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「清明上河図」(清院本)の風景~その1

世界史

2010年にこの記事の旧版を旧ブログに書いたのですが、その後2012年には東京国立博物館に「清明上河図」のオリジナルとされる張択端本(宋本)が来日するなど、話題になっていたのを思い出します。「清明上河図」は、その細かな描き込みが面白く、見れば見るほど面白いものです。今で言えば「ウォーリーを探せ」とか安野光雅さんの画のような描き込まれた絵本を見る楽しみもありますし、日本の洛中洛外図や合戦絵巻を眺めるような魅力もあります。

「清明上河図」の種類と歴史

「清明上河図」についての研究は長い間なされており、未だに諸説入り乱れている感じもあります。以下は、あくまで素人がまとめたものであり、学説も様々であることを最初に申しあげておきます。(中国語の資料については、読解しきれていない可能性があります)。

オリジナルとされる「宋本」以後たくさんの模本や違ったバージョンの「清明上河図」が世にでました。多くの人達に愛されたテーマである「清明上河図」について、台湾の「国立故宮博物院」はこう解説しています。

歴代の画家たちはそれぞれ違った視点から新しい習俗や文化を取り入れつつ、その時代ならではの「清明上河図」を描きました。模写や模倣作なども加えると、現代まで伝えられた作品は膨大な数に上り、百巻を超えるとも言われます。

台湾「国立故宮博物院」内「清明上河図特展」公式サイト(日本語)より。

今日では「宋本」、「仇本」(明本)、「清院本」と大きくわけると3通りの流れがあるようです。今回は「宋本」の来歴と、「清院本」の風景を中心に考えてみます。

宋本「清明上河図」(オリジナル)

図1 有名な虹橋のシーン。変色はあるが細かく書き込まれている。(宋本「清明上河図」)

オリジナル版とされる「清明上河図」(宋本)は、北宋末期の官僚であり画家であった張択端の作です。画の中には作者の署名や落款はないのですが、金代(南宋と同じ時代)の張著という人がこの巻物の末尾に最初の跋文(所有者や鑑賞者が追加した後書き)を付加し(図2)、作者「張択端」の名とその簡単な経歴を記載しています。

図2 張著の最初の跋文

書かれた時期

書かれた時期については諸説があり、時代が下って南宋という学説まであります。(張著の跋文は金・南宋の時代なので、南宋が下限になる)。定説では跋文の通り北宋末期とされています

さらに、張著以降の(次々と付加された)跋文も作成時期についての情報を教えてくれます。特に、明代の李東陽(内閣首輔経験者で、著名な文人)が書いた跋文二つ(図3の赤枠)のうち「第二跋」で、このように解説しています。(あわせて下の年表も参照)。

図3 清明上河図(宋本) 跋文全体(赤は李東陽の跋文部分)

此圖當作於宣政以前・・卷首有祐陵瘦金五字籤及雙龍小印,而畫譜不載

(私訳)
この図は宣和・政和(1111~1125年)より前に作られた。巻頭には、祐陵(徽宗のこと)の痩金体の五字の表題と「双龍小印」がある。しかし、(宣和)画譜には載っていない。

宋本「清明上河図」李東陽第二跋文より

ここで李東陽は、この画が「宣和・政和より前」つまり1110年以前に描かれたとしています。その理由として、徽宗は政和、宣和以降の書画には印(「政和」、「宣和」等の印)を押す決まりを作っているけれど、この画にはそれがなく、「双龍小印」(円形で龍が向き合っている文字のない印影)が押されているだけであることや、宣和画譜にも掲載がないことから、「宣和・政和より前」と考察しています。

また、この何気ない記述からわかるのは、李東陽の当時は、徽宗自ら書いた(とおもわれる)痩金体の「清明上河図」という五文字の表題が巻頭にあったということです。しかし、巻頭部分が少しずつ汚損して表装する際に切り落とされてしまったものと思われます。1 これは大変残念なことです。(このあたりは諸説あり)。

