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【調査メモ】穢れと肉食について

調査メモ

以下、穢れや肉食に関係した参考資料の私的まとめです。個人用備忘録のため、全体的に調べた資料の羅列となっております。脈絡も乏しいのでご承知ください。

穢れについて

「穢れ」の大まかな定義。

山本幸司「穢と大祓」の定義。

四種(註:死穢、産獣の死穢・、失火に大別した穢の内容を改めて検討すると、いずれも人間の社会生活の安定した在り方と、そこに形成されている人間の安定した社会関係とに対し、攪乱的あるいはそれを脅かすような事象だと考えてよいだろう。ここにいう人間の安定した社会生活・社会関係は、人間社会を取り巻く周囲の自然と共に一つの「秩序」を形成している。したがって穢とは、人間の属する秩序を攪乱するような事象に対して、社会成員の抱く不安・恐怖の念が、そうした事象を忌避した結果、社会的な観念として定着していったものだということができる。

山本幸司『穢と大祓』p77 註・下線太字は筆者
穢と大祓
解放出版社

記録に残る古代日本の習慣

井上亮「天皇と葬儀ー日本人の死生観」より。

邪馬台国と女王・卑弥呼の存在を記したことで有名な『魏志倭人伝』(三世紀に編纂)に、古代日本人の葬法についての記述がある。日本人の葬送習俗について書かれた最古の文献だ。日本人の喪の服し方について次のような記述がある。

死ぬとまず、喪に服するのを停めて仕事にしたがうこと十余日。その期間は肉を食べず、喪主は泣きさけび、他人は歌舞・飲酒する。埋葬がおわると、一家をあげて水中に詣りからだを洗い、練沐(ねりぎぬをきて水浴する)のようにする。(現代語訳は石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝――中国正史日本伝(1)』、岩波文庫、一九八五年より)

井上亮『天皇と葬儀ー日本人の死生観』 太字下線筆者

また、日本の「穢」についてこう説明。「古代では神社や神事の場以外ではケガレが忌避されることはなかった。そもそもケガレ忌避とは、死や血、汚れなどを人が嫌うことから始まったわけではない。これらを嫌うのは人ではなく神だった」。

その変革期について

新谷尚紀「伊勢神宮と出雲大社ー『日本』と『天皇』の誕生」より。本書は編集者にも「難解」と言われた本と聞くが、論旨は明解だと思う。(新谷氏の講演やセミナーはいつも面白いけれども)。日本における「穢れ」についての変革期について以下のように説明。

名詞としての「穢れ」の成立、具体的な「人死之穢」「犬産穢」、そして、忌みを必然化する「染穢」という感覚、それらが一気に波状的に成立してくるのが貞観年間の後半期、八七〇年代以降のことと考えられるからである。つまり、一〇世紀前半の『延喜式』の規定以降、明確化してくる平安貴族社会に独特で特徴的なきびしい触穢忌避の思想と観念およびそれにもとづく禁忌としての行動規範の成立は、貞観期にまず大きくその一歩を踏みだし、延喜年間以降に広く深く定着していったものと考えることができるのである。

新谷尚紀「伊勢神宮と出雲大社ー『日本』と『天皇』の誕生」 太字下線筆者

この「穢れ」忌避の概念の根源については以下のように解説。

平安時代の摂関貴族たちが、極端な触穢忌避の信仰と思想とをもっていたことは、彼らの日記類にさかんにみられる物忌みや方違えの記事からもよく知られているところである。しかし、そのような触穢思想も、日本古代史の中で形成されてきたものであり、歴史を超えた人類普遍の死穢忌避や血穢忌避の観念や禁忌というレベルで考えてはならない。汚穢忌避の観念は人類文化の中に普遍的に共有されているにはちがいないであろうが、実態としてはそれぞれの社会と文化によって異なる文脈と意味をもつのであり、平安貴族の触穢思想も、歴史的に形成されそれなりに特徴づけられた彼らの社会に特有のものと考えるべきであろう。

新谷尚紀「伊勢神宮と出雲大社ー『日本』と『天皇』の誕生」 太字下線筆者

歴史的な背景を理解して初めてこの大きな「変動」を理解できるとする。

歴史的な形成過程を考える必要があると思われる平安貴族の触穢思想と、その文化的特徴について、それを所与のもの、所与の日本文化として考えるのではなく、九世紀から一〇世紀の大変動の中で形成された、平安京の貴族社会に独特な歴史的産物である、という視点に立つとき、それに関連する多くの生活史的変動を九世紀から一〇世紀の日本社会にはみることができる。それは、文献史料というきわめて限られた情報範囲ではあるが、一連の波状的な変動として読みとることができる。

新谷尚紀「伊勢神宮と出雲大社ー『日本』と『天皇』の誕生」 太字下線筆者

食肉に関して

日本史における食肉に関する大きな変化

再び、新谷尚紀「伊勢神宮と出雲大社ー『日本』と『天皇』の誕生」より

奈良時代から平安時代にかけてさかんに発令される肉食禁止令(天武四年〈六七五〉、持統五年〈六九一〉、神亀二年〈七二五〉、天平一三年〈七四一〉、一五年〈七四三〉、天平勝宝一年〈七四九〉、天平宝字二年〈七五八〉、天平宝字八年〈七六四〉、宝亀一年〈七七〇〉、宝亀六年〈七七五〉など)をよく読みこんでいくと、仏教の殺生禁断の思想による天皇の病気平癒祈願のための臨時の禁令が多く、そこから逆にそのようにさかんに肉食禁止令が発令された事実こそ、古代社会では肉食が当時の貴族層のみならず広範にみられた食習であったことをあらわすものに他ならないことがわかってくる。

