(『文学』1993年掲載)の引用が大変興味深かったです。(実物が手に入らなかったので孫引きにて失礼)。阿部氏は、この惟規のような精神が、「枯野の薄有り明けの月」(藤原基俊、西行ら)~「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」(芭蕉)と繋がって行くと指摘しています。直接的な関連は別にしても、なるほどと考えさせられました。

最後に、『藤原惟規集』から一首引用します。

いかでわれ住まじとぞおもふ住むからに 憂き事しげきこの世なりけり

【適当な私訳】
もう何としても私は(この世に)生きていたくない。生きているだけで辛いことが山ほどあるこの世の中なのだからなあ。

本文は、岩波文庫『紫式部集付大弐三位集・藤原惟規集』より引用。

現代語訳が見つからなかったため、勝手な私訳です・・。かなりの風流人であった惟規ですが、同時に上記のように厭世感というか無常感も漂った歌も残されています。今回の臨終の話からは、当時としてはめずらしい現実主義者としての側面も見えますが、ちょっとこの世の生活に疲れてしまっていた面もあるのでしょうか。

紫式部集 (岩波文庫 黄 15-8)
岩波書店
(紫式部集付大弐三位集・藤原惟規集) 『源氏物語』の作者として名高い紫式部も,実名や伝記など詳しいことは知られていない.しかし,この集に収められた彼女のほぼ全生涯にわたる歌と詞書は,その勝気で聡明な少女時代から晩年までの生活や心情・人柄などを,細かく感じとらせてくれる.娘・大弐三位,兄・惟規の集も併せ,紫式部研究に不可欠の一冊

まとめ

惟規の死去がちょっと切ない回でした。史実ではおそらく一条天皇死去とほぼ同時期か、一条天皇より後の死去とも言われますが、その豊かな才能は歌によって後世の記憶に留められました。いろんな人間模様があるものだと、改めて感じました。大病をした私としては、彼の厭世感や臨死感にも共感する部分があり、『藤原惟規集』を苦労して読んでいる所です。(岩波文庫版は現代語訳がないので・・)。

次回は、さらにいろいろ波乱があるようです。楽しみにしたいと思います。


紫式部と藤原道長 (講談社現代新書)
講談社
無官で貧しい学者の娘が、なぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか?後宮で、道長が紫式部に期待したこととは?古記録で読み解く、平安時代のリアル
  1. 『今昔物語集』巻三十一第二十八話「藤原惟規於越中(ママ)国死語」。ちなみにかれは越中ではなく越後でなくなっている。(本文には誤謬が多い。『俊頼髄脳』を引き写しているせいか)。 ↩︎
  2. 鈴木徳男「惟規説話の伝承 : 『俊頼髄脳』と『今昔物語集』の関係」2000年 ↩︎
  3. 高橋 文二 「王朝仮名文学世界の精神基盤-慰藉と執としての『自然』」1994年 ↩︎