もちろん、そのほかにも、画の中の人達の服装(特に女性の服装)や、当時の外戚向氏に下賜されているらしい(この点は跋文の解釈にも諸説あり)ことなども作成時期の参考になるようです。近年では大体1102年~1108年ごろを完成時期とする説が多いようです。

なぜ描かれたのか

基本的に、この画は北宋の首都開封(汴京)をイメージしつつ、フィクションとして描かれたとされます。(開封の地理と一致しないので)。そして、内容はそのまま見れば、その繁栄を描いているものです。「清明」という言葉の解釈もいろいろありますが、「宋本」はやはり清明節(旧暦の3月ごろ)を描いていると思われます。「宋本」では炭を運んでいるシーンもありますので、まだ寒さが残る時期のようです。また、このころの気象はかなり寒冷な時期だったようで2、異常気象も続いていたようですから、なおさら「春は名のみ」という感じだったでしょう。それでも普通に見れば、繁栄と平和を祈念する作品に見えます。

その一方で、繁栄を極めた社会の斜陽を風刺し批判する作品であるという研究者もいます。北宋末期の商業的繁栄の裏側で、画家は当時の社会のさまざまな欠点と矛盾を明らかにしようとしているとします。ここでは画像を挙げませんが、おびえた馬が混雑した都市に突入すること、橋の危険、道路を確保するために争う役人、飲酒の問題、道路や橋の不法占有、防火体制の欠如、都市防衛の欠如など、画の中の不穏な雰囲気を読み取ります。3 それは、この画が作られた時期の政治(新旧党派対立や蔡京の独裁など)や世相を反映していると解釈するのです。 

この意見は無視出来ない学説だとは思うのですが、個人的にはその後の歴史(亡国)を知っている私たちの見方なのかなとも思います。つまり、「宋本」そのものに批判や警鐘といったメッセージがあると考える場合には、「繁栄した北宋が滅んだ」という歴史的事実を知っている私たちの情報や感情を投影しすぎないようにする必要もあるのではと思います。(もちろん研究者たちには、これは釈迦に説法ですけれど)。

あくまで私見ですが、この「宋本」は単純にある種の理想を描いた作品ではないかと思います。しかし、色々な説を調べるのも大変面白いものです。謎に満ちた「宋本」については、今後も議論が続くのでしょう。

「宋本」がたどった道

「宋本」のたどった道を追いかけるには、他の歴史上の記録と、何度か言及してきた末尾の跋文が重要な役割を果たします。(跋文を書いた人は必ずしも所有者ばかりではない)。以下に簡単にその歴史をまとめます。黄色マーカーは「五進四出」(5回入宮し4回流出の意)とも言われる大きな移動を示します。

「清明上河図」宋本のゆくえ
  • 1102~
    1108?
    北宋、徽宗時代前半ごろに、張択端によって作成され宮中に(異説あり)
  • 1127
    靖康の変で北宋が滅び、画も民間へ
  • 1186年
    張著が最古の跋文を記入

    年号が大定(丙午=26年)とあるので、金の領土にいた人とされる。

  • 1260
    元の宮殿に入る

    元末の順帝の時代(1340~)に宮殿の匠官が持ち出して政府高官に売り、民間へ流出。その後、転売され1351年に楊准に売られる。楊准は出身地である南方へ帰るが、そこで1354年に劉漢が鑑賞し跋文を書いている。その後、1365年には静山の周氏の所有となっていて、李祁が鑑賞して跋文を残している。

  • 1368
    明の建国

    大理寺朱鶴坡(朱文征?)の元に画があり、呉寛は1461年に跋文を書き、李東陽(李祁の子孫)は1491、1515年に跋文を書く。この間徐溥が所有していたが、1499年の死後李東陽へ遺贈される。

  • 1524
    陸完が所有

    陸完は寧王の乱に連座して逮捕左遷されて生涯を終える。その死後息子は負債のために、顧鼎臣に画を売る。その後、宰相厳嵩が1200金で買ったとされる。(文嘉「鈴山堂書画記」。この経緯については複数の説あり)。陸完と顧鼎臣は蘇州人であることから、この間に「宋本」が蘇州で閲覧され、新たに蘇州を題材にした「清明上河図」ができたとする説もある。4

