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中国ドラマ「将夜」感想(2)

中国ドラマ

このブログは、2021年に書いたLIVEDOORブログからの引越記事です。一部を改編して再掲載しております。

前の記事の続きで、「将夜」の感想です。ちなみにアイキャッチ画像は、舞台になった「ナラティ草原」。

今回は主に、原作小説を中心に、ドラマ版と比較しつつ感想を書きたいと思います。原作は本来Web小説なので、電子媒体で公開されていたわけですが、すでに紙媒体もいくつか出ています。上記の写真は、「武漢出版社」から4巻ほど出たものの1巻目の表紙です。今(2021年)のところ4巻(たしかWeb原作の2巻目あたり?)で出版が止まっていると思います。ほかの出版社からもその後出ているようですが、よくわかりません。

原作自体がかなり難解なため、ドラマを理解するためにも、原作を理解しなければならないのがこの作品の問題であり面白さだと思います。この難解さと、政府の検閲にあうような改編が難しかったことがシーズン3が作られなかった原因とも言われます。

最近はIP(Intellectual Property:知的財産)という言葉が日本でも使われるようになりましたが、中国ではネット上などでも普通に使われます。この『将夜』は男性IPと言われ、男性向けの物語ということなのですが、なるほどまさにそういう感じです。

それで、ここでは原作の世界観の説明を(大まかに)したいと思っています。こちらも一部ネタバレな部分がありますので、未読の方はご覧にならない方がよいかもしれません。

自分としてはドラマを見ても世界観がよくわからなかったというのが正直なところなので、原作の情報も必要かと思うに至りました。もちろん、著作権の関係もあるので、ネタバレの度合いや引用の度合いには限界もありますが、若干の情報や感想を以下にまとめたいと思います。

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現時点でPrime Videoではもう観られませんが、名作です。

原作の話の「長い」要約

非常に難解なのですが、大まかに要約すると次のような話です。(中国語の未熟さ故の誤解などがありましたらお詫びいたします)。

1.この物語世界に伝わる「伝説」

大まかに言って、この世界では以下のような「伝説」が言い伝えられています。

『将夜』の基本となる伝説

千年に一度、冥王は「永夜」をもたらし、人類は滅びると信じられている。(ちなみに、この永夜の頻度は色々な読者の解釈で論争がありますが、4巻76章では数万年の人類史で臨界点に達して「永夜」をもたらすとも書かれているので、さらに長いスパンがあると考えられます)。この話の時点でこの「永夜」の兆しが現れているとされ、再び来るであろう「永夜」を阻止するには、「冥王の子」を探し出して殺す必要があると信じる人たちがいる。

人類の多くは昊天(神)を信じているのですが、特に「西陵」(ちょうど昔のローマカトリックのようなもの)は自らが昊天(神)と「正道」を体現する存在であると信じ、各国に影響を及ぼしつつ上記の伝説に基づいて「冥王の子」を探します。特に西陵の光明大神官である衛光明は、冥王の子が唐に降誕したと考え、自らの信念に基づいて行動を始めます。直接的にはこれが物語の端緒です。

このある種の「終末思想」がこの小説の一つのテーマであり、それを信じる宗教勢力、政治勢力、一般大衆などが様々な思惑で動き、主人公寧缺とヒロイン桑桑はこの渦中に巻き込まれてゆくという話です。(これはドラマとも同じです)。

2.テーマは神と人間の戦い

重要なのは、上記の言い伝えはあくまで「伝説」であるということです。つまり、人間が信じていることと、事実との間には乖離や誤解がありうるということが重要です。

この物語では実際に前回の「永夜」を経験した人がいます。当然、想像を絶する寿命を持つ超人でなければ、「今」も生きているはずはありません。この話では、ドラマでも出てきましたが、「酒徒「屠夫」という二人の老人が出てきます。一見無力な老人ですが、超人的な修行者の能力を持ち、前回の「永夜」をなんとか生き延びました。

こうなると、実際何が起きたのか、この2人に聞いてみようということになるわけです。もちろん、このようなことを思いつく(そして彼らを発見する)のは一般人では難しいわけで、ここで登場するのが、「現在」世界で最強を誇る「夫子」です。大唐を建国させ、書院を設立したというこちらも大変な長寿で超人なわけですが、前回の「永夜」は知らないようです。(この点は議論があり、夫子も経験していたと主張する人たちもいますが、そうすると夫子がこの2人に会いたがっている理由が弱くなります)。

