毎度「天邪鬼」な大河ドラマレビューを書いております。批判的な分析を主旨としておりますため、世間一般の論調とはかなり乖離しているかと思います。そのため、ご不快に思われる方もおられるかもしれません。前もってお詫びいたします。(以下ネタバレも含みます)。本ブログは、素人による雑多な自由研究の備忘録であり、更新もかなりのんびりしております。悪しからず。
第46話「刀伊の入寇」感想
最初に周明に再会したシーンがありました。偶然すぎと言えばそうですが。「目の病を治す」という設定が、隆家と結びつける設定でしょうか。それにしても、当時の九州を女性が旅するという設定はなかなか無理がありますね。様々な出来事の中に主人公を置くという意味では必要だったのでしょう。
都の道長は出家した結果、かなり穏やかな表情になった気がしましたが、いずれにしてもまだまだ現世を無視は出来ず、周りはむしろそのような彼に安心していたようです。監修の倉本氏はこの時期の道長についてこう解説しています。
出家の効用か、三月二十三日や二十四日、二十五日には、道長が平癒したという報が、続々と実資の許に届けられた。二十九日には実資が道長の許を訪ねているが、実資は出家した道長を見て、「容顔は老僧のようであった」という感想を記している。また、実資は道長に対し、「そもそも山林に隠居するのではなく、一月に五、六度は竜顔(後一条天皇)を見奉ってはどうか」と語っている(『小右記』)。実資とすれば、頼通一人に任せるよりも道長が権力を行使し続けた方が、宮廷の安定につながると考えたのであろう。この面談に関しては、四月二日になって、倫子から、実資と道長の密談を悦んでいる(「悦気有り」)という報せがあった(『小右記』)。
倉本一宏『藤原の道長の権力と野望」』
このドラマの藤原隆家は、かなりソフトな雰囲気ではありますが、歴史上の隆家像に近い描写になっていると思います。ただ、髭はもうちょっとどうにかならなかったものでしょうか・・。
「刀伊の入寇」もなかなかうまく物語の中に配置されていました。(詳細は次の見出しで)。周明が死んでしまうのは、「予定調和」ではありますが、それなりにドラマチックに物語を盛り上げていました。
刀伊の入寇
「刀伊」とは、中国大陸北部の女真のことと考えられています。(「東夷」の朝鮮語だという1)。当時はどこから襲来したのかよくわかりませんでしたし、「新羅人」(実際は高麗)が乗っていたことから、「新羅」の襲来かと大騒ぎになりました。歴史書では「新羅」となっていますが、このころは既に「高麗」の時代でしたので、ドラマはそちらにあわせているようです。
「刀伊の入寇」では大宰府の実質上のトップである藤原隆家自ら勇敢に指揮をした結果、撃退に成功しています。その際に彼は「決して新羅(高麗)の国境を犯して追撃しないように」と厳命しています。(『小右記』寛仁三年四月二十五日条)。彼が国際関係に鋭い洞察をもっていたこともわかります。
「刀伊の入寇」は隆家の奮戦が有名ですが、記録を見ると官府の兵だけではなく大勢の武人や地元勢力が戦闘に参加しています。この出来事は、律令制下の兵制が既に限界だったことを物語っています。隆家の物語は後に伝説化し脚色されてゆきますが、彼は決断力に優れた指揮官ではあっても実際は貴族です。彼の側近や地元勢力の軍事力が速やかに発動できたことに注目できます。こういった勢力がのちに「武士」となってゆくのでしょう。
この時の顛末が、『朝野群載』巻第二十に記録されています。(平安後期三善為康による文集)。以下、ごちゃごちゃと見にくいですが本文を引用しつつ、赤字で適宜(適当に)解説や意訳を入れております。青色で塗りつぶしている人物は、今回のドラマに登場した人物です。そのほかの人名は青色下線です。(細かい部分に誤りがあるかもしれません。悪しからず)。
件賊船五十余艘,来着対馬島、劫略之由、彼島去三月廿八日解状
今月七日(4月7日)到来。即載在状言上先了。且整舟船、警固要害所々。然間壱岐島講師常覚。同七日申時来申云、合戦之間、島司及島内人民、皆被殺略。常覚独逃脱者。
