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中国ドラマ「金庸武侠世界『華山論剣』」考察・後編

中国ドラマ

前回に続いて、金庸武侠世界『華山論剣』の考察「後編」です。前編は以下の記事をご覧下さい。(『射鵰英雄伝』関連の年表もまとめております)。

本作は、レビューサイト豆辯でも6.2と大作のわりに厳しい評価で終わりました。前回同様、最初にこのドラマの共通した問題点(と私が勝手に考えていること)を先に提示してから始めたいと思います。

全体を通しての問題点
  • 一番の問題は、「金庸武侠世界」と銘打っているにもかかわらず「解釈」ではなく「創作」になっていること原作の世界観からあまりに乖離してしまったため、「金庸武侠世界」とは言えない作品になった。もちろん、今回は前日譚なので、オリジナル要素が多くなるのはわかる。しかし、パズルのピースをはめるような補完ではなく、「異形のもの」を無理矢理はめた作品となった。
  • 一方で、「金庸武侠世界」と言わず、原作とは別に外伝や二次作品として作られるのであれば、評価はまた違ったはず。
  • また、ドラマの質が四部でかなりばらつきがあり、総合的な評価を下げることとなった。

では続く第二部以降の考察に進みたいと思います。今回もネタバレが多いためご注意ください(以下の感想は引き続き私個人の独断と偏見と天邪鬼の産物です)

第二部「東邪西毒」

新疆の草原(Image by Kanenori from Pixabay)

監督は徐兵。この第二部はかなり質の高い話でした。視聴者の間でもこの第二部が一番評判が良く、私も一番印象に残った物語です。第一部に続いて、周一囲の黄薬師も陳都霊の馮衡も本当に良かったです。高偉光が好演した西毒欧陽鋒との関係性も面白いものでした。1994年の王家衛の映画『楽園の瑕』の原題も『東邪西毒』でしたので思い出した方も多いようです。

出演陣も非常に贅沢で、登場するキャラもとても魅力的です。東邪と西毒の話なのに、尹鑄勝の演じる悪役扈千手や許君聰演じる柴家の長老柴穹の存在感の方が凄かった気もします。

アクションはまさに武侠

そして、とにかく第二部はアクションが素晴らしいです。本シリーズのアクション監督は谷軒昭で、『功夫』(邦題:カンフーハッスル)、『道士下山』、『影』(張芸術謀監督作品)などで有名です。特に黄薬師の武功(内功)の表現や、周小飛を始めとする武術家たちの披露するアクションも素晴らしかったです。特に、柴穹と黄薬師の内功比べのシーンはこの作品の一番の見所でもありました。

でも・・「金庸武侠世界」とは別の「世界」

第二部は大変魅力的な物語ではありましたが、一方で「金庸武侠世界」からは大きく乖離することとなりました。

重要なキャラ設定の改変

この第二部では、本ドラマの設定に関係した重要な示唆が多かったです。例えば、黄薬師が最初に登場する場面では修行中の彼の髪は真っ白です。それが「成功了・・」となると、髪が黒くなるのです。これは最後の第四部で具体的に説明されることとなりますが、「八荒六合唯我独尊功」によるという設定のようです。これは『天龍八部』の天山童姥の絶技(若返りの術・・)だったと記憶しますが、これは一体どういう改編なのでしょうか?? つまり、黄薬師は実年齢が100歳以上ぐらいで、何度も(あるいは初めて)若返っているとか? また、第四部で「偽洪七」が登場した時には、その「そっくりさん」が逍遥派の「小無相功」を使っていることを見抜いています。これも天山童姥や虚竹など『天龍八部』関連の技なので、黄薬師は一体何歳なのでしょうか。(レビュー前編の物語タイムライン一覧をご参照ください)。あるいは黄薬師は逍遥派(虚竹?)の弟子だったのでしょうか。こうなると、少なくとも「最終改訂版」の梅超風の説明とは矛盾することにはなります。この辺は私の中国語力の限界もあり、ニュアンスがよくわかりませんでした。(お詳しい方の分析を望みたいところ)。

これらは大変面白い改編ですが、やはりまったく「金庸武侠世界」には繋がらない(むしろ矛盾する)ので、今回のドラマシリーズの趣旨からすれば残念な改編でした。黄薬師の武功の起源については諸説ありますが、この設定にはやはり無理があります。(あくまで個人的な意見です)。

