PR

明清交代期についての調査メモ1~辮髪などの習俗

中国史

以下は個人的調査メモです。そのため箇条書き的な備忘録となっておりますことをお断りしておきます。

明清交代期の問題は、現代に繋がる重要な要素を多く持っている。中国におけるナショナリズムや民族問題などを理解するにも重要と考える。これはエンタメの世界でも同じで、古くは金庸の『鹿鼎記』などの武侠小説、また数年前に炎上した中国ドラマ『龍珠伝奇』など考えさせられる要素は多い。(これは明清交代期についての調査メモ2をいずれ書くつもりなのでその際に触れる)。

明清交代は「異民族支配」ということもあって、考慮すべきことが多いが、まずは「辮髪」や服飾の問題を調査しメモしておく。以下は、あくまで個人的調査メモなので出典や根拠に一部不備があるかもしれないことを初めにお断りしておく

入関時のいきさつ

先ず「教科書的」歴史背景から。講談社の『中国の歴史9』の説明を引用する。

北京に清軍が入城した直後、漢族に対して「薙髪し(髪を剃り)、衣冠は本朝(清朝)の制度に従うよう」に命令を出すが、漢族の反感を買う。支配が安定するまで風俗を強要することは適当ではないと判断したドルゴンは、六月末に薙髪令を緩和する。清軍の侵攻は早く、清朝の年号でいえば順治二年(一六四五)に李自成軍を打ち破っただけではなく、六月に明朝の皇族であった朱由崧(福王)が南京に建てていた政権を滅ぼした。清朝に対する抵抗が強かった江南を平定する見通しがつくと、薙髪令を出した。その勅令には、

この布告よりのち、京城(北京)の内外は一〇日以内に、直隷(帝国の直轄地)や各省の地方では、この布告が到着してから一〇日以内に、ことごとく髪を剃れ。

とある。

江南ではこの布告をめぐり、大きな混乱が生じ、多くの生命が失われた。一六世紀に地域社会としてまとまっていた嘉定県では、郷紳などの地域のリーダーを中心にして郷里を防衛するために県城に人々が立て籠もっていた。

彼らは農村の自衛団を味方に引き入れるために、「清兵は人民に薙髪を強制し、髪を剃り終わると、白刃をふりかざして、自分で自分の妻子を殺すように強制する。それから兵隊にして前線に立て、盾の代わりにして矢玉に当てさせる。絶対に生きられる見込みはないのだ」といった噂を流し、帰順よりも抵抗を選べと迫った。

他方、いち早く清軍の側についた無頼の輩は、髪を残しているものを虐殺し、その財産を奪い取った。やむを得ず髪を剃ったものも、運悪く村の自衛団に捕まると、裏切り者として惨殺されることもあった。

引用:中国の歴史9(講談社)より。

この時期については諸説あるが、「髪」の問題以前に王朝の転換期であり、武力征服されるわけなので、多くの血は流れたはず。

当時の人たちの感覚については、下記参考書を調査中なので、別稿でまとめるつもり。(大変面白い)。

明末清初中国と東アジア近世
岩波書店
社会の大きな揺らぎのなかで、新たな秩序への模索と葛藤が繰り広げられた一六―一八世紀。著者は明清史をフィールドに、東アジアの共時性としての「近世」を考察してきた。総説「東アジア・東南アジア伝統社会の形成」をはじめ、時代区分、皇帝権力、国家観、市場構造などの論点から、世界史へと開かれた課題を提示する。

辮髪は時代によっても変わる?

この辮髪問題については以前から疑問に思っていたことがある。それは「初期」清朝皇帝たちの肖像画である。以下は順治帝とその子康熙帝の肖像画(朝服)である。いろいろな画があるけれども、基本的に似ている。

順治帝

康熙帝

不思議なのは、どれも今の感覚からすると「髪がある」(ように見える)ということ。帽子を被っているけれども、少なくとももみ上げは確認できる。特に順治帝はかなり普通の(今風の)髪型にすら見える。これは昔から色々な説があるようだ。実は辮髪は醜いからしてなかったというような都市伝説から、後世書かれた影響だというものもあるが、どれも事実ではない。

簡単な答えとしては、清初は私たちが(時代劇で)イメージするほどつるつるにそったわけではない、ということのようである。日本でも五分刈り程度でも「髪はある」と感じる。しかし、「総髪」を伝統とする「漢民族」からすると髷を結えない短さはもはや「髪がない」ということだったのだろう。いずれにしても、「剃られた」「切られた」のは史実である。そして、切った部分の長さは別にして、僅かに長い毛を残して三つ編みにするのも清初から清末まで共通である。

次の時代の雍正帝のこんな画がある。

「読書図」であるが、ふざけているわけではないだろうけれども、短髪のおじさんがちょろっと三つ編みを頭に巻いている感じである。

その後、乾隆帝のころになると大分雰囲気は変わる。これはカスティリオーネによる西洋画なので、より写実的で、大分耳周りもすっきりしている。(即位時なのでまだ雍正期に近いけれども)。

