『三国志』は、非常に詳しい方が多い分野なので、素人の私が入り込む余地はないとは思うのですが、今回は撰者の「陳寿」の人生について、情報をまとめてみました。(昔まとめた備忘録を改定したものです)。自由研究レベルですのでご了承ください。ちなみに、上掲アイキャッチ画像は、「武候祠」(諸葛亮らを祭った祠廟)の写真をUnsplashから転載しております。なかなか雰囲気のある写真ですね。
正史『三国志』
陳壽が著した『三国志』は、二十四史の一つで、前四史(史記、漢書、後漢書、三国志)に含められる歴史的にもごく初期に作られた(晋代)重要な歴史書です。魏書、呉書、蜀書の全65巻からなり、晋の天下統一後に完成したと言われます。紀伝のみからなり、表、志はないという特徴があります。また、非常に簡潔な内容のため、現在では裴松之による豊富な注が施された形のものが一般的です。
余談ですが、日本語の文庫版『三国志』が「ちくま学芸文庫」で出たときに、わくわくしながら書店に行ったのを思い出します。「ちくま学芸文庫」は1992年に刊行が始まり、その年の12月には『三国志』の刊行が「魏書」から始まりました。このレーベルは文庫本にしては値段が高額なので、なじみの書店のおばさんに「高いのね!」と驚かれたのを思い出します。(昔の書店ももうなくなりましたが。。)。
「三国志」撰者陳寿
陳寿については、『晋書』や『華陽国志』に記述がありますが、情報がかなり限られています。最初に仕官したのは地元である蜀ですが、歴史文書を編纂する東観秘書郎などを歴任しています。蜀滅亡後は西晋に仕え、昇進左遷を繰り返しますが、亡国の出身者としてはまずまず出世したと言えます。『晋書』によれば297年に病気で亡くなったようです。
『晋書』の傳によれば、陳寿の父は諸葛亮の愛弟子であった馬謖の参軍であったようですが、馬謖が「街亭の戦い」の敗戦を問われて刑死した際に、同じく連座して罰を受けています。「被髠」とあるので、おそらく髪の毛を坊主にする刑罰と思われ、当時においてはかなりの重罰でした。また、陳寿自身も、諸葛亮の息子である諸葛瞻に疎んじられたとも言われます。このような背景が、諸葛父子に対する評価に影響しているのではないかと古来言われてきました。
ちなみに、諸葛瞻については、蜀滅亡時に国に殉じた忠臣という面と、「二世」の弊害なのか、蜀内部の政治闘争ではかなり「あくどい」ことをした人物という面があります。(いろいろ解釈はあるでしょうけれども)。最後の「綿竹の戦い」においても、軍事作戦を指揮する将としては失策を犯し、悲しい最後になりました。(山越えをしてきた鄧艾の軍にくらべ、諸葛瞻の軍は数の点でも有利だったと言われる)。最後は国に殉じたとはいえ、やはり残念な印象は拭えません。
このような激動の時代を生きたのが陳寿であり、彼の著作にも当然その複雑な背景が反映していると思われます。
陳寿の出自と蜀漢政権の特色
陳寿の歴史観は、その出自に大きな影響を受けています。蜀漢政権は、その始まりから「寄せ集め」の政権でした。『三国志演義』のストーリーを思い出しても分かるように、劉備は流浪の軍人でしたし、諸葛亮も荊州勢力(出身は徐州)でした。地元の豪族や、後漢末期に赴任した劉焉・劉璋父子の家臣など様々な勢力が混合した集団でした。(簡雍、麋竺らは劉備古参の臣、費禕、董允らは劉璋配下、諸葛亮、蒋琬、馬良などは荊州閥・・など)。
この各「派閥」の対立関係は当初から存在しましたが、深刻化するのは諸葛亮の死後です。もっとも、蜀の場合は出身勢力で対立するだけではなく、ただ私怨で仲が悪い例も多く1、単なる内輪もめという部分も大きいようです。こういった内部での不和は、蜀の国力を弱める結果になりました。元々、諸葛亮ら外来勢力は北伐を主張し(例外もある)、地元勢力は国力の疲弊を憂慮して反対するというような構図がありました。
譙周ら蜀の名士たちは別にして、地元の出身者の多くはあまり重用されませんでした。蜀漢政権の中枢は尚書系列の官でしたが、その高官に就任した30人の内、外来者が23人、地元が僅か7名という研究もあります。2
陳寿は、地元巴蜀の豪族であり、『華陽国志』で陳氏は「大姓」として記述されているので、かなりの勢力を誇る一族だったことがわかります。安漢陳氏は古来から中央ともつながりを持つ豪族でした。しかし、前述のとおり父親と二代にわたって不遇な経歴をたどったことからわかるように、やはり土着豪族としてあまり出世できなかったということがわかります。そして、このような状況は、蜀漢滅亡後の晋の時代においても続いたようです。
