この記事は2025年7月に別ブログで書いた記事の引越版です。加筆修正し掲載しております。
中国では豆辯で7.1(2025年7月時点)と、これだけの大作としてはかなり厳しい評価でした。(普通は十分合格点ですが)。個人的な評価は10点満点でやはり7ぐらいでしょうか。名作になり得たのに、せっかくの素材をうまく生かし切れなかったという印象です。この種のシリアスな古装ドラマは大好きですし、内省的な主人公も好きなのですが、「なんか惜しい作品だった」という思いが強いです。(もちろん個人の勝手な「思い」です)。

以下、毎度のことではありますが、私の中国語力の関係で誤りや誤解があるかもしれません。また、完全なネタバレがありますことや、あくまで私個人の勝手な感想であることをお断りしておきます。なお、本考察は既にご覧になった方対象のため、あらすじなどは特に触れておりません。
作品背景
話は一応オリジナルということですが、南派三叔の2017年前後の非公式作品(プロットだけ)に酷似していると言われますので、参考にはしているのでしょう。(公開していた当時の微博の内容は未確認)。
歴史風俗的には明らかに明代ですが、検閲の関係か、大雍と冬夏という国名を使っています。本作の「皇帝」は明代の天啓帝が大工大好き皇帝だったことに着想を得ているのかもしれません。(暗帝ですが・・)。
ちなみに、主人公の改名後の名前は「蔵海」でしたが、これは、前述の南派三叔の小説『盜墓筆記』に出てくる明代の建設官僚「汪藏海」から採られたと思われます。この汪藏海もフィクションですが、原型は同じく明代の工部尚書で多くの建築物を建てた呉中とも言われます。人によっては、蘇軾の『病中聞子由得告不赴商州三首』に出てくる、「惟王城の最も隠るるに堪えたるあり、万人海の如く一身蔵る」(都は人が多いから身を隠すことができる)からと採ったという説明もありますが、これが正しいかは調べきれませんでした。
今回は大物鄭暁龍と若手曹譯文の共同監督作品のようですが、インタビューでは、鄭曉龍はほとんど関与せず、曹譯文に任せていたような言い方でした。新人監督とも言える曹譯文にしてはよくやったと言うべきか、まだまだと言うべきか?

物語の中での「癸璽」は、西霊聖母の末裔である冬夏王に代々伝わるものという設定です。初代富鮮女王はこの「癸璽」を使って無敵の「瘖兵」を作り上げ、冬夏を建国しましたが、その危険さをも知っていたので、地下に封印し歴代の王にも使用を禁じました。しかし、数百年経って大雍との戦いにおいて国家存亡の秋となり、明律壺達女王は再び「癸璽」を使用し、起死回生を図ります。(荘蘆隱が敗北した戦い)。結果として明律壺達は死にますが、「瘖兵」の圧倒的強さによって戦いも膠着状態となります。その際に、明律壺達女王は「癸璽」の危険性を考えて、再びそれを風水の専門家張滅に命じて封印します。その後、冬夏では香暗荼の母、明玉肅提女王が即位します。(彼女と蔵海の父は親交があった)。
大雍としては再び戦況を有利にしたい中、皇帝の密命で蔵海の父蒯鐸は冬夏へ「癸璽」を探しに行きます。数年の歳月をかけてようやく「癸璽」を発見し、ひそかに皇帝へ献上します。ただ、蒯鐸はその危険性を考えて密かにその鍵となる3つの銅魚は渡しませんでした。一方で、3人の権力者(趙秉文、荘蘆隱、曹静賢)も、自らの野望のためにそれを探しており、それが10年前の「一族皆殺し事件」に繋がります。
「癸璽」は、発動者の血を使ってある種の「毒」を生成し、それを飲んだ兵はゾンビ化?して痛みを感じない「瘖兵」となります。しかし、それは発動者にも悪影響があるだけではなく、「瘖兵」が結果的に制御不能になるため禁忌とされてきました。一方、ラストの地下宮の場面で登場する「瘖兵」は、現実の「瘖兵」ではなく、地下宮を守るための罠(壁画に使われた幻覚を見せる薬物)によって引き起こされた幻覚でした。
「癸璽」は(もちろん)架空の物品です。癸は日本語では「みずのと」であり、10番目のこと。北や水、雪の象徴でもあります。水に関係するので、魚が鍵にもなっているのでしょう。
全体の感想