また、乾隆37年(1772年)に書かれた『賈全畫二十七老沈初書詩』(高齢の宗室や大臣たちの詩と群像肖像画)を見ると、(使用人か下級官僚かわからぬが)「青々」とという感じで剃られ、辮髪は細く長い。

清「賈全畫二十七老沈初書詩」

他にも、冒頭のアイキャッチ画像をもう少し拡大してみる。乾隆期の1765年に起きた「烏什回乱」(ウシュ回族平定戦)を書いた張廷彥の画の一部であるが、辮髪はもはや私たちがイメージする雰囲気に近い。ただし、かなり細く短い。

したがって、先ず、多くの歴史学者が述べるように、清初の入関時は、髪を残す面積も三つ編みの長さも短かったというのは事実だろう。(直径が銭くらいだったという)。そして、清末にはかなり残す髪の量や長さが多くなったということだろう。

明末の辮髪についてはWikipediaにP.Dのものがあったので、一部引用する。

清初においては、かなり髪自体の長さはアバウトであったが、服従の印として「総髪を切り落とす」ことと、「後ろに編んだ髪を垂らす」ことは統一基準だったのだろう。

結局、時代を経るごとに、違反事件の記録も減り、「髪型?」も「洗練」されてゆき、末期にはよく写真や映画でみるような形に落ち着いたと言える。日本のちょんまげの月代と同じで、手入れも大変になったということか。

この点については、徹底論と緩和論が中国でもあるが、どちらも極端であるような気がする。1 

一次史料「侯岐曾日記」が示すこと

この点興味深いのは、『侯岐曾日記』2 明末清初の侯岐曾が順治3年から4年(1646-1647)に江南で書いた個人的な日記とされる。

そこに、清の布告した命令が書かれているがそれがとても面白い。

一寸免罪、二寸打罪、三寸戍罪、留鬓不留耳、留髪不留頭,又頂大者与留髪者同罪。

【大意】
髪の長さが一寸のものは許し、二寸のものは打罪、三寸は流刑、鬢の毛を留めるものは耳を切り落とし、髪を留めるものはその頭を切られる。(最後の「頂大者」というのはよくわからないが、頭の上に長髪を多く残すと総髪と変わらないので駄目ということか)。

「侯岐曾日記」

清代の一寸がだいたい3.5センチ(測る対象によっても誤差あり)、ということは、髪が3センチ伸びててもOKだったということか? 3センチでは髷は結えないというあたりが重要なのだろうか。

この政策は最初から最後まで厳格に適用されていて、「総髪許容」の時代があった証拠はない。ただ、首をはねられた記録だけではなくて、市中引き回しされて追い出されたりした例もある。清初に田舎から町(城)へやってきた農民が事情をしらなくて罰せられるとか、いろいろなケースが記録されている。

形式についての結論

当初の問題は、総髪を辞めて服属の意を示すかどうかであった。そもそも、清初は様々な形式があった。ただ、全体の傾向としては、清初は束ねる部分の毛は非常に小さく短かった。しかし、後にその部分は広くなった。とはいえ、まったく僧侶のようにつるつるに剃髪していたということではないようだ。ある意味でそれが洗練されて、制度的、エチケット的にも確立されてゆくということだろう。

一部の学者が述べるような、乾隆期前まではかなり規制が緩かった(時期もある)のような考えは幻想である。当初から重要な要素であった。一方で、最初から辮髪の形式が変化しなかったということもない。日本の髷も時代によって大きくことなることに似ている。

厳密にどうだったかの議論は続いている。

2006年北京で発見された黄拙吾のミイラも、髪を剃髪していた。明末清初の過渡期を生き、清の武官(康熙帝の四品官)として亡くなった人だと思われるが、記録・伝記がなく詳細は不明。(色々な人物に比定する説はある)。一次、総髪ではないかと言われたが、実際には辮髪だった。(他にも埋葬時の服装が当時の服制と合わないなどいろいろ話題になった人)。

まとめ

明清交代は、習俗の変化という意味でも、大きな時代であった。ただ、以前も書いたように結局それが続くとそれが伝統になり、受け入れられてゆく。以下の記事で述べたように「辮髪を切るなんてご先祖様に申し訳ない」となる。

総髪から辮髪への変化は大きな抵抗があったことは平民から知識人まで共通していただろうが、逆に辮髪を切るとなると、これはあくまで歴史を学んだ知識人からとなる。既に大多数にとって辮髪は大きな問題ではなかったのだから。

明末清初の社会変化についてはまた別稿でまとめたい。


  1. 張闶「清代剃发政策再论—兼与鱼宏亮先生商榷」2021など。 ↩︎
  2. 上海図書館に4巻の写本が所蔵 ↩︎