この「陳寿不遇」という考えについては異論もあり、結局そこそこの官位を得ていたのだから「蜀漢人士としては異例とも言える出世頭だった」とする考えもあります。3 全体的には、蜀漢時代から既に巴蜀出身者の不遇は続いてたことを考えると、やはり陳寿は「そこそこ出世した」とは言えます。
地勢からいっても不利であった蜀漢に北伐を続ける以外どんな上策があったのかはもはやわかりませんが、地元の人々の負担が非常に重かったのは事実です。外来政権が北伐を続けられたのは、諸葛亮の政治手腕あってのことでした。
陳寿の諸葛亮評価
陳寿の考え方や正史『三国志』を理解する上でとても重要なのは『諸葛亮伝』と言われます。それで、諸葛亮に対する陳寿の「姿勢」について先ずまとめておきたいと思います
古来陳寿に対しては、前述のような背景から諸葛亮への私怨があったとする批判があります。後述するように、現王朝に忖度する必要がある「正史」である故の「曲筆」もあるでしょうし、私怨の部類と思えるものもないとはいえません。
ただ、諸葛亮が神の如くあがめられるようになり、蜀が(判官びいきもあって)正統であってほしいと多くの人が言うようになればなるほど、陳寿の著作にも厳しい目が向けられるようになったという側面もあります。
では陳寿はどのように諸葛亮を評価しているのでしょうか。一番有名な部分を引用いたします。
領土内の人々はみな彼を尊敬し、愛した。…彼の心配りが公平で、賞罰が明確であったからである。…しかし、毎年軍を動かしながら、よく成功をおさめることができなかったのは、思うに、臨機応変の軍略は、彼の得手ではなかったからであろうか。(然連年動衆,未能成功,蓋應變將略,非其所長歟)。
「正史三国志・蜀書」諸葛亮伝(ちくま学芸文庫)
この部分は、政治家としての諸葛亮を高く評価する一方で、軍略については若干批判的です。このような書き方は、『三国志演義』に近い物語を好む人達や諸葛亮を「崇拝する」人達には古来批判されてきました。
陳寿は諸葛亮伝の「評」部分だけでなく、列伝体では珍しく「諸葛氏集目録」を皇帝に上奏した際の上奏文を掲載しています。その中でも諸葛亮への評価を述べている部分があります。
然亮才、於治戎為長、奇謀為短、理民之幹、優於將略
訳文は「正史三国志」ちくま学芸文庫より
(諸葛亮は、軍隊を治め統べることには長じていたが、計略策略は不得手であり、民を治める才幹が将としての才略より優れていた)
ここでもやはり、軍略と政治力を比較した評価が貫かれています。確かに司馬懿が五丈原からの蜀軍の撤退跡を視察した際に、「天下の奇才」と評していますが、それは戦術(軍略)というより統率や軍紀(政治)のすばらしさをたたえたものでした。
また、注目できるのは続きの部分です。
至今梁益之民,咨述亮者,言猶在耳
訳文は「正史三国志」ちくま学芸文庫より
(今に至るまで、梁州・益州の民で諸葛亮を褒め称える者は、彼の言葉がまだ[実際に]聞こえるかのように語る)
「言猶在耳」とは『春秋左氏傳』にある言葉で、「言われた言葉が生き生きと心に残り忘れられないこと」を言うようです。いかに民に慕われていたかがわかります。
然其聲教遺言,皆經事綜物,公誠之心,形于文墨,足以知其人之意理,而有補於當世
訳文は「正史三国志」ちくま学芸文庫より
(その教訓や遺言は、すべて万事に正しく対処したもので、公正誠実の心は、文章ににじみ出ており、かの人の意図を知るのに十分でありまして、現代においても有用なものがふくまれております)
陳寿の「諸葛亮評」は、全体として「冷静に賞賛している」というのが事実だと思います。
このような「諸葛亮評」には、『三国志』が編纂された理由や、陳寿の歴史認識も関係しています。それは続く部分で考えてみます。
陳寿の歴史認識
基本的に定説では、『三国志』は蜀を正統とする『演義』と違い、魏を正統とし、その魏から禅譲された晋の正当性に基づいて書かれているとされます。同時に、蜀の遺臣である陳寿はできる限り蜀への配慮も忘れていないとされてきました。たとえば、呉の皇帝孫権は、呉書では「権」と諱を呼ばれているのですが、劉備については「先主」という特別な呼び方をすることや、劉備の妻たちについては「…皇后」という呼び方で伝を立てていることなどが挙げられます。