ちなみに、小説ではドラマでは語られなかった夫子の経歴が語られます。(シーズン2の18集で、桃山で焼き芋を食べるシーンの部分)。

原作での夫子の経歴

彼は魯国(今はない国)の出身で、当初は官吏になります。これはまさに孔子(夫子)を連想させます。その後30歳で修行者の道に入り、西陵で司書のような仕事をしていました。そこで読む物がなくなるほどの知識を得た結果、いろいろ疑問を持つようになります。親友との出会いがあったり、西陵の権威である「知守観」の天書を一緒に盗み見に行ったりといろいろな経験をします。特に、この天書の中の「明字巻」は大きな影響を与えることになります。後に親友とは別の道を行くことになり、その親友は西陵の光明大神官になります。この光明大神官は後に「荒原」に伝道に行ったおりに「明字巻」を持ち出し、新たな宗派「魔宗」を打ち立てることになります。ドラマでこの行方不明になった天書を夫子が昔(友から)受け取ったと述べるシーンがありますが、このような事情がわかっていると理解しやすいと思います。

この物語では、このように宗教も一つの重要な要素ですが、ついでに言及しておきますと、西陵の「天下行走」(広報官)である葉蘇(葉紅魚の兄)は、西陵に背を向け「新教」を始めます。西陵がカトリックに着想を得ているとすれば、これもまた面白い設定です。原作で葉蘇は十字架で死にますので、まさにイエスを念頭に置いていることは間違いないでしょう。ちなみに、ドラマでは名前を変えて「葉青」としています。検閲などの関係から宗教性を薄めているのしょうか。このような「配慮」は原作で色濃い仏教色が薄められていることからもわかります。

話を戻して、夫子が「酒徒」と「屠夫」を数百年も探していたのは、「永夜」の実態を知りたいということと、「永夜」を止めるための協力を得たいからでした。夫子は「現在」の多くの人が信じている「伝説」が事実とは違うことを理解し始めていました。「永夜」をもたらすのは「冥王」ではなく、なんと神である「昊天」であるという事実です。

この事実はドラマのシーズン2((19話あたり)でも語られていますが、昊天は「修行者」を「食べる」ため「永夜」をもたらすのだというものです。自らは人類からの信仰を集めつつ、「冥王」を仕立て上げて「終末」を設定し、「肥え太らせた」人類を一定期間で「収穫」し「食べる」というのです。これは全人類を滅亡させるということではなく、夫子や酒徒、屠夫のような「修行者」をいわば良質なエネルギーとして吸収するということのようです。(そうでないと人類を再創造しないといけない)。つまり、昊天は人間が脅威にならない程度に「肥え太らせ」リセットしているというのが、(原作小説の)真実の歴史のようです。もちろん、それに伴う「気候変動?」などで、一般の人間も多くが命を落とすことも事実です。

夫子は、このような昊天の計画を知り、人類は昊天と戦って勝利できると考えるようになります。この話は、夫子を初め人類が昊天に勝利するというのが大まかなテーマです。ドラマでもいろいろな部分で出てくる小師叔・柯浩然は、昊天に戦いを挑んで死んだ人だということも重要です。柯浩然は過去の人として登場しますが、夫子が弟子にしたかったけれども拒まれ、師弟にしたという独特の経歴の持ち主です。

昊天は昊天で、夫子の計画を察知し、なんとか出来ないものかと考えます。「酒徒」と「屠夫」が前回の永夜を生き残ったように、昊天が天にいる限り、地上に対しては若干の死角が発生するようです。夫子の計画についても、昊天が天にいるのでは良く把握できないという設定です。そのため、昊天は自分の分身を桑桑という形で地上に誕生させ夫子の計画を阻止しようとしたのです。

それに対し夫子は、ドラマのシーズン2でも出てきたドラゴンとの戦いあたりで、桑桑(昊天)の正体を改めて正しく確認します。その結果、夫子と桑桑の正面決戦は避けられなくなり、夫子は月になり(月は元々存在しない設定)、昊天の正体を現した桑桑は夫子によって天界へ帰れなくなります。いわば相打ちですが、これは夫子の計画通りことが運んでいることにもなります。

この夫子の計画を継承して、寧缺たちが新しい世界を作ってゆく、そんな話です。結末は、原作を見てのお楽しみです。私はなんとなくほっこりしました。(追記:この部分は後日、続く記事で改めてまとめました)。

重要なのは寧缺の出自

この話で寧缺の存在が非常に重要なのは、彼が「タイムトラベラー」であるということです。子供として生まれているので、前世の記憶を持ったある種の生まれ変わりでしょうか。(以下タイムトラベラーで統一します)。「穿越者」という言い方を中国語ではするようですが、細かく言えばトラベルなのか、スリップなのか、リープなのかなどいろいろ定義はあるでしょう。あるいは記憶をある程度留めた輪廻転生なのかまではわかりません。