毎度議論のある肖戦ですが、本作は大変はまり役だったと思います。(演出の問題はまた後ほど)。彼はやはり武侠やアクションではなくて、こういった歴史系物語がとても似合っていると感じました。(彼の持つ繊細さがよく表れていた)。
ヒロインの香暗荼を演じた張婧儀の演技も大変よかったです。少しエキゾチックな雰囲気がこの物語設定と非常にマッチしていました。ちなみに暗荼の「荼」(茶より棒が多い)は元々は苦菜を指す古い字で、ここでは「tu」と発音しますが、「cha」とも発音し後に「お茶」のことも指すようになりました。お茶の「茶」の字は「荼」の新しい字です。(ややこしい)。
また、脇を固める俳優達の演技は素晴らしかったです。黄覚、余男、陳妍希、張国強、喬振宇、田小洁、邢岷山、許齢月ら豪華な俳優陣が固めています。その中でも特に、悪役3人(黄覚・田小洁・邢岷山)の演技は素晴らしかったです。
個人的に好演だったと思うのは、庄之甫(長男)を演じた劉潮です。父親や弟、主人公との複雑な関係性や、障害を負ったあとの演技は凄かったです。また、皇帝を演じた張国強の演技も印象的でした。皇帝のキャラクター設定は非常に複雑で、ある種のコンプレックスを持った人物として描かれています。皇帝と主人公の父との関係もまた複雑なものでしたが、本当に見事に演じていました。
また、天文・建築などの設定は非常に緻密でよく出来ていました。ストーリー自体は、極めて分かり易く、分析するような謎も少ないので、「見やすい」作品でもありました。(問題と感じたことはまた後述)。
▲公式のメイキング映像
三人の師匠たちとの子弟愛
本作は主人公とヒロインのロマンスも重要なのですが、それ以上に子弟愛が印象的な作品です。(3人についての以下の考察は、あくまで私の勝手な考察ですので、誤りや誤解があるかもしれませんので悪しからず)。
1.星斗
彼は最初だけの登場でしたが、蔵海(稚奴)との10年の歴史は強い絆を形成しました。個人的には3人の師匠のうちもっとも悲劇的であり利他的な人物かもしれません。それは、一番早い時点で問題を見抜き、自ら命を絶ったことからもわかります。もちろん、それは蔵海の架空の経歴造りのための死であり、初めから選択の余地はなかったのでしょう。
腕の入れ墨から察するに、おそらく趙秉文に命を救われた恩義(弱み)があったのでしょう。
幼少時、閉じ込められた「稚奴」に星斗が暗唱を促したのは、南宋末期の文人何夢桂(1265年進士)の詩『贈尹巽齋易數』。易経の研究家としても有名なので、ここで引用したのでしょう。ただ、フィクションの世界の「蔵海伝」で使うのはおかしな話ではあります。以下引用する詩はいずれも史実の宋代の詩ですので、やはりフィクションの世界に持ち込むのは違和感があるのです。ハイファンタジーほどの世界観設定が不要な楽さと、史実物で歴史通に細かい歴史考証を批判されなくて済むという二重のメリットがあるのは分かりますが、どうも安直過ぎる気がします。
『贈尹巽齋易數』
(何夢桂)萬有滋荄隱混蒙
誰開玄竅洩神工
易經四聖羲周孔
數貫三天先後中
執筴不須談管輅
太玄休複問揚雄
隻今風起從何入
知得風來是巽翁【註】翻訳と書き下しは私の能力を超えるので本文だけ掲載します。易數とは易経占術のこと。易経の教えの奥深さを謳いますが、最後に「風がどこから吹くかを知っているのは尹巽齋だ」と尹巽齋を讃えています。(八卦の一つ「巽卦」=風と、作者の名前「巽」を懸けていると思われる)。この尹巽齋という人についてはよくわかりませんが、同時期に方逢辰が「贈尹巽齋數学」という詩も作っているので、風水地理算術などに明るい人だったのでしょう。当時、風水家や地理家が、自分に箔を付けるために文人に詩を求めることが流行しましたが、そのような名誉目的の人物だったのか、純粋に友だったのかは調べきれませんでした。
「稚奴」を自然の中で教える場面では、南宋の田園詩人范成大『四時田園雑興(31)』が暗唱されています。
『四時田園雑興三十一』
(范成大)昼出耘田夜績麻
村莊兒女各當家
童孫未解供耕織
也傍桑陰學種瓜
昼は出でて 田を耘り 夜は麻を績ぐ
村荘の児女 各家に当たる
童孫 未だ耕織に供するを解せず
也 桑陰に傍いて 瓜を種うるを学ぶ【註】書き下しは適当ですのでご注意ください。夏の暑い日に、農民たちが総出で野良仕事をしている様子を描いています。子供たちはまだ農作業が十分出来ず、まねごとをしているようです。
そして最後に、星斗が死を前にして詠んだのは、北宋の詩人晏殊の『喜遷鶯「花不盡」』です。
喜遷鶯『花不盡』
(晏殊)花不盡 柳無窮
應與我情同
觥船一棹百分空
何處不相逢
朱弦悄 知音少
天若有情應老
勸君看取利名場
今古夢茫茫【註】 「喜遷鶯」は47文字からなる詞牌(歌謡)。「觥船一棹百分空し」は唐の杜牧「題禅院」の引用。杜牧の詩ではこのあと、「十歳青春不負公」(十年の青春は決して無駄では無かった)と続きます。(「公」をどう解釈するかは諸説あり)。杜牧の場合星斗と同じ十年なのが象徴的ですが、ドラマは晏殊の引用なのでこの部分は登場しません。
星斗が謳った部分(青色下線部)の意味としては、「このなみなみとついだ杯を飲み干した。またどこかで会おうぞ!」という感じでしょうか。
そしてドラマではこの詩を詠んだあと、「ありがとう」と一言述べて死んでゆきます。きっと、彼は人生の最後に出会った青年に救われたと感じたのでしょう。
2.高明
主人公と深く長い関係性があった師父。星斗と違い、蔵海を生きて支え続ける一方、騙し続ける役割を担います。蔵海への感情がどのように推移したのかは後ほど考察しますが、最終的には非常にジレンマを抱える辛い立場となります。
初登場のシーンで髭がないのは、宦官出身ということなのか、あるいは処世術用(変装用?)ということでしょうか。(彼の性格についての描写から宦官の可能性は高いかも)。単に若さを出すためだけかもしれませんけれども・・・。彼の背景も多くは語られませんが、趙秉文に恩があるのは星斗と同じようです。
彼の立ち位置は非常に複雑であり、趙秉文への忠誠と蔵海への愛情の間でジレンマを抱え続けることになりました。このジレンマは、後半37話あたりで、遂に第三の仇=趙秉文と発覚する場面で最高潮を迎えます。この回の高明の描写はとてもよかったです。仇の正体を最初から知っていた高明の戸惑いと罪悪感、不安などがよく表現されていました。趙秉文を仇呼ばわりする蔵海を叱るシーンがありましたが、これは趙秉文への敬意と同時に、蔵海の身を心配してのことでもあったのかもしれません。ただ、この時点で蔵海は「あなたたち」と述べて、自分を利用してきた人間に高明も含めているのは悲しいことです。状況の変化に動揺し、禁軍の到着時には驚きと共に絶望を感じたでしょう。(彼の反応からすると、趙秉文が皇帝をして禁軍を動かしめるとは考えていなかった模様)。
そしてやはり、38話の別れのシーンは一番印象的でした。
「送君千里 終須一別」(君を千里送るとも、すべからく別すべし)
(訳)君を千里見送っても、いつかは別れが来る
こう言って高明は二人を送り出します。
高明が残した手紙の大意はこんな感じでした。
お前を十年も騙してきた。ずっと一言謝りたかった。私は六初がうらやましい。彼女は趙大人がお前の仇であるとは知らない。だから責めさいなまれることもない。星斗のこともうらやましい。私より先に逝ったから。彼は早晩こうなることがわかっていたのだろう。でも私は、彼より長い時間お前と一緒に過ごすことができた。だから彼はきっとうらやましがるかもしれないな。
彼の複雑な気持ちと愛情をよく表している手紙でした。
ところで、高明の最期についてネット上では、彼は死んでいない(偽装死)という説もかなりささやかれています。最後の40集で六初の御者の声が高明とそっくりだったので、(顔が写らないのでなおさら?)私も、そんな風に感じました。ただそうなると、ますます星斗との違いが際立ってしまい、うれしい反面、高明だけ生き残る「不公平さ」も若干感じます。
もちろん、やはり高明はあのシーンで死んでしまったのかもしれません。いずれにしても、六初が高明の「墓前」で言ったように、彼は(その生死にかかわらず)高明という偽名から解放され、本来の自分にようやく戻れたのでしょう。 高明は、蔵海にとっても、視聴者にとっても癒やしのキャラクターであったのは確かです。
3.六初
彼女の背景についてはあまり語られませんでしたが、前掲の高明の手紙には重要な示唆がありました。六初は黒幕(仇)が誰かは「知らない」と書かれているのです。つまり、六初が「恩公」の正体発覚後も死を免れているのは、そもそも黒幕を知らないために、趙秉文に警戒されていないからだということがわかります。そして、それ故に彼女には星斗や高明のようなジレンマも初めからないのです。(そうは言っても高明の「死」以後のどこかで知ることにはなったでしょうけれども)。
ただ、この「知らない」という設定によって、主人公たちと深い関わりを持つ師父の一人でありながら彼女の存在がどうも宙に浮いてしまった気はします。もちろん、彼女に計画の詳細が知らされなかったことは、星斗と高明を安心させる要素ではあったでしょう。しかし、このキャラ設定ゆえに六初は二人と「苦楽をともにする」存在ではなくなってしまうという(物語としての)デメリットはありました。
このような設定もあって、彼女の物語中での役割は低下し、師父というより主人公とヒロインを結びつける役割や、「物語に花を添える」存在になっています。もし彼女が、真実を知っていて他の師父たちと同じような苦悩を持つキャラであれば、もっと魅力的な描写になったのではと勝手ながら感じます。
それぞれの思い
上記3人のうち、特に星斗と高明は、対照的な性格の持ち主でしたが、同時に蔵海や趙秉文への感情も微妙に異なっていると感じます。このことは、上記38話の別れの場面で高明の述べたことからもわかります。
城門を出る前の馬車での会話で、高明は10年以上昔に蔵海が旅立った日(第3話)を回想します。高明は蔵海に「実はあの日、自分と星斗は喧嘩をした」と語ります。星斗は、「稚奴は『蔵海』になるべきではなく、復讐を忘れてこそ新たな人生が開ける」と主張し、高明は「恨みを晴らしてこそ本当の開放がある」と言って言い争いになったと言います。この時のことを回想する高明の雰囲気からは、自分は間違っていたというニュアンスも感じます。
この高明の証言からわかるのは、先ず星斗は蔵海への愛情から趙秉文への反逆とも言うべき意見を主張したということです。星斗と高明はいずれも、「先生」=趙秉文が自分の野望のために蔵海を利用していることを最初から知っていました。従って星斗のこの主張は趙秉文の意に背くものでした。彼は「先生」(趙秉文)が、今こそ蔵海は都へ行くべき時だと言った時も、時期尚早と反対していました。そして、その後の星斗の行動も彼の信念の表れだったのでしょう。彼は蔵海の偽の経歴造りのため自害しますが、それはおそらく任務の遂行ということだけではなく、ジレンマを自ら終わらせたいという気持ちもあったのでしょう。高明も上掲の手紙の中で、星斗が既に将来の悲劇を予見していたことを示唆しています。
一方の高明は、「復讐こそ蔵海の開放に繋がる」と考えていました。ただ、この高明の発言は実は矛盾しているのです。というか、これは高明のせいではなく脚本家の問題です。この高明の説明には「自分はよかれと思って復讐を勧めた」というニュアンスがあります。でもよく考えて見ると、「復讐」は本来趙秉文の敷いたレールであり、趙秉文との対決という悲劇的な結末にしかなり得ないことは高明も知っていたはずなので、「蔵海のため」というニュアンスはおかしいのです。(知っていたのに「おまえのためだ」というのでは高明がひどく偽善的な人になってしまう)。「よかれと思って」というニュアンスは、あくまで高明が趙秉文の計画を知らなかったという場合に言える台詞だからです。
この部分の整合性を取るためには、「そんなこと(星斗の主張)は今更無理だから、先生の復讐路線でとにかく進むべき」と主張して喧嘩になった・・というような台詞であるべきでしょう。そして「今当時を振り返ると自分も反対すべきだった」・・・という話になるのが自然です。10年以上前の「喧嘩をした」当時、おそらく高明は複雑な気持ちはありつつも趙秉文の忠実な部下であり続けようと努力していたのでしょう。それゆえにも高明は趙秉文に見込まれて蔵海のサポート兼監視役として生き続けることになったと思われます。とはいえ彼は、常に蔵海に対して「好好活着」と言います。これはそのまま訳せば「しっかり生きる」ということですが、宮崎駿風に言えば「生きろ!」という感じでしょうか。まずは生きていないと何もできないという、師匠としての教え(処世術)であり、生き続けて欲しいという親心でもありました。そして高明は、その後激しいジレンマを経験し、星斗と同じ道(?)を歩むこととなります。
この点についてはもう少しいろいろな解釈がありそうですが、そもそも脚本に問題があるので難しいところです。中国語のニュアンスの誤解もあるかもしれませんから、このあたりとします。
三人目の六初については、前述の通り黒幕(仇)の正体を「知らされていない」ゆえに終始ジレンマはなく、他の二人とはかなり違った存在となりました。そもそも蔵海との関係はほかの二人と比べると10年の違いがあることもあり、その立ち位置がいまいち明確に描写しきれなかった印象です。六初と星斗、高明とは深い関係がありそうですが、詳しくは語られずに終わりました。
今作の師父たちの設定は、悲劇的な要素を濃くするためにあくまで趙秉文の部下(恩が彼らを束縛している)というものでした。その結果、彼らの葛藤も(六初を除けば)悲劇的になり物語は盛り上がったわけですが、よく考えて見るとこの設定も若干の違和感はありました。そもそも彼ら自身には復讐の動機はまったくなく、主人公とはあくまで赤の他人なのです。むしろ彼らが蒯鐸の縁者であったり、恩があるのであればもっと話が深いものになったと思うのです。(趙秉文自身はこの部分で作り話をしていた)。その上で、趙秉文は彼らを利用するという設定とか・・・。ただしこの場合、師父としての葛藤はなくなるので、物語の悲劇性は少なくなるかもしれませんが。
いずれにしても「子弟愛」は、本作の大きな魅力の一つであることは確かです。
不満点いくつか
本作は「惜しい作品」という気持ちが強いので、あえていろいろ書きたいと思います。(もうだいぶ書いてしまっていますが)。
影が薄くなったキャラが多い
例えば、永容王。彼は「仮面の男?」とミスリードさせるための存在だとは思いますが、早期にそれは六初に否定されてしまっています。それなら他に重要な役割があるのかと言えば、最後にちょっと主人公たちを保護する(でも本人は登場しない)だけです。そしてそのまま退場となりました。所謂友情出演的な理由なのかもしれませんが、残念でした。
あとは、八公子(趙銅兒)。彼女も非常に中途半端で終わりました。ヒロインとの関係が大変深く、かつラスボスの娘という立場にもかかわらず父娘関係や、その葛藤もほとんど描かれませんでした。(巻物から父に疑いを抱く程度)。古装ドラマでよくあるキャラ設定ですが、もっと深く葛藤や苦悩が描写されればもっと光ったキャラだと思います。
ちなみに、彼女は最後に宮廷の大雍学宮で教員になっています。つまりこれはどういうことかと言えば、新皇帝は死んだ趙秉文に恩がある(新皇帝擁立の功か)ので、彼女を引き立てたということなのでしょう。(趙秉文が新皇帝の敵なら、何かの罪に連座していたはず)。そう考えると、新皇帝にとっては、蔵海こそいないほうが良い人物(むしろ敵)なのかもしれません。それは二人の最後のぎこちないやりとりや、先帝の痕跡をなくそうとしていたことなどを見てもわかります。
上記二人は、物語の中で実際は非常に重要な役割を果たしていたのに、十分に描き切れなかった印象です。
仮面の男が誰かがあまりに分かり易い
当初10年前に主人公を救う場面で仮面を被っているのはわかるのです。しかし、問題はその後もずっと主人公に仮面で現れる点です。これは確かに物語の効果としては面白い設定ですが、そもそも命懸けの仇討ちを為そうとする主人公にずっと仮面を被ったままというのが不自然です。その理由は物語の中で「言い訳」されていますが、身分が隠されたままというのは蔵海に対しても不誠実ですし、視聴者としてもこの人物は「くさい」と直ぐに感じてしまいます。
なので、10年前の仮面の「恩公」にはそれ以降まったく会っておらず、あれは一体誰だったんだろうという設定なら良かったですが、再会後もずっと蔵海の前に仮面で登場する設定はいかにも不自然でした。
それにも増して違和感があったのは、彼が常に蔵海に復讐を強く勧めていることです。(このあたりは押したり引いたりしてはいますが)。本来彼のことを思うなら、復讐を諦めて生きるようにと述べるはずです。始めから蔵海を道具のように使っているような雰囲気がありました。