また、曹丕が皇帝に即位した際の記述と、劉備が即位した際の記録を見ると、明らかに劉備の方が詳しく重要な史料を豊富に掲載しているなど、その「隠れた蜀正統論」を読み取る学者は古今を問わず存在してきました。(朱彝尊『曝書亭集』巻59陳寿論、王鳴盛『十七史商榷』等清代の学者が有名)。
「公然とは表現できなかったが密かに蜀を高めている」という発想は、もっともらしいのですが、いろいろと疑問が浮かぶことにもなります。つまり、後世のほとんどの学者達が読めばわかるようなことが、当時の朝廷や文人達が分からないはずはないのではという疑問です。つまり「密か」というより最初から「明らか」なのではということです。
たとえば、田中靖彦氏の論文「陳寿の処世と『三国志』」では、この問題に関連して、まず陳寿の歴史家としてのバランス感覚について論じています。
田中氏は『三国志』には、「漢献帝=>魏の曹操」、「魏文帝=>呉の孫権」と、それぞれにたいして「九錫」が下される「九錫文」の記録があるのに対し、蜀についてはその記述がないということを指摘しています。「九錫」下賜は「禅譲」に至る過程になる場合もある最高の恩典であるため、『三国志』は蜀正統論一辺倒ではないとし、次のように論じます。
確かに蜀の権威は抜きん出ているが、さりとて魏呉を完全な非合法政権と一蹴しているわけでは全く無い。かかる陳寿の筆法を「蜀漢正統論」と理解してしまうと、あたかも陳寿は蜀のみを合法政権とし、魏呉は全く取り合わなかったかのような誤解を生む。それよりは『三国志』は、比重の差こそあれ、三国いずれに対しても一定の合法性を認めていると見たほうが現実的であろう。
田中靖彦「陳寿の処世と『三国志』」2011(下線筆者)
その結果田中氏は、「漢→魏→晋」「漢=蜀→晋」「漢→魏→呉→晋」(これは九錫を呉に授けていることを解釈)という3つの過程(歴史観)を提示している。結局『三国志』と銘打った陳寿は、晋が三国戦乱の時代を終わらせたという点を最も強調しているのです。田中氏が言うとおり、陳寿は現政権である晋に最も迎合しており、一定の正当性を持つ3国全てを平定した晋は「最も偉大な存在である」4ということなのでしょう。
陳寿は、蜀を密かに正統として記述しているのではなく、どの国にもバランス良く配慮しているというこの学説は理にかなっているような気がします。故郷への思い入れは当然あるわけですが、『三国志』は正式な歴史書として編纂され、晋の官僚のチェックも経て皇帝に献上されたものですから、「密かに蜀正統論を潜ませる」という考えはやはり無理がありそうです。
もう一つ重要なのは、元々『三国志』は非常にあっさりした内容だったということです。あまりに内容が簡素なので後に膨大な註が付くことになりました。私たちが持つ『三国志』のイメージは、その「註も含めて」形成されているということです。
裴松之による註は、本文と同量とも言われる膨大なものです。そして彼は、東晋の遺臣ではありますが、註を付けたのは宋が成立してからなのです。つまり、註の部分については晋に過大な忖度は不要な時代に編纂されているのです。陳寿の背景と註を付けた裴松之の背景はかなり異なるわけなので、註を一切なしにして読んでみると、また違ったイメージになるのだと思います。
後世の正史は、王朝が滅びた後暫くして書かれたものが多いですが、『三国志』の場合は、扱っている時代が短く編者の生きた時代と重なる部分もある故に、なかなか気を遣うところが多かったものと思います。
陳寿の『三国志』著述目的
陳寿がどういう目的で『三国志』を書いたかは色々な意見や視点があると思います。私個人として納得できる意見としては、「蜀漢の遺臣たちの存在をアピールするためだった」というものがあります。つまり、蜀漢の遺臣たちが晋の官界で不遇であったという背景が著述姿勢に表れているという考えです。
渡邉義浩氏の論文では、特に諸葛亮の描写に注目してこう述べています。
このように陳壽は、西晋に仕えながら不遇であった旧蜀漢系人士の立場から、三国時代を描いている。したがって、陳壽の『三國志』には、西魏・西晋を正統としながら、旧蜀漢系人士の西晋での登用を願うという「傾き」が含まれている。諸葛亮傳は、こうした陳壽の偏向において、重要な位置を占める。諸葛亮が、政治能力に秀でるばかりでなく、家臣として劉備の遺嘱に応え続け、五丈原において斃れていくまでの「忠」に溢れる生き様は、旧蜀漢系人士の西晋への仕官のプラス材料として恰好なものであったためである。