ドラマ版では検閲に苦労したと前のブログで書きましたが、おそらくこのあたりが引っかかったものと思われます。2011年ごろから(この頃公式のニュースにもなった)、タイムトラベルものはドラマの検閲を通らなくなってきているようです。そのため、同じ原作者の作品『慶余年』のように、ドラマ化にあたって苦しい工夫が必要な場合もあります。『慶余年』の場合は、「穿越者」設定を全くなくすと、物語自体が成立しないので苦しい改編となりました。一方で、『将夜』はこの設定がなくても、ある程度の物語は描けます。ただし、私はドラマ版でこれをぼかしたせいで、いろいろな部分の理解ができなくなったと思っています。(そう考えるとシーズン3は不可能だったとも言える)。

さて、寧缺がタイムトラベラーであることは、原作ではかなり露骨に書かれています。以下はその例です:

原作から分かること
  • 第1巻5章「睹无月思怀」で故郷を思いながら「今天还是没有月亮啊」と言っている。(この世界に存在しない月を「月がないな~」と言っている)。
  • 第1巻17章では、「醜いアヒルの子」の話が出てくる。これは寧缺が李漁に語った話だが、ドラマでは李漁の話になっている。
  • 第1巻34章では寧缺の理想の生活の中に「窗外有明月一轮」という言葉が出てくる。現実は「虽然窗外依然没有明月」
  • 第1巻36章には王羲之の「喪乱帖」が出てくる。(その内容の説明までされる)。
  • 第1巻81章「书院里的燕国教习」には「前生后世」の言及がある。
  • 第2巻172章「 松鹤楼纪事(下)」で 「あなたは月を見たことがないでしょう」という台詞がある。
  • 第2巻200章「夫子論夜」では月について夫子に説明している。その際、「他无法解释自己为什么能够形容并不存在于这个世界的月亮。」(大意:なぜ存在しない月について説明できるのかわからなかった)とある。この場面は、寧缺が初めて夫子に出会う場面だが、ドラマ版では逆に夫子が月の話をし、寧缺は月を知らない形に変更された。しかし、これでは寧缺の本来の姿が消されてしまい、物語全体の理解にも影響を与える。
  • 第4巻67章「雪海拾鱼及遗」は、ドラマでは夫子がドラゴンを退治したあとの3人の旅のシーンに当たる部分で、昊天が人間を「食う」という話で夫子と寧缺が言い争いをするシーン。ここで、寧缺は太陽についての知識を無意識に披露している。「现在却已经渐渐淡忘的那个世界」とあり、忘れつつある別世界の記憶への言及がある。
  • 第4巻69章ではもはや「莫比乌斯环」(メビウスの輪)まで飛び出すので、決定的。夫子は「何それ」と聞き返す。また「最大的区别其实不是星星,而是月亮」([この世界との]一番の違いは星ではなく月)という言葉も寧缺から飛び出す。
  • 第4巻70章では、米国映画「トゥルーマン・ショー」への言及とおぼしきものもある。(中国語では「楚門的世界」なので、本文では「なんとかの世界」という風に言及される)。日本のアニメ「犬夜叉」と思われるような言及も。
  • 第4巻74章「那些年,我们一起逆的天」でついに夫子から、「你来自另一个世界」(あなたは別の世界から来た)と言われる。

つまり、この物語世界では寧缺の存在こそが、昊天にとって「計算外」の存在だということになります。それまで、夫子は様々な分野の弟子を取り、いろいろな試みをしましたが、この世界の人間である以上は昊天には何の力もなかったのです。その点では、夫子の行動さえ昊天に読まれる可能性がありました。それゆえ、寧缺は別世界(別の時代)からの来訪者なので、夫子の計画には非常に重要な存在になりました。(このあたりの細かい設定は、マニアの間でいろいろな議論があります)。

しかし一方で、昊天にとっても興味の対象となったのです。私の解釈では、(桑桑として)寧缺に近づいたのは昊天の計算の内ということなのだと思います。

寧缺や桑桑の存在は、夫子に興味を抱かせるものでしたが、夫子でさえ最初からすべてを理解したわけではありませんでした。これは前述の夫子が天に昇る前のドラゴンとの戦闘時に確信に変わったようです。実は、おそらく大師兄も桑桑については当初から何か気づいたようで、結婚の際も反対したのでした。(当初は冥王との関係を疑っていたらしい)。