素晴らしかったが、最も原作を破壊した

そう考えると、もはやオリジナル作品とも言えるので、優れて面白い作品ではありましたが「金庸武侠世界」と銘打ってはいけない作品だと思います。

黄薬師の役割が今回非常に大きく改編され、武功についても卓越した設定にしたことで、独特の面白さが出たのは確かです。しかし、「金庸武侠世界」(『射鵰英雄伝』に繋がる話)とはまったく乖離してしまいました。そもそも、黄薬師は原作では年若いころから「邪」なのです。親に反抗し、祖先をないがしろにし、朝廷の腐敗を糾弾したお尋ね者です。名家出身ゆえに高い教養や才能も持ち合わせています。今作はそんな「東邪」からまったく乖離した、内省的で純朴な修行者になってしまいました。そしてさらに「若返り?」では、キャラ設定が支離滅裂になってしまいます。

この黄薬師中心の大きな改編の影響が結局物語り全体に大きく影響し、バランスがかなりくずれてしまったのが残念です。物語としてはこの第二部が一番素晴らしい作品であることは確かですが、一方で、最も原作を破壊している気がします。(もちろん他の部も原作との乖離は激しいけれども)。

これは、欧陽鋒についても言えます。今作で彼は大変魅力的な若者として登場します。これはこれで面白いですし、歓迎している視聴者も多くいます。ただ、これはもう「西毒」ではありません。彼は基本的に若いころからすがすがしいまでの大悪党です。兄嫁との間に子供(欧陽克)をもうける不義密通をし、多数の武術家や無辜の民を殺します。その大悪党が結局精神を病んで、達人でありつつもどこか憐れな老人となってゆくのがこの話の魅力です。ドラマ版欧陽鋒は「美化しすぎ」(整いすぎ)と感じます。

もちろん、純真で世間知らずの黄薬師や、人を気遣う優しい欧陽鋒が、年を重ねて『射鵰英雄伝』のキャラになる理由付けをしようとしたのはわかります。しかし、「金庸武侠世界」を標榜するならば、原作の基本的な設定は動かすべきではなかったと思います。

二人の邪悪さや灰汁の濃さをできるだけ少なくして、いい話・感動的な話にしてしまった結果、原作の面白みが減じられてしまったように思うのは私だけでしょうか。

第三部「南帝北丐」

雲南(大理)の崇聖寺三塔(Image by 多尼的棍仔糖 from Pixabay)

監督は鄧科。相変わらずの名優揃いで豪華なキャストでした。この第三部はかなり批判が多かったです。この作品だけかなりトーンが違うこと(ちょっとコメディータッチになったこと)、改編がかなり大規模で原作との乖離が激しいこと、セットも急に安っぽくなり全体の完成度が落ちたことなどが批判されました。

役者の年齢が・・

私が気になったのは、役者の年齢です。公開時点でですが、明道(洪七)が45歳で、何潤東(段智興)が50歳です。前作の『鉄血丹心』のキャスティングに合わせて、継続登場ということなのはわかるのですが、話の内容からすると、二人の青春時代(駆け出しのころ)を描いているわけなので、やはりかなりきつかったと思います。(この時期を描写するなら別の役者を使うべきだった)。

第四部『五絕争鋒』の頃であれば、段智興が40代、洪七は30代だと思われるので、ギリギリ良かったと思うのですが、あえてかなり若い頃を描いたことで違和感がありました。

二人の設定は「金庸武侠世界」からの大きな逸脱

本来この二人は原作ではほとんど絡みがなかったと記憶しています。第二部が「東邪西毒」なので、第三部が「南帝北丐」となるのはよくわかるのですが、結局そのために無理矢理二人の若い頃の物語を作り出し、その結果大規模な改編になってしまいました

本来段智興の物語は、洪七とではなく全真教(周伯通)との関わりが強いわけです。それは、本編の『鉄血丹心』でもある程度描かれた周伯通と段智興の妻の不倫、そしてその赤子を嫉妬から見殺しにした段智興という因縁でした。この因縁は前作『鉄血丹心』のラストで解決を見るわけですが、本来は今回のドラマの中で詳しく描いてほしかった話でもありました。もっとも、そうなると洪七が浮いてしまうのでこの形にまとめざるを得なかったのでしょう。

二人の若い時代については原作ではほとんど情報がないので、第三部は一番大きな改編(物語追加)が必要になるのはわかります。しかし、原作には繋がらないような形での改編というだけではなく、「武」の点でも「侠」の点でも、薄く軽い物語(脚本)になってしまったのが残念です。特に、親の仇の話やラブロマンスみたいな設定は、ちょっとやり過ぎでした。

しかし!第三部には「金庸武侠世界」らしい部分もあった!