(参考:『日本紀略』寛仁3年4月17日条:公卿参入、被行小除目。大宰府飛駅使乗馬馳入左衛門陣。是刀伊国賊徒五十余艘起来、虜壱岐島、殺害守藤原理忠、并虜掠人民,来筑前国怡土郡者)。同日襲来筑前国怡土郡、経志摩早良等郡、奪人物焼民宅(※人や物を奪って家々に放火した)。其賊徒之船、或長十二箇尋(※海賊船の大きいもので20mほど)。或八九尋、一船之檝、三四十許、所乗五六十人(※一艘に5、60人載乗っていたらしい)、二三十人。耀刀奔騰、次帯弓矢。負楯者七八十人許、相從如此、一二十隊。登山絶野、斬食馬牛、又屠犬肉。叟嫗児童、皆悉斬殺、男女壮者、追取載船四五百人。又所々運取穀米之類、不知其数云々。・・事出慮外、要害地広、雖召人兵、来未多。雖整舟船、勢未□。(※海岸線の長さや兵が集まらず防衛に苦慮した)。雖然与所差遣兵士(※大宰府招集の兵)、并彼郡住人文屋忠光等、合戦之場、賊徒中矢者数十人、或扶以載船、其中追所斬首数輩、兵士等中矢十余人。(※大宰府兵とともに、地元の文屋忠光が迎撃している)。
同八日、移来同国那珂郡能古島、・・・以前少監大蔵朝臣種材、藤原朝臣明範、散位平朝臣為賢、平朝臣為忠、前監藤原助高、傔仗大蔵光弘、藤原友近等、遣警固所、令相禦。(※これらの武者たちを警固所に派遣して防備にあたらせた)。
同九日朝、賊船襲来、欲焼警固所(※警固所で戦闘)、距却之間、奮呼合戦、其間中矢者十余人、賊徒遂不能前戦、還着能古島。(※この時は撃退に成功)。
(参考:『小右記』寛仁三年(1019)四月二十五日条:同九日、博多田に乱り登る。府兵、忽然と徴発すること能はず。先づ平為忠・同為方等、帥の首と為て、合戦に馳せ向かふ。異国軍、多く射殺さる。戦場に留めず、船中に持ち入る。又、棄て置く者有り。又、生虜となる者等有り。又、兵具・甲冑を奪ひ取る」てへり。「一船の中に五・六十人有り。合戦の場、人毎に楯を持つ。前陣の者、鉾を持つ。次陣、大刀を持つ。次陣、弓箭の者。箭の長さ、一尺余りばかり。射力、太だ猛し。楯を穿ち、人に中つ。府軍の射殺さるる者、只、下人なり。将軍たる者、射られず。馬に乗り、馳せ向かひ、射取る。只、加不良(※鏑矢)の声を恐れ、引き退く。<『刀伊国の人の中、新羅国の人等有り』と云々>。)2其後二箇日風猛波高、不能相攻。(※この日は悪天候で来襲はなかった)
十一日未明、同国早良郡至志摩郡船越津、先是分遣精兵、予令相待。(※船越津の防備を固める)。
同十二日酉時(※夕方)上陸、与大神守官(宮)権検非違使(財部)弘延等合戦、中矢之賊徒卌余人、生得二人、其中一人被疵一人女。少弐平朝臣致行、前監種材、大監藤原朝臣致孝、散位為賢、同為忠等差加兵士、以船卅余艘、令攻追。
同十三日、賊徒至肥前国松浦郡、攻劫村閭。爰彼国前介源知、率郡内兵士合戦、中矢者数十人、生得者一人、賊船不能進攻、遂以帰、劫藤白兵船等攻戦云々。(※戦闘の末撃退し、賊は帰った)
『朝野群載』巻第二十「異国」寛仁三年(1019)四月十六日「大宰府言上撃取刀伊国賊徒状解」
ここで戦闘に携わった人たちについて、関幸彦氏の参考書『刀伊の入寇』内の分類にしたがってまとめて見ます。3 (ドラマに登場した人もいますし、そうでない人もいます)。
これはあくまで関氏の分け方ですが、なかなか分かり易い分類だと思います。「ヤムゴトナキ武者たち」は地方赴任後に土着したり、地方に在住しつつも中央とのつながりを保つ、「王臣子孫之徒」とも言われる人たちでした。また、「住人」は地元の名士で府官の武者として府の軍事力をささえた存在でした。
こうして、10世紀の「承平天慶の乱」を経て11世紀初頭の「刀伊の入寇」の頃には新しい軍の在り方へと変化が始まっていたのです。武士の時代の門口にやってきたということでしょうか。「刀伊の入寇」という大事件は、日本史においても一つの画期となったと言えます。
あくまで今年の大河は紫式部の一生ですから、本来「刀伊の入寇」自体は彼女にとってあくまで遠い世界の出来事ではあったでしょう。(生きていれば都にいたでしょうから)。ドラマですから、今回のような「まひろ」の冒険譚も良いのですが、都にいるからこそ遠くの出来事がわからない時代をそのまま描いてほしかった気もします。つまり、「まひろ」は旅に出ず、「刀伊の入寇」も直接描かずに朝廷に届く書状だけでドラマが展開するという(マニアックな)筋立ても面白かったのではと思うのです。もちろん、そんなニーズはないでしょうけれども・・。
まとめ
今回は「刀伊の入寇」ということで、平安絵巻を中心とするドラマとしては異色な回となりました。実際の襲来はかなりの規模のもので、被害も想像を絶するものでしたが、予算もあるのかかなり地味な印象でした。それでも、当時の人たちの戸惑いと勇気を感じることはできました。
次回は、これも有名な「論功行賞でもめる」という話のようですが、どのように描くのか楽しみです。残すところ数回となりましたが、最後まで楽しみにしたいと思います。