渡邉義浩「諸葛亮像の変遷」1998(下線筆者)
つまり、官僚・臣として優れた規範を残した「蜀」の諸葛亮らを強力に宣伝することによって、旧蜀漢系の人々の人材登用を願うという「仕掛け」だったと論じているのです。
個人的にはこれが一番しっくりくる気がします。「正統論」はどんな形でもやり過ぎれば直ぐに朝廷内の読者に知られてしまうわけで、あくまでそれは晋王朝に不快感を与えないレベルでなければならないはずです。しかし、「有能な官僚」「忠臣」として諸葛亮や蜀漢の人間を宣伝すること自体は、「忠臣」を必要とする朝廷のニーズにも適合したはずです。(司馬懿らへの忖度はもちろんしたけれども)。
この点で興味深いのは、『三国志』編纂以前の同時代の人達は諸葛亮を「忠臣」という角度で評価をしていなかったということです。もちろん、事実としてはだれもがそのことに異論はなかったと思いますが、諸葛亮と言えば、やはり政治家としてのずば抜けた技量だったようです。
陳壽が、あれほど諸葛亮傳で強調した「忠」臣としての諸葛亮像は、「忠武侯」という諡にもかかわらず、同時代人の亮認識には現れない。諸葛亮傳以外で君臣関係の厚さに言及するものは、南中討伐の際に呂凱が、亮は劉備から遺託を受けて劉禪を輔佐していると述べる事例のみである(『三國志』巻四十三。呂凱傳)。劉備への「忠」を尽くした家臣としては、關羽・張飛が想起されるためであろう。つまり、後世で強調される「忠」臣としての諸葛亮像は、西晉王朝下で蜀漢系家臣の登用を願うという「偏向」の中で描かれた陳壽の諸葛亮傳に依拠しているのである。
渡邉義浩「諸葛亮像の変遷」1998(下線筆者)
つまり、諸葛亮は非常に優秀な政治家であり、魏や呉の政治家たちからすれば自国の脅威ですらあったわけですが、まだ「忠臣」というイメージではありませんでした。しかし、このイメージを一歩進めたのが陳寿だと言えるのかもしれません。彼は死に至るまで劉備の遺訓を守って遺児劉禅に仕えた「忠臣」としての諸葛亮像を(晋の朝廷に)提供しています。
ただし、彼の書いた「諸葛亮」はその後彼の手を離れ、裴松之を初めとする後世の人たちの手によってさらに「忠臣」としてのイメージが膨らみ、やがて「神」にまでなるのです。
このように、優秀であっただけではなく「忠臣」としての諸葛亮像をアピールすることで蜀漢の遺臣へのイメージを改善したかったということは十分考えられるのではと思います。
陳寿の曲筆
「三国志」には、彼の「曲筆」が明らかに含まれるわけですが、それも彼の西晋王朝での「処世術」5だったと考えると理解はできます。(西晋の臣としては当然ですが)。つまり、「『三国志』は西晋時代に書かれたので、当時の王朝である晋や禅譲した魏に忖度せざるを得なかった」というより、「進んで忖度した」というのが自然でしょう。(さらに個人的な価値観や好嫌いも当然反映されているでしょう)。もちろん、現在の価値観でこれが「悪である」というような決めつけはできません。私個人の感想としては、陳寿は政界で生き抜くために、自分の人脈、出身地、王朝に忖度したというのが実際なのかなと思いました。
曲筆については、津田資久氏の「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(2003)等をご参照ください。個人的には、西晋は政治的にも終始不安定でしたから、自分の立ち位置に敏感であったということかなと思っています。
まとめ
子どもの頃から三国志(演義)が大好きでしたが、考えて見るとこの時代は中国史の中でも最悪の時代の一つでした。相次ぐ戦乱で、後漢までに増加した人口も激減しました。(記録の問題もありますが)。また、三国志でなじみの深い英雄達の多くは(たとえ端役でも)あくまで「偉い人達」であって、まさに「一将功成りて万骨枯る」という時代でした。中学生ぐらいの時に、そんなことを考えてなんだか複雑な気持ちになった記憶があります。(それで今度は『水滸伝』にはまった・・)。こんなひねくれた子どもばかりでは、せっかくの物語も楽しめなくなりますが、ある意味、こういった物語を楽しめるのは、太平の時代の証拠でもあるのでしょう。
以上、長文おつきあいいただき、ありがとうございました。
(2016年6月初稿。2024年11月改定)
参考文献: