毎度「天邪鬼」な大河ドラマレビューを書いております。批判的な分析を主旨としておりますため、世間一般の論調とはかなり乖離しているかと思います。そのため、ご不快に思われる方もおられるかもしれません。前もってお詫びいたします。(以下ネタバレも含みます)。本ブログは、素人による雑多な自由研究の備忘録であり、更新もかなりのんびりしております。悪しからず。
第40話「君を置きて」感想
ついに一条天皇(院)も崩御しました。彼は幼くして即位しているので、25年もの在位期間があるのですね。(塩野瑛久さんの演技は大変素晴らしいものでした)。
大江匡衡に譲位に関わる易筮をさせる場面がありました。(匡衡は赤染衛門の夫。この翌年に亡くなる)。『御堂関白記』には5月25日にこの占いをさせた記録があります。ドラマでは、その占いの一部始終を一条天皇が聞いているような描写でした。これはあきらかにおかしかったです。たしかに、一条天皇は自分の病状が悪化し命も危ういことを知ることにはなるのですが、ちょっと事情が違います。実際の記録は以下の『権記』の通りです。
匡衡朝臣の易筮に曰はく、「豊の明夷、豊卦、不快」と云々。占ふ者、相示して云はく、「此の卦、延喜・天暦、御薬、竟はるに、共に遇ふ所なり。しかのみならず、今年、移変の年に当たる。殊に慎しみ御すべき由、去ぬる春、奏する所なり」と云々。「此れ等の旨、左大臣、覚悟し、二間に於いて権僧正と占文を見、共に以て泣涕す。時に上、夜大殿の内に御し、御几帳の帷の綻びより此の事を御覧じ、疑ひ思す事有り<『御病、重く困じ、大故有るべきか』の趣きなり。>。即ち御悩、弥よ重らしめ給ふ。時に此の遜位の議有り」と云々。「昨は重日たるに依り、今朝、此の案内を達す」と云々。後に聞く、「后宮、丞相を怨み奉り給ふ」と云々。此の案内を東宮に達せんが為、御前より参らるる道、上御廬の前を経。縦ひ此の議を承ると雖も、何事か云ふべきに非ざるや。事、是れ大事なり。若しくは隔心無く示さるべきなり。「而るに隠秘せんが為、告ぐる趣きを示さるること無し」と云々。此の間の事、甚だ多しと雖も、之を子細すること能はざるのみ
『権記』寛弘八年(1011年) 五月二十七日条(摂関期古記録データベースの書き下し文より)
この記事によると、道長は占いの結果を悲しんで、宮殿内(北対の二間)で人目をはばからず泣いてしまっていたところを、一条天皇(北対の夜御殿にいた)に見られたという話。当時の宮殿復元図などを見ると、この「二間」と「夜御殿」は同じ北対(中殿)内にあり、「隣の部屋」という感じの至近距離なので、事実とすれば道長はあまりに軽率だったと思います。
ドラマの方は、「占い~一条に露見」までを簡単にまとめたかったのはわかるのですが、占いそのものを病床の一条のいわば目の前で行い報告するというのはかなり違和感がありました。(出来事の日時も違う)。この話の肝は、その後、道長たちがうかつにも殿中で大泣きしたところを帝に見られ、一条が疑心を抱くところにあるわけですので。
道長と彰子の対立も描かれました。上記引用の行成の日記では、ドラマでも描写されたように、「彰子(后宮)が道長を怨んだ」ともあります。日記の続く部分には「上御廬の前を経」とあるので、道長は彰子の部屋にも立ち寄らず通り過ぎるという具合で、彰子には秘密裏に事が運ばれていたことがわかります。
一条院崩御については、次の見出しで。
今回は、台詞のない「間」が結構あって、個人的にはとても良かったと思います。
一条天皇の崩御と辞世
この時の辞世の句は、ドラマは『御堂関白記』を採用していましたが、『権記』とは若干ことなるものであることはよく知られています。以下にまとめます。
『御堂関白記』の記述
『御堂関白記』寛弘八年(1011)六月二十一日条。