  • 1542~
    1545?
    嘉靖帝の頃、仇英が仇本「清明上河図」を描いた。

    仇英も蘇州に縁がある人なので、「宋本」を見ているかも。仇英の真筆が現存するかは議論があるが、このころから蘇州発の「清明上河図」が大量に流布するようになる。5

  • 1565
    宰相厳嵩が失脚し家財を没収され、その際に宮中へ戻される
  • 1578
    万暦6年の日付で、司礼監(宦官)馮保が跋文を書いている(権力者であったため宮中から盗み出したとも)

    この後200年間民間へ流出する。

  • 1644
    清が入関
  • 1737
    乾隆2
    清院本「清明上河図」が完成

    この間宋本は宮廷にはない
    乾隆期には、陸費墀(1766進士)、畢沅(1760進士)が所有。

  • 1799
    嘉慶4
    畢沅は死後、白蓮教鎮圧時の汚職で財産没収となり、画はふたたび宮中へ戻る
  • 1805
    嘉慶10
    「石渠宝笈三编」に登録。養心殿に収蔵された。
  • 1922~
    1924
    宣統帝溥儀が持ち出す

    1924年の北京政変で紫禁城を追われた溥儀とともに画は移動し、大戦中は長春に保管。(移動の詳細は不明な点が多い)

  • 1950?
    瀋陽の遼寧省博物館(現)で再発見され、55年に紫禁城・故宮博物院へ 

このように「宋本」のオリジナルは様々な人々の手を経て、最後には紫禁城(故宮)に戻ります。結局、「宋本」と、その多くのコピーが誕生し、特に明の職業画家であった仇英が「仇本」(明本)と称されるようになる「清明上河図」を書いたあたりから、一斉に広まったようです。これは、「宋本」とは違ったオリジナリティがあり、蘇州を描いたものと言われます。「宋本」「仇本」そして、次に登場する「清院本」と3つの大きな流れになります。

清院本「清明上河図」

図5 清院本の「清明上河図」

こちらは、清の時代のもので台湾の故宮博物院にあります。宮廷でしっかり保護されてきたもので時代もあたらしいのでかなり発色もよく綺麗です。今回メインに観察する前述の「清院本」と言われるものです。

この清院本は、雍正六年(1728)から始まるプロジェクトで、5人(陳枚、孫祐、金昆、程志道、戴洪)の宮廷画家に作成が命じられ、乾隆二年(1737)に完成しました。6(よく言われる「乾隆元年」は、ある程度の完成形で献上された日付)。

歴代の皇帝は「宋本」の「清明上河図」を探していたようですが、なかなか見つかりませんでした。実際様々なタイプの「清明上河図」と思われるものを収集しています。それで雍正帝の時代から、新たな「清明上河図」作成プロジェクトが始まります。(皇子時代の乾隆帝の影響力の問題は資料不足で不明)。流通している様々なタイプ(主に「仇本」とされるもの)の「清明上河図」を参考にしたのでしょう。また「清院本」は、西洋画の技法も導入されていて、さらにオリジナリティに富む作品になりました。

同じ時期にほとんど同じ内容で墨を基調にした沈源という人の書いた「清明上河図」が存在します。違う点もありますが、非常に似ています。

図6 沈源版の「清明上河図」

この絵が原画なのか、それとも模写なのかは議論がありますが、歴史的な経緯と内容から「清院本」より前のものであることは確かと思われます。7 沈源は雍正帝時代に宮廷に入った絵師ですが、どちらかと言うと画工というか職人という位置で働いていたようです。しかし、乾隆帝即位時に急に抜擢されて画画処(宮廷画家の部門)に配属されました。このことからも、彼が雍正時代から「清明上河図」において重要な役割を果たしていたことがわかります。沈源の「清明上河図」はおそらく下書き、試作品としての役割があったのでしょう。沈源版の枯淡な感じも素晴らしいですが、いくつか改編されている部分があることからも、推敲を重ねた結果が「清院本」だと言えそうです。8