ドラゴンとの戦いの際に「人間の力」(人類の力の意?)を注入された昊天は、夫子をついに「発見」することになります。(この時の夫子は桑桑が冥王の子だと思い、それを制御するために「人間の力」を入れた)。この結果、夫子と昊天との直接対決は避け得なくなったのでした。この際、昊天は数日をかけて夫子を見定めることになり、夫子も桑桑を観察することになります。ドラマではこの数日の旅の様子を印象的に描写していました。(▼こんな風景もありました)。

魔宗の山門が現れた「大明湖」は、新疆のサリム湖

しかし、これが逆転のチャンスとなりました。夫子は、いろいろな人間的な生活を営ませ、昊天の内にある程度の人間性を植え付けることには成功したのです。

原作との違いについていくつか

これは数えればきりがありませんが、今回は興味深かった以下の点だけ挙げたいと思います。

寧缺と桑桑の関係性

もちろん、主人と侍女という関係はあるのですが、原作ではお互いかなり対等な関係なのです。登場時、寧缺が15、6歳、桑桑が11,2歳ですから、ある程度の依存度は桑桑側にもあるでしょうが、渭城では桑桑は「少爺」とは呼ばず、「寧缺」と呼んでいます。渭城を出るときに、設定として一応今後は「少爺」と呼ぶようにと寧缺から言われるのです。

桑桑の描写

小説で桑桑は細身で色黒であまりかわいくはないのです。昊天になった桑桑は大柄でグラマラス。顔も普通。(この「普通」が強調される)。昊天(天女)が楊超越ではちょっとかわいすぎる感じはします。この雰囲気の描写は、小説の結論にかなり深く関係すると思います。(追記:これは後のブログで詳しく書きます)。

三師姉余帘

彼女は、原作では非常に神秘的な人物で、ドラマでも元々魔宗の宗主だったと明かされます。原著では、彼女はもともと男だったと思われ、原因については論争がありますが、女になったのです。夫子に初めて出会ったとき、彼女は想わず抱拳礼をしますが、慌てて女性風の挨拶をし直します。ドラマ化ではこのあたりの背景を含めた余帘の描写が難しかったので単純に女性としてのキャラになったのかもしれません。(武侠小説などでは江湖の奇人などでよくあるタイプ)。

掌教を倒したあと、小説では余帘が直接驚神陣の「陣眼杵」を寧缺に届けに行きます。町なかで出会うのですが、そのとき余帘が12,3歳ぐらいの少女(の外観)だったので、寧缺も気づかなかったという下りは面白いです。

割愛されたシーンで印象深いもの

当然ドラマ化にあたってはたくさんのシーンが割愛されていますが、個人的に印象に残ったものを2つほど。

余帘が皇后夏天と再会するシーン 

ドラマではこれが割愛されていました。場面は最初の閥唐大戦の合間です。7日間の間になんとかしないと…というのがドラマ(シーズン2中盤)でも出てきました。

私としては、この二人の再会シーンがあるのとないのとではかなり話の理解が変わる大事なシーンだったと思います。つまり、立場としては元魔宗の宗主であった余帘に対して、皇后夏天は元魔宗の聖女という目下の存在です。この二人が出会うというシーンは大変重要で深い感情が関係した場面になると思うのですが、ドラマではまったく二人が会う場面はありませんでした。(二人は会わないまま、皇后は自殺してしまう)。これはとても残念な脚本でした。

原作では、西陵の掌教を倒した後、余帘は皇后に出会います。皇后が(余帘の風体が変わっていたため)最初は怪訝に思いつつも、「是……老师吗?」(まさか・・師父なのですか?)と尋ねるところは名場面です。余帘は若くして年上の弟子達を持っていました。夏天もその一人。彼女は書院にかつての師父がいたとは夢にも思わなかったようです。

再会を喜ぶ二人、そしてそこにやってきた新しい弟子唐小棠を紹介し、師姐妹の顔合わせになります。これらのシーンは、複雑な将夜の相関図を理解する上で非常に重要だと思うので、ドラマでカットされていることが残念です。

夫子が昇天したあとの描写 

ドラマでは夫子が昇天したあと、雪が降りますが、原作では大雨が降ります。ずっとやまない雨で、多くの災害が起こります。重要なのは、その後唐王が崩御したあと、急に雨がやむ部分の描写です。ドラマでは、「夫子は月になりました」というようなさらっとした扱いでしたが、原作ではそうではありません。雨が降る期間がかなり長いのと、雨がやんだ後雲が切れて夜空に急に大きな光るもの(月)が表れたときの人々の驚きようが描かれています。考えて見れば、見たこともないものが表れたのですから、これは吉兆か凶兆かと大騒ぎになるわけです。この部分をドラマ版でカットしてしまったのは非常に残念です。もちろん、我々は月がある時代に生きているので、なんの不思議も感じませんが、この物語の中の人類が感じたであろう驚きは非常に重要な要素だったと思います。この点で原作の描写は非常に緻密です。