第三部に批判が多いのは、前述の通り当然とも言えるのですが、ただ、意外にも「金庸武侠世界」と賞賛出来る点があると思っています。この第三部には「金庸武侠世界」の、ピースを埋めるような役割をする情報があるのは高く評価されるべきだと思います。

それは、『天龍八部』の虚竹と思われる「小師父」の設定。虚竹が、子供にまで若返る(繰り返す)というのは、前述の黄薬師の場合と同じく逍遙派の「八荒六合唯我独尊功」によるものでしょう。黄薬師の場合はかなり無理がありますが、虚竹の場合は、原作でも逍遙派と密接に関係していますので、十分あり得る話です

そして、この虚竹が、洪七へ『降龍十八掌』を「直接」伝授するというのも十分ありそうです。『天龍八部』において丐幇幇主の蕭峯が30代で亡くなったのが1100年より少し前とされますので、蕭峯の弟分だった虚竹が内功の力で1200年ごろまで生きているとすれば当然100歳以上でしょうか。

金庸による「最終改訂版」では、蕭峯は直接弟子に武功を伝授せず、義弟である虚竹に伝授したようです。元々は『降龍二十八掌』だったものを二人で改良して『降龍十八掌』として伝えたとします。そう考えると、『降龍十八掌』の「完全版」は、虚竹から洪七へ直接伝授されたという設定も自然ではあります。

この第三部は、作りとしては大変残念なのですが、この部分だけは本作中で一番評価しても良いのではと思うほど「金庸武侠世界」を補完する設定でした。

第四部「五絕争鋒」

華山
華山(Image by Christie Horng from Pixabay)

監督は曹盾。(『長安24時』『海上牧雲記』など)。かなり優秀な作品が多い印象の監督です。脚本、撮影などを経て監督となった模様。この最終部、映像としてはかなり凝った作りでした。

第一部と三部についても批判は多かったですが、結果的に一番批判されたのは、この第四部だったと思います。私個人としては、「乖離」の根源は第二部で、一番金庸らしくない話がこの第四部だったと感じます。特に、そもそも『華山論剣』そのものの意味も変更された(壊してしまった)ことで物語の意味がそもそもかなり変わってしまいました。彼らの武功設定や主要登場人物すらいじった結果、「射鵰英雄伝」の時代に繋がらなくなってしまったことは大きな問題でした。

ちなみに、「華山論剣」は、本来黄薬師独身時代(再婚でなければ)の話なので、ドラマは原作とやはりかなり乖離しています。でも、最後に「おかえり」と黄薬師を迎える人がいるのは、とても感動的ではありました。

『五絶争鋒』とはなんだったのか

古い武侠小説風に終わるのでは無く、現代的な価値観で話を美化して終わろうとしたのかもしれません。しかし、その結果「金庸らしさ」は失われてしまった気がします。「華山論剣」に集まった武芸者たちは、基本的には王重陽を除けば私欲で集まっています。邪悪な私欲もあれば、「奥義書」への経ちがたい魅力にとりつかれている場合もあります。所属する勢力のためという動機(他者からすればこれも私利私欲)もあります。このぶつかり合いが「華山論剣」なわけです。

このあたりを薄めてしまって、結局「心の戦い」風にしてしまいました。原作の7日7晩の戦いは、なんとなく互いに戦ったり、黄薬師の心の葛藤を美しく描いて見せるなどして、「競争はいけません」という「現代風運動会」のように終わります。

一番問題だったのは、原作にはないラスボス鍾絶聖を登場させ、彼なりの理想論を語らせるという大きな改編をしたことです。彼が言っていること自体はなかなか面白いことなのですが、「鳴り物入り」で登場した彼も、生かされること無く退場してしまいました。五絶の上にさらに強い鍾絶聖を急に登場させた結果、この戦いの意味すら不明瞭になってしまいました

二つ目に問題だったのは、葭蘭が『九陰真經』を暗唱することで、何か悟った五絶たちは鍾絶聖に勝利するという設定です。彼らはその中身を見たくて争っているはずなのに、冒頭だけとはいえ、みんなに読んで聞かせてよいのでしょうか。(後日『射鵰英雄伝』の時代までも、中身をめぐって争うはずでは?)。しかも、その冒頭だけを聞いた5人が瞬時に奥義を悟るのもおかしいと思うのです。

そもそも葭蘭が暗唱できるという設定にも問題あります。これでは彼女が最後に市井で普通に生きたいと思っても、今度は彼女が狙われるでしょう。(『神鵰侠侶』への伏線を張っているのだとしても無理がある)。

さらに、ドラマでは軽い戦闘があって、最後の重要な決戦についてはナレ死ならぬ王重陽の「台詞だけ」で終わりました。結局『五絶争鋒』という主題はなんだったのでしょうか

結局ここでも、武侠ドラマの重要な要素「武」や「侠」が薄い話となり、全四部の中で「一番面白くない作品」という印象で終わりました。(あくまで私見です)。

ちなみにラストで洪七が指を切る場面がありますが、原作はあんなにかっこよくなく、本人曰く、食い物に手が伸びて失敗したことがあるから切ったとのこと。ちょっと美化しすぎて、洪七らしさがなくなっているのも残念。

周伯通の話

周伯通は、全真教の創設者王重陽の義弟という設定ですが、周伯通にも原型となった人が実在します。1169年春に、王重陽は山東の寧海の人である周伯通に要請されて彼の元を訪れたという記録があり、周伯通の支援で、「金蓮堂」を立てたとされます。1 

実際に入信したのかなど、ほとんど彼の詳細はわかりませんが、おそらく現地の富裕層の一人で、ある種のパトロンのように王重陽らの活動を支援したということなのでしょう。小説中で、周伯通が王重陽の義弟ではあっても、全真教の弟子ではないという不思議な設定になっているのも、この史実に着想をえているのかもしれません。

大漠風沙: 金庸作品集新修文庫版 (射鵰英雄傳 Book 1) (Traditional Chinese Edition)
遠流
『射鵰英雄伝』の最終改訂版(Kindle版)です。台湾の遠流から出ている繁体字版。

まとめ

前後編に渡って冗長な辛口評価になりましたが、「金庸武侠世界」とは違う「世界線」・・と考える方がよいのでしょう。全体的には、(『南帝北丐』は番外編として)基本的に黄薬師中心で作られている印象でした。実際第二部『東邪西毒』が一番早い時期に作られていたようなので、これが基本プロットだったのかもしれません。

本作品の多くの部分は原作の「前日譚」であり、原作にない物語です。したがって、評価の基準となるのは、原作通りかという問題ではなく、「『金庸武侠世界』が再現されているか」や「原作に繋がるか」ということだと思います。「金庸武侠世界」をテーマにする以上、やはり「視聴者を納得させる繋げ方」が不可欠だったと思いますが、その点では明らかに失敗でした。面白いオリジナル作品ではありましたが、「金庸武侠世界」からはかなり乖離した作品となりました。

そうは言っても、あくまで娯楽作品であり、商業的成功も重要です。結局その時代の視聴者が何を求めているかが大事なのも十分理解出来ます。その意味では、金庸ら新派武侠小説の作品がそのままでは時代に受け入れられなくなりつつあるということでもあるのかもしれません武侠小説の、「醜い部分」「エグい部分」をそぎ落として、かなり「優しい道徳的な」「今時」のドラマだったととも言えます。

一喜一憂しながら見た本作品も、面白い挑戦ではあったと思います。次の『金庸武侠世界――神鵰侠侶』は、原作をさらに魅力的なレベルで見せてくれるような作品であってほしいものです。(改編自体はいろいろあって良いとは思いますので)。

以上は私の独断と偏見による「天邪鬼」な感想にすぎません。また、原作やドラマに関して、中国語力不足による誤解などがあるかもしれませんので、他のお詳しい方のレビューも是非ご覧下さい。長文を書きちらしてまとまりがつかなくなった感もあり、最後に重ねてお詫びいたします。

冗長な文章をお読みくださり感謝いたします。


  1. 蜂屋邦夫「譚長真の生涯と思想」1966年 ↩︎