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大河ドラマ「光る君へ」第2話感想

源氏物語絵巻橋姫 光る君へ

感想に入る前に、引き続き不安に思った点をいくつか。

先回の「どうする家康」でも感じたことなのですが、特定のフィクション(設定)が、あまりに大きくなってしまって、全体の話がそこに引きずられてしまうのがどうも気になります。「家康」の時は、瀬名のキャラ設定が、全体にあまりに大きく影響を与えてしまった気がします。また、それが極めて現代的な価値観とセットになっていたので、なおさら気になりました。

今作では、第一話は母親が藤原兼家の三男(ドラマでは庶子を外して次男?)藤原道兼に殺害されるというフィクションの設定がありますが、これはかなり重大な設定であり、どうも今後この部分に引きずられ過ぎることはないかと懸念しています。そうなると、前作と同じく、あまりに現代的なドラマになってしまうのではとも思うのです。千年以上も昔のことで、分からないこともたくさんあるわけなので、ある程度自由な話でいいと思うのですが、是非時代の雰囲気を大事にしてほしいと願っています。

関係して、もう少し台詞を「歴史ドラマ風」にお願いしたいと思います。あまりに軽い台詞が多くて残念です。時代の流れなのかもしれませんが、もう少しその時代の風景を見せてほしいと思います。同じNHKの、「いいね!光源氏くん」のようなドラマなら、ファンタジーですから何も言うことはないのですが・・。(逆に一周回って、現代との違いや隔たりが引き立った気すらする名作だと思っています)。


さらに、初回に指摘した劇伴(音楽)もやはり違和感が続いています。(あくまでこれは個人の好みではあります)。

第二話の感想

第二話から吉高さん演じる大人の「まひろ」(紫式部)となりました。博学な紫式部の雰囲気は意外と良く出ているのではと感じました。吉高さんの演技はかなり前の記憶しかないので、正直若干不安はありました。でも今回拝見して、意外と(連呼してすいません)、良いかもしれないと思いつつあります。

やはり、彼女の口から出てくる漢籍についての台詞や書の雰囲気は、歴史好きにとってはうれしいところです。

内容自体の感想は、多くのレビューサイトや動画で語られていると思いますので、私は前回第一話に引き続いて強調される、彼女と母親のことを少し書きたいと思います。

国仲さんが演じた紫式部の母は、藤原為信の娘で、本名はわからないようです。父為時最初の妻でしたが姉(長女)、紫式部(次女)と惟規(弟。兄とも言われる)の惟規を生んだ後早世しています。

このあたりの背景を歴史考証の倉本一宏氏は次のように分析しています。

為時二女として生まれた紫式部は、早くに生母に死別し、父も後妻の許に通う日々の中で、寂しい幼年期を過ごしたはずである。当時、妻を亡くした男が再婚したり、他の妻の許に通ったりしたことは、よくあることであったとはいえ、自分たちの住む家から新しい妻の許に通う父親の姿が、紫式部の男性観に影響を及ぼしたことも、十分に考えられよう。

倉本一宏「紫式部と藤原道長」(講談社現代新書)p17

おそらくこれが、ドラマ第一話から二話に至る空白期間をよく説明していると思います。それゆえにも、私はあまりに劇的なフィクションを挿入した第一話のラストは必要なかったかなと思うのです。

さらに、山本淳子氏の「紫式部ひとり語り」にも、彼女と母親に関することが載っていました。(角川ソフィア文庫版がkindle Unlimitedで読み放題。2024.1現在)。この小説は紫式部の「独白形式」(作家紫式部が自伝を書いている感じ)で書かれたもので、紫式部が残した歌や文書を研究者である山本氏なりの解釈と学説で再構成したものです。他の参考書とも比較するのがよいと思いますが、なかなか面白い試みです。以下に、引用します。


私は、母のことを書きようがない。母は思い出を残さなかったからだ。だが母がいなくても、姉がいた。でもその姉までが逝ってしまった。その時に偶然にも出会った、たまさか似たような境遇だった幼馴染を、身代わりと思って慕って罪があろうか。私は誰かそうした存在を、無理にでも必要としていたのだ。私は後になって書いた『源氏の物語』で、登場人物達を次々に私と同じ目に遭わせた。・・(中略)・・さてどう生きる。母がいなくてあなたたちはどう生きるのだ。それは私から彼らへの問いかけだった。

「紫式部ひとり語り」(角川ソフィア文庫)より

この引用部分は、幼なじみで姉とも慕った友人(姉君)が他界する文脈なのですが、そこで自分の母親のことが言及されています。上記引用の続く部分で、山本氏は「源氏物語」(御法)の光源氏の発言を引用しています。光源氏は、誰かを愛することで「喪失」を補ってきたわけですが、その不毛さを50代になってようやく「人の世の無常を悟るための神仏の教訓だった」と(本当の意味で)悟るのです。このあたりの解釈は、紫式部の仏教感などと関連してかなり重要なようですが、私には解説する力量はありません。

いずれにしても、紫式部が光源氏に「喪失を他で埋め合わせる」ことのむなしさを語らせているのは確かなようです。

紫式部の文筆活動に大きな影響を与えたのは、母の早世や父の再婚(後には夫との死別)などだったのでしょう。そして、彼女の著作はそれを乗り越えた先にあるのでしょう。それゆえにも、冒頭で述べたとおり、そこに「殺人」という大きな「恨み」を含めてしまうとかなり違った人物像になるのではと危惧します。(始まったばかりですから杞憂に終わればと思いますが)。

もちろん前掲の二つの解説も、残された紫式部の文章から導き出した一つの解釈です。実際はどうだったのかはもはや知るよしもないわけですが、紫式部の場合はいろいろな心情を文字で残しているので、ある程度の人物像がわかるのは貴重だと思います。

今後、この亡き母への思いがどのように彼女に影響し描かれるのか、注目したいと思います。

加えて、前のブログでも書きましたが、私は「小右記」の藤原実資との関係の方に元々興味があったので、そちらにも注目しております。(秋山さんという配役はまったくイメージとは違うのですが、意外といい気がしてきました・・)。

蛇足

今作については、平安文化がどのように表現されるのか大変興味があります。(書や歌、漢籍、装束など)。NHKの公式サイトでは、左利きの吉高さんが「まひろ」(紫式部)を演じるにあたって、右利きで書く努力をされているとありましたので、そのあたりを注目していきたいと思います。監修の根本知さんは、利き手でない分、力みがないので「雅に見える」と仰っています。たしかにそう思います。


ちなみに、藤原だらけのドラマのための「系図」を作っておおります。ご参考までにどうぞ。(ただ、さらに混乱すること必定・・)。