二十一日、癸亥。此の夜、御悩、甚だ重く興り居給ふ。中宮、御几帳の下より御し給ふ。仰せらる、
『御堂関白記』寛弘八年(1011年) 六月二十一日条(摂関期古記録データベースの書き下し文より)
「つ由のみの久さのやとりに木みをおきてちりをいてぬることをこそおもへ」
とおほせられて臥し給ふ後、不覚に御座す。見奉る人々、流泣、雨のごとし。
全体として、かなりあっさりとした記述ですが、今回のドラマでは、こちらの辞世の句が採用。道長のこの記録では、御几帳の下にいた彰子に直接一条院が遺した歌ということになります。以下、歌の部分だけ再度引用します。
露の身の草の宿りに君を置きて 塵を出でぬる事をこそ思へ
【適当な現代語訳】
露の如くはかないこの身としては、消えゆく草の如きこの俗世に君を遺し、塵の世を去ってゆくことを思わずにはいられない。
『権記』の記述
『権記』寛弘八年(1011)六月二十一日条。
二十一日、癸亥。院に参る。召しに依りて、近く候ず。御漿を供す。仰せて云はく、「最もうれし」と。更に召し寄せ、勅して曰はく、「此れは生くるか」と。其の仰せらるる気色、尋常に御さざるに似る。去ぬる夕、御悩に依り、近習の諸卿・侍臣并びに僧綱・内供等、各三番を結び、護り奉る。御悩、頼り無し。亥剋ばかり、法皇、暫く起き、歌を詠みて曰はく、「露の身の風の宿りに君を置きて塵を出でぬる事そ悲しき」と。其の御志、皇后に寄するに在り。但し指して其の意を知り難し。(原文:但難指知其意)。時に近侍せる公卿・侍臣、男女道俗の之を聞く者、之が為に涙を流さざるは莫し。
『権記』寛弘八年(1011年) 六月二十一日条(摂関期古記録データベースの書き下し文より)
藤原行成の記録はかなり詳細です。近くに近侍した彼ならではの記録と言えます。以下、こちらも歌の部分だけ再度引用します。
露の身の風の宿りに君を置きて 塵を出でぬる事ぞ悲しき
【適当な現代語訳】
露の如くはかないこの身としては、風の如く消えるこの俗世に君を遺し、塵の世を去ってゆくのがなんとも悲しいことだ
道長の記録では「草の宿り」でしたが、こちらは「風の宿り」となっています。私は勝手に米国映画の『風と共に去りぬ』を思い出しました。あの話は南北戦争後に特権階級が没落して社会秩序が変わったことを示す題名だったかと思います。そう考えると、一条天皇の治世も様々な問題や変革があり、特に定子の死や中関白家の没落はまさに「風と共に去りぬ」という感じでした。(勝手な私見です)。
「君」は誰か
では「君」は一体誰を指すのでしょうか。
常識的に考えれば「君を置いて」なわけなので、生きている中宮彰子が「君」だと考えるのが普通です。そして、道長も一条が直接彰子にたいして詠んだ歌として記録しています。しかし、一方で行成は違う解釈をしています。上で引用しましたが、彼は「君」=定子と解釈しています。
今回ドラマでは、この行成が日記(『権記』)を書いているシーンが、大変印象深く描かれました。うまい描写だなと思ったのは、全ての文字を書かず、ちょうど書きかけの一瞬を切り取っていることです。ドラマで文字になっていた(書かれていた)部分だけを太字にして再度引用してみます。(括弧内は書かれていない部分を補った)。
(其)御志在寄皇后 但(難指知其意)
【適当な現代語訳】
そのお志は、皇后(=定子)に寄せたものだ。ただし、その本意を知ることは難しい。
行成は、定子を呼ぶ際には必ず「皇后」と書くので、行成はこの辞世の句が定子に宛てられたものだと解釈していることがわかります。
側に使えた彼なりにそう判断する材料があったのでしょうか。道長の場合は、「君」=彰子でなければならない立場でもあり、道長の記録が史実なのか何らかの改変があるのかはわかりません。そう考えると行成の「君」=定子という記録の信憑性が高い気もしますが、行成の記録の一番のポイントは上記のように「よくわからない」とも附記していることです。ドラマでは、上記のとおり「但」で筆を止めていたのがなかなかよかったです。
結局どちらが正しいかというよりも、その歌を聴いた人(私たちも含めて)がどんなイメージを持ったか(受け取り方をしたか)ということなのでしょう。
行成は、長年使えた一条と定子の絆を思い出したことや、意識朦朧としている臨終の一条の言動からそう(定子=「君」)感じたのかもしれません。
『源氏物語』の影響
これもよく知られていることですが、『源氏物語』の「賢木」にはこの辞世の句に非常によく似た歌が載っています。それは絶望した光源氏の歌です。(辞世ではないが)。おそらく『源氏物語』のこの部分は一条院崩御前には成立していたと思われるので、辞世の句にも影響を与えたと思われます。下記下線部の非常に珍しい表現が類似しているので、この歌が所謂「本歌」だったとも考えられます。彰子と紫の上を重ねたのか、それともそれは定子だったのか・・。
浅茅生の露のやどりに君をおきてよもの嵐ぞしづ心なき
【勝手な現代語訳】
ちがやが生える荒れ野の如く儚きこの世にあなたを残してきてしまったので、憂き世の激しい風嵐にさらされるあなたが心配でならない
そう考えると、一条の辞世の句を知った紫式部はたいそう驚いたのではないでしょうか。そんなシーンがドラマにあっても良かった気がしました。
一条院の葬儀
一条院崩御の際には、(ドラマでは描かれませんでしたが)道長が公卿たちに下殿を命じ死穢に触れないようにしたと言います。(穢れると行政が滞るので)。この際に行成は、一条院の側近として進んで穢れを受け入れ、後の葬儀まで携わったとのこと。この後、一条院の棺は、宮殿の築垣を破壊して大路に運び出され葬儀へ向かったようです。(この垣根を壊すのは当時の庶民にもみられた風習)。1
ちなみに、『小右記』の翌月七月十二日条を見ると、藤原隆家らとの会話の中で、一条天皇は周囲(彰子、道長、近習ら)に「土葬にしてくれ」と言っていたけれども皆失念(「忘却し」)していて火葬になったというものがあります。「みんな忘れてた」・・そんなことある??と思いたくなりますが、おそらく公家達の常識としては火葬というイメージだったこともあるのでしょう。(特に、当時譲位し既に上皇であった一条は当然火葬と考えられた)。当時は貴人は火葬というイメージでもありました。例外として定子が土葬(諸説あり)になった際には、かなり異例(『栄花物語』巻七「とりべ野」に「例の作法にはあらで」とある)と言われたようですが、一条院の希望も定子のことを念頭においたものだったのかもしれません。いずれにしても既に火葬が済んでしまっていた一条院の遺骨は、(陰陽道の規制に色々と触れて目的地へ移動できず)九年後にようやく円融寺に移されます。
今回の一条崩御の一連の出来事をドラマで見ていて、行成の存在がやはりとても気になりました。ドラマの行成についての描写は彼の『日記』にかなり忠実でしたし、彼の苦しい立場もよく描かれていました。道長に従う部下としての立場と、天皇に直接使え信頼された立場のジレンマは大きなものだったことと思います。
まとめ
さて、一条院も亡くなり、次の三条天皇の御代となりました。今後は道長の権力基盤の強化と共に、天皇との軋轢も激しくなってゆきそうです。
ちなみに史実では、数ヶ月後に伯父の冷泉院が亡くなっています。三代前の天皇ですが、実はそこそこ長生きをして、この時期まで存命だったのですね。にも関わらず、ドラマには一度も登場していなかったと思いますが、なぜカットされてしまったのか不思議です。
次回も楽しみにしたいと思います。
- 井上亮「天皇と葬儀―日本人の死生観」(新潮選書) ↩︎