牛馬や鹿猪などの肉も血も、奈良時代から平安時代前半ごろまではまだ穢れたものとして忌み避けられていたわけではなかったのである。

新谷尚紀「伊勢神宮と出雲大社ー『日本』と『天皇』の誕生」 太字下線筆者

実際に、天皇の儀式などでも獣肉は重要なものとして捧げられており、普通に食べられていた。

この変化について以下のように解説。

古来、七~八世紀までは天皇をはじめ貴族層もさかんに肉食を行なっていたのであったが、九~一〇世紀になると、その肉食が禁忌視されるようにと大きく変化していったのである。そして、七~八世紀における肉食禁止令が、仏教の殺生禁断の思想と天皇の病気平癒の祈願によるもので、いずれも臨時のものであったのに対して、九~一〇世紀以降の肉食禁忌は、神祇信仰と神祇祭祀の純化から血穢や死穢の忌避が強調されたものであり、恒常的な行動規範となっていったという点において両者の間には決定的な相違点があった。それは、律令官人から摂関貴族へと転身していった平安貴族たちにとって必然的な変化であり、神聖なる「まつりごと(神祇祭祀と摂関政治)」に奉仕するためには、身体の清浄性こそが必要不可欠と考えられるようになったからであった。

新谷尚紀「伊勢神宮と出雲大社ー『日本』と『天皇』の誕生」 太字下線筆者

天皇が「祭祀王」として確立されてゆく一方で、「政治」は摂政ら公家や後には武家に主管されるようになる。そうなると、天皇に求められていた「神聖性」が、政権担当者にも求められるようになったということ。


原田信男「日本の食はどうかわってきたか」より。

新谷説とはニュアンスが違う。

日本の古代律令国家が、米を”聖なる”食物とするために、すでに七世紀に、いわゆる〝肉食禁止令〟を発布したことは、拙著で指摘したとおりである[原田:一九九三]。さらに、肉を禁忌とする信仰は弥生時代から存在し、『魏志』倭人伝にも服喪の際に、倭人が肉食をしないとしている点も重要で[原田:二〇一二]、肉を遠ざけることが特別な意味をもっていたことに注目しておきたい。

原田信男「日本の食はどうかわってきたか」p49 太字下線筆者

上記では、1993年の『歴史のなかの米と肉-食物と天皇・差別』の論旨を継承し(その後一部訂正されているが)、天武が「稲作を中心とする農耕」を中心政策にした結果、農耕儀礼であった「動物供犠」を否定しつつ、肉食を禁止して稲作を推進したと捉える。

一方で、単に仏教導入の影響ではないとするところは同じ。

もともと物忌みなどの際には、仏教思想に基づいたものではなく、日本古来の風習として、魚肉を用いない食事を用いることもあった点が重要だろう。すでに仏教伝来以前に、いわばマイナスの節目に、そうした意識が働いていたからこそ、肉食禁忌という戒律のみならず、仏教修行上の精進という観念が、比較的容易に受容されたと考えてよいだろう。

原田信男「日本の食はどうかわってきたか」p50 太字下線筆者

日本古来の観念に、仏教的背景が重なって肉食が一層忌避されるようになった。基本的に中世においては、儀式の場や公家社会では獣肉食は忌避されたが、一般では引き続き獣肉が消費されていたとする。

江戸期の記録について。

伊勢桑名藩の下級武士・渡辺平太夫の『桑名日記』天保一〇(一八三九)年一二月八~一二日条、紀伊和歌山藩の中堅武士・川合梅所の妻・小梅の『小梅日記』嘉永二(一八四九)年一二月五日条などの事例が知られるように、一般の武士も時折は牛肉を食していた

原田信男「日本の食はどうかわってきたか」p140 太字下線筆者

原田氏の説については批判もあるが、以前から「食」に注目して、ささいな史料にも注目しながら実証的な研究をしてこられた姿勢は素晴らしいと思う。

考えて見れば、食べるかどうかは別にして、皮革製品の需要は時代とともに高まって行くわけであり、特に武士にとって武具には欠かせないものだと考えると、まったく殺生しないというのは無理な話。結局誰がそれをするかという話になるのだろう。

考古学的な視点から

論文検索で見つけた資料より。

食用を主目的とした家畜・家禽が普及しない背景に、仏教思想や穢れ観念による古代からの獣肉食忌避との関連が想定される。ところが、中世遺跡や近世の屋敷地では犬食いや,野生のシカが多く消費される傾向もみられる。 鳥類は、近世になると野生のキジやカモに加えて、ニワトリも食用として一般的となったことが考えられる。
建前での肉食忌避の裏で肉食が継続されたことは、従来の指摘通りであるが、食用家畜を生産するほどの労力がない、あるいは鳥獣肉に対する需要が劇的に増加することがなかったなどのことが考えられ、特徴的な食生活が生じることになったのであろう。

丸山 真史「考古遺跡にみる動物利用の変遷」2024

まとめ

穢れや食肉についてはかなり諸説あるし、このメモも手元にある資料に偏っている。これ以外の説については、機会があれば随時メモを追加したい。

肉食については以前にもまとめた。

以上。