いずれにしても、フットワークの軽さから考えると「皇帝」や「王」、「地方官」ではありえないので、趙秉文しかないだろうというのが登場時からわかってしまうのが残念でした。(いろいろミスリードがあるにも関わらず)。
主人公の言動が不安定
まず、主人公があまりに不注意過ぎです。(師匠たちに学んだことが実行できていない)。二公子(莊之行)にばれるのがあたりまえなのに裸で一緒に風呂にはいるでしょうか? おかしすぎます。
また肖戦自身ははまり役だと思うのですが、表情の付け方などがちょっと不自然なことが多かったです。これは彼の演技というよりも、演出の問題であり、キャラ設定の一貫性の欠如でしょう。星斗、高明、六初という師父から薫陶を受け、旅立ちの直前には惨死した家族郎党の人数すら平然と言ってのけるようになり、「恩公」はその成長ぶりを褒めるわけですが、その後の蔵海はそれとは対照的に感情的になったり「動揺」を隠しきれなかったりします。一体何を学んだのか不可解になる部分が多々ありました。
同様のことは、ヒロインとの場面でもありました。彼は六初師父から女性との関わり方についても多くを学んだはずです。それはただ女性に騙されないというだけではなく、相手を手玉に取るぐらいでないと駄目だと教わったはずです。しかし、度々感情に流されてしまいます。
例えば、ヒロインを仇と批判する場面はかなり違和感がありました。どう考えても十年前に彼女は子供だったはずで彼女を責めるのはお門違いです。(彼女もそう言っている)。このあたりの脚本で、もうかなり残念な気持ちになりました。(彼女がもっと年上であり、その当時も権力を持つ人間だったというのならわかりますが)。そもそも、蔵海のそれまでの推理からすると、彼女を批判するという選択肢はないはずです。
挙げ句の果てに「首謀者は君じゃないのはわかっている」なんて台詞まで出てきます。「何がしたいわけ?」と蔵海を詰問するヒロインに賛成です・・。主人公の父親なら、冬夏が関係するというだけであのような軽率な仕打ちは決してしなかったでしょう。(子供か!と叫びたくなりました)。そして、一番いただけないのは、女性(ヒロイン)を監禁するところです。あれはやってはいけないことです。
その他
脚本について言うと、最後に禁軍に逮捕されるシーン(三人目の正体が明かされた場面)に違和感を覚えました。そのシーンでは、逮捕されるのは蔵海だけで、なぜか周りの人たちは逮捕されません。たしかに、皇帝の勅令で蔵海一人を禁軍が逮捕に来ただけともいえますが、刀を抜いて朝廷の重臣を取り囲んでいるのにそれを無視して蔵海だけ逮捕してゆくのはなんとも不自然でした。そしてその後、なぜか高札に全員の手配書が載るのです。なら初めから逮捕すればよかったのでは?
莊之行のキャラですが、振り幅が激しすぎて、一貫性が失われています。(これは意図的なものでしょうけれども)。もう少し整理して、一人の人間としての魅力的な設定が欲しいところでした。
こういったツッコミどころが多い=脚本の問題が多いドラマではありました。
まとめ
全体的に名作になる可能性があったのに、脚本や演出の詰めが甘い作品だったと感じます。大規模なドラマゆえに、複数人による脚本や演出の整合性がとれなかったという部分もあるのかもしれませんが、せめてもう少し丁寧な脚本ならよかったと思います。全体的にファンタジーなのかサスペンスや復讐劇なのかが曖昧になった気がします。史実の中に緻密にはめ込んだ(馬伯庸のような)フィクションだったならもっと良い作品になったのではと感じます。このドラマを何度も見返すかなと考えると「う~ん」となる作品でした。
もちろん、視聴数などからすれば大ヒットなのは間違いありません。商業作品であり娯楽作品であるわけですから、細かいことを言わずに楽しく観るのが良いのでしょうけれども、今回も「天邪鬼」が出てしまい勝手なことを書き連ねてしまいました。それでも、全40話あっという間に観てしまったわけで、魅力あるドラマだったのも確かです。
最後に、繰り返しになりますが、今回肖戦はよかったです。
以上、今回も長文お読みくださり感謝いたします。

