独断と偏見での一番のお気に入りシーン

最後に一番のお気に入りシーンについて書きたいと思います。それは、原作では第3巻60章「涧畔句句错,不想错过」以降の数章(特に68)、ドラマではシーズン2の第3話です。

これは、桑桑の「病気」がひどくなってきて、夫子の勧めで岐山大師に治療をお願いに行く場面で、「盂蘭節」に集まる人たちの中で、莫山山と再会する場面です。桑桑はちょっとの嫉妬があるのか、寧缺への気遣いなのか、二人だけで話す機会を作ってあげます。(その割に気になって仕方がない)。

私がしみじみとするのは、その後、道行きを同じくしつつ山山と桑桑が馬車の中で話す会話です。最初桑桑は、自分は昔から注目されたことがなく、いつもみんな寧缺を見ていたことや、彼が本当に輝いているからみんなに愛されるんだというようなことを語ります。桑桑は容姿にも自信がないし注目されるのが苦手なのです。そう語る桑桑を見る山山の表情はどこまでも温かくて切ないものです。

原作の山山は、「 至少在宁缺眼里,桑桑你是漂亮的」(少なくとも寧缺の目から見れば、あなたは綺麗よ)と言います。桑桑は、「でも自分はやっぱり綺麗になりたいので、長安に帰ったらいい化粧品を買うんだ」と言います。

でも、この部分はドラマの方が良く出来ていると思います。やはり女性監督ならではの細やかさが出ているのです。ドラマ版の山山の台詞は「至少在十三先生眼里,桑桑你是最漂亮的」です。「寧缺」と呼ばず「十三先生」と呼ぶのは桑桑への遠慮と気遣いでしょうし、「最」を入れたのは、自分も含めてどんな女性もあなたには及ばないという強調にもなっていると思います。その結果、桑桑は泣きそうな笑顔になって喜ぶのです。(ここで私も年のせいか涙腺崩壊)。これはもう監督と脚本の改編に脱帽です。

続く部分で、桑桑は山山に「少爺のこと好きでしょう?」と尋ねます。原作では、ここまで桑桑は「寧缺」と呼んできたのが急に「少爺」になるのは心情の変化を描写しているのでしょう。

ちょっとびっくりしつつも山山は「うん」と答えます。それに対して桑桑は、「今はだめ」と言います。当然山山はやはり「うん」と答えます。でも少し間を開けて桑桑は「私が死ぬまで待ってね」と言うのです。これにはもう山山も(私も)参ってしまいます。ここで桑桑は、山山への嫉妬より好意が勝り、自分が死んだ後は「少爺」のことを宜しくと考えたのかもしれません。それは同時に寧缺への気遣いでもあるのでしょうか。

このシーン全体は、大筋でドラマと原作で同じなのですが、この場面について言うとやはりドラマの方がよく描けていると思います。二人の優しい表情や切ない表情、間の取り方などが秀逸です。

終わりに

以上(ダラダラと)ドラマと比較した小説版についての感想を書かせていただきました。

ドラマは、結局シーズン2止まりになったので、最後の部分は描かれませんでした。小説ではさらに難解になってゆきつつ、新しい世界が創造されることになります。(追記:後のブログで結末にも言及します)。

今作は(ドラマも含めて)、宗教や民族、既成概念などにとらわれた人たちを描き、その枠にはまらない生き方をしようとする人たちや、人生の荒波に翻弄される人たちをうまく描いています。単純なヒーローものではなく、人生の苦悩を描きつつ、人の温かさも同時に描いている点がこの作品の魅力なのでしょう。特にドラマ版は、最近非常に多い、アイドル武侠(仙侠)ドラマとは一線を画すものであり、高く評価されてよいと思います

大まかにでもこの物語の世界観を理解すると、ドラマも理解しやすくなるのではないかと思い、自らの備忘録も兼ねて書かせていただきました。この作品については様々な解釈が存在しますし、長期連載であるゆえに、一貫性が保持し切れていない面や矛盾点もあります。特にドラマ版は、最後まで通して見た後に、もう一度最初から見ると色々な発見があるかもしれません。

なかなか面白い作品に出会ったと思います。長文お読みくださり感謝いたします。(追記:▼「将夜」感想(3)へ続く)。

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