乾隆帝は「清院本」完成後も、「宋本」を探してはいたようですが、結局見ることなく亡くなります。乾隆帝は退位後、嘉慶4年(1799)2月に亡くなりましたが、なんと見つかるのはその同じ年のことなのです。息子の嘉慶帝は父の寵臣和珅を大変嫌っており、父の死と同時に粛正に着手します。その際に既に2年前に亡くなった乾隆期の重臣畢沅もやり玉にあがります。言いがかりとも言われますが、白蓮教の反乱鎮圧時の汚職などの罪で、生前の名誉と家財を没収されてしまいます。そしてその際になんと「清明上河図」の「宋本」が畢沅の家から発見され、200年ぶりに宮廷に戻ることになります。あと数ヶ月生きていたら「宋本」を見ることができたかもしれなかったわけです。

「清明上河図」の種類と歴史~まとめ

さて、このように「清院本」にいたるまでの道は大変複雑なものです。まとめるとこのような感じでしょうか。

宋代に張択端が「宋本」を描いて以降、多くの模倣作が出回りました。その後、オリジナルが蘇州にあった明代以降、蘇州を中心にしてたくさんの類似作(模本・贋作)が生まれます。特に明の仇英(「宋本」を見たかもしれない)は蘇州の風景を元にしたオリジナルの「清明上河図」(「仇本」)を描きます。今日仇英真筆のものが伝来しているのかはわかりませんが、「伝仇英」という形のものや、模倣した作品は多数あります。そのほかにも「伝張択端」とされるものや、彼らの名前が署名されている偽物もたくさんあります。9 研究や真贋論争はこれからもずっと続くのでしょう。芸術品の場合は、来歴も重要ですが、その作品自体の素晴らしさも重要だとも思います。

さて、素人の説明はこのあたりにして、「清院本」の「見学」に参りましょう。さらに詳しいことは末尾の参考書などをご覧下さい。(まだまだ新しい学説が出てくるかもしれませんし)。

「清院本」を眺めてみる~序盤

では、「清院本」を右から左へ見て行きます。このページ冒頭の画像が、清院本「清明上河図」の最初です。

乾隆帝の詩

蜀錦装全璧 呉工聚砕金
謳歌萬井富 城闕九重深
盛事誠觀止 遺踪借探尋
當事誇豫大 此日歎徽欽
乾隆壬戌春三月御題
臣梁詩正 敬書

大意:
「四川の絹織物の色彩は鮮やかで、部屋の中に掛けられ、まばゆいばかりに輝いている。江南の芸人は腕が抜群によく、まさに神業である。清明上河図には世の中のさまざまな事柄や、城の壮麗な建築ぶりが描かれている。その筆さばきの細密さ、美しさは人を感動させてやまない。また歴史上の確証でもある。この絵は完成当時、天下の喝采を浴びた。今日ふたたびこれを観賞し、改めてそのできばえに感服した。そこで朕はここに詩を作り、臣の梁詩正に頼んで書いてもらうことにした。時は壬戌春三月である」。

「清明上河図」1997年,Fujitsu(一部誤字を筆者訂正)

梁詩正は雍正、乾隆と二人の皇帝に詩や書で仕えた官僚です。「清院本」の完成後、乾隆四年(1742年)に乾隆帝は自分の詩を、書の名手である梁詩正に清書させています。手元にうまい日本語訳資料がないため「『清明上河図』1997年,Fujitsu」(故古屋奎二氏監修)のものを引用いたしましたが、若干意訳が過ぎて違和感はあります。(あと誤植が多い。「×金壁→○全璧」など)。

私がこの詩から感じるのは、前半での乾隆帝の誇り(自画自賛)と同時に、最後の対句「當事誇豫大 此日歎徽欽」の「歎(嘆)」の字に含まれる感傷的な雰囲気です。この対句では、前半で北宋の傲慢さを皮肉り、後半では宋の徽宗・欽宗の故事を思い出して、世の栄枯盛衰をしみじみ感じています。乾隆帝の本当の気持ちはこの最後の二句に含まれているのかもしれません。(素人考えです)。

最初の乾隆帝の印の上に「繪苑璚瑤」と書かれていますが(冒頭画像)、これは「画壇の宝のことで『清明上河図』を称える言葉」です。(「清明上河図」1997年,Fujitsu)。

人々の暮らし

では、ざっと描かれて居る人々をみてみましょう。

図8 花嫁行列

楽隊に先導された花嫁行列が描かれて居ます。

図9 芝居小屋

ちらは芝居小屋です。ちょっとうまく拡大できていなくて恐縮ですが、芝居での演目は三国志演義の「呂布と貂蝉」のようです。

図10 藁を積む牛車

こちらも描写が素晴らしいですが、農夫が藁を運んでいます。藁の上に乗っているガチョウがかわいらしいです。前の藁の上に乗っているのは鶏のカゴらしい。(「清明上河図」1997年,Fujitsu)。

図11 落馬する人

ちょっとした風景や場面がしっかり描かれているのも特徴です。急ぎすぎたのでしょうか、落馬する人がしっかり描かれているのもユーモラスです。

さて、今回は長くなりましたので、このあたりにしておきたいと思います。次回も続きを書きたいと思います。お読みいただきあがとうございました。(その2へ続く)


※「清院本」は台湾の「國立故宮博物院」の所蔵です。全ての画像は基本的にCC0の範囲の画素で使用していますが、一部画像の画素数がCC BY 4.0の可能性があるため、念のため記載いたします。


脚注:

  1. 余辉「北宋张择端《清明上河图》揭秘」2012(故宮博物院公式)(https://www.dpm.org.cn/forum_detail/99722.html) ↩︎
  2. 久保田和男「北宋徽宗時代の転換点について―『清明上河図』と『千里江山図』の間」2021 ↩︎
  3. 余辉2012(前掲) ↩︎
  4. 陳璐璐「『清明上河図』の通行本に描かれた景について : 趙浙本を中心に」2016。(千葉大学)参照 ↩︎
  5. 「蘇州片」とは、明中期以降蘇州で大量に作成されるようになる贋作を指す。その中でも「清明上河図」は非常に流行し、それを「通行本」と呼ぶ。
    「当時の画家たちは蘇州片を高値で売るため、よく仇英などの有名画家の名に託して絵を制作した。蘇州片で、最も盛んに制作されたのは「清明上河図」通行本であった。その中に、巻尾に実夫仇英製と署名された遼寧省博物館所蔵の「清明上河図」(以下遼寧本と略す)がある。絹本着色で、縦が30.5cm、横が987cmの全一巻ものである。石渠宝笈続編には、「仇英倣張擇端清明上河図著」として著録されている。」――「遼寧本『清明上河図』に描かれた看板と扁額の文字考―蘇州片の特徴を研究する視点から」陳璐璐。
    仇英の真筆が現存するかは別にして、仇英の「清明上河図」が「宋本」とはまた違うオリジナリティがあるからこそ、たくさんの模本や「贋作」が誕生し愛されている。 ↩︎
  6. 藍玉琦「三件故宮院藏,引領全世界百件清明上河圖:故宮南院「清明上河圖特展」報導」2020(https://artouch.com/art-views/art-exhibition/content-12267.html)。
    陈韵如「製作真境:重估〈清院本清明上河圖〉于雍正朝畫院之畫史意義」 。
    乾隆帝の詩「題陳枚孫祜金昆戴洪程志道仝画清明上河図」の註には「圖始於雍正六年,成於乾隆二年。城郭、山林、人物各工其藝,亦繪林佳話云。」とあるため。 ↩︎
  7. 「乾隆与城市图:以清明上河图为中心|『国美书声』艺术史研究丛书选读」
    (https://cul.sohu.com/a/648545301_121119371) ↩︎
  8. 童文娥。「稿本乎!摹本乎!─清院本〈清明上河圖〉的孿生兄弟」 《故宮文物月刊》326期(2010.5)。P102-113。 ↩︎
  9. 藍玉琦2020(前掲) ↩︎

参考書:

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