この記事は2013年に他ブログで書いた記事の引越版です。転載にあたって一部記事を再編集しております。
すでに3作が同文庫で邦訳されていて(追記:2025年時点で5作)、どれも中世の人々の暮らしに焦点を当てていて興味深いものでした。著者のジョゼフ・ギースとフランシス・ギース夫妻はアメリカの歴史家。(夫のジョゼフは2006年死去)。中世に関する多数の著作で知られます。
今作は、中世は暗黒時代という一方的なイメージを払拭する良作です。(もちろん、ある意味での暗黒は存在したわけですが)。どの時代も、生活した人々の歴史があり、喜怒哀楽があります。今作では特に中世が停滞の時代ではなく、多くのテクノロジーが改良発展した時代であることを論証します。
高く評価できる点は、アジア発祥の技術についても公平に議論し、洋の東西の優劣論争になっていないことです。(中国由来の技術の記述も豊富な点がうれしいです)。ある技術がいつ誰によって発明、改良されたかは、記録が残らない限り決定的ではないわけで、その点でも過度に断定的にならないところに好感が持てます。その一方で、全体的印象は情報の羅列という感じもします。客観性を目指す以上、これはやむを得ないことでしょうけれども。
中世の定義はいろいろあるようですが、およそ5世紀から15世紀ごろまでと考えるのが一般的でしょうか。この本では中世イコール「暗黒時代」というレッテルは考え直すべきであることが論じられます。本書の最初には、近年の動向として、この時代についての文書資料が少ないという意味で「暗黒時代」という言葉を使うべきであるという意見も紹介されています。ヨーロッパ中世は「暗い停滞の時代」というより、だんだんとテクノロジーが進歩した重要な時代であるということがわかってきています。
ただ、中世において「進歩・発展」が意識的に(明確に目指すべきものとして)なされたかという点においては、注意が必要だと思います。もちろん、個々人のレベルでは意欲的に研究開発が進められたはずなのですが、当時の人々全体の感覚はどういうものだったのでしょうか。その点については、アラン・コルバンの「キリスト教の歴史」に興味深い解説が」ありました。
古来ものの考え方においては、十三世紀の始まりまで、進歩の概念は知られていなかった。反対に中世の年代記作者たちは、原初の時代の完全さから遠ざかるにつれて宗教的熱意は徐々に減退してきたという確信を持っていた。それゆえ改革への希求がある種の正当性を見いだすためには、起源への回帰として現れる以外にはなかったのである。起源とは、使徒たちの教会、あるいはアダムとイヴが罪を犯す以前の世界のことである。よりただしくより親しい社会への希求は、もっと一般的には黄金時代への回帰という願望として表現された。この平等と楽園の神話は、中世最後の時代に起こった数多くの政治的、社会的運動のイデオロギー的な背景となった。
「キリスト教の歴史」アラン・コルバン P248(太字筆者)
これは恐らくキリスト教指導層や、知識人階層の考え方なのでしょうけれども、それは一般民衆にも影響を与えていたはずです。中世には「終末思想」も非常に活発だった時期があるので、なんとか昔の「古き良き時代」に帰ろうという欲求は社会全体にあったのだと思います。このような歴史観は、たしかにある種の停滞をもたらしたと思われますが、逆の発想をすると、過去という輝かしい目標に向かって「後退」(回帰)という「前進」を図ったのだとも言えるかもしれません。のちにガリレオと激しく対立するに至るキリスト教会は、中世においては皮肉にも(修道院などにおいて)科学研究の最先端を担うことになるわけです。(そもそもガリレオの主要なパトロンは教皇だった)。
気候変動や疫病などで人口が激減したという意味ではたしかに「暗黒な」時期ではありましたが、それでも人は力強く再生し、むしろ以前にも増して活気づいていきました。この本を通して、人類の力強さや、生命のたくましさを改めて感じました。
(2013年3月22日)