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大河ドラマ「光る君へ」第27話感想

光る君へ

毎度「天邪鬼」な大河ドラマレビューを書いております。批判的な分析を主旨としておりますため、世間一般の論調とはかなり乖離しているかと思います。そのため、ご不快に思われる方もおられるかもしれません。前もってお詫びいたします。(以下ネタバレも含みます)。素人の自由研究レベルでありますので、誤りがありましたらご容赦ください。

第27話「宿縁の命」感想

今回はフィクションもほどよくまぜて、なかなか良い回だったと思います。

ただ、やはり心情描写が一貫していないというか自然ではなく、違和感がありました。例えば、「まひろ」は道長を愛しているということが描写された後に、宣孝にたいする気持ちが以前より(前向きに)変化したような描写をするのはなんとなく不自然。(不貞で心が輝いて余裕ができたという解釈も出来ないでしょうし)。もう少し、迷いや罪悪感が最初から表現されてもよかったと思います。話の順番としては、「宣孝との関係改善(ふっきれた)」>「再び道長と再会(再燃)」>「罪悪感」>「妊娠発覚」という順番の方が自然だったと感じます。石山寺訪問が、宣孝と疎遠という前提があったのでしょうけれども、順番がどうも不自然ではありました。

妊娠発覚後の宣孝との場面は、「いい話」にしないところが大変よかったと思います。お互いに「不実」であり、宣孝も道長と「まひろ」の関係を利用しているところをはっきり描いたのはよかったです。その結果、宣孝の魅力が強調されたと思います。元々遊び人で、年の差もあり、大勢の妻を持つ人でしたので、年の功・・・大人の余裕でしょうか。このあたりに現代的な価値観を持ち込まなかったのは良かったです。

彰子入内に際して詠進された屏風歌の話

『小右記』から実資視点で関係する部分を書き抜いてみます。

二十三日、壬申。源相公、左府の使と為て来たりて、屏風の和歌の題を授く。其の詞に云はく、「倭歌を読むべし」てへり。左右、更に御返事を申し難し。只、自ら是を申すべき由を陳ぶ。「上達部、多分に件の題を得」と云々。「又、非参議の歌を能くする者に給ふ」と云々。上達部の役、荷汲に及ぶべきか。(公卿がこのような雑事をさせられるのはいかがなものか)

二十八日、丁丑。皇后宮の御読経に参る。平中納言、藤宰相・式部大輔・宮大夫、参入す。彼此、云はく、「昨、左府に於いて和歌を撰び定む」と。是れ入内する女御の料の屏風歌。華山法皇・右衛門督公任・左兵衛督高遠・宰相中将斉信・源宰相俊賢、皆、和歌有り。上達部、左府の命に依り和歌を献ずること、往古、聞かざる事なり。何ぞ況んや法皇の御製に於いてをや。「又、主人の和歌有り」と云々。今夕、和歌を催さるる御消息有り。堪へざる由を申さしむ。定めて不快の色有るか。此の事、甘心せざる事なり。又、右衛門督、是れ廷尉、凡人に異なる。近来の気色、猶ほ追従に似る。一家の風、豈に此くのごとからんや。嗟乎、痛きかな。(近頃の小野宮家一族のものが阿諛追従する様は、まことにひどいものだ)「上達部、近日近日、西京に参る」と云々。今夕、右衛門督、左府の命に依り、参り詣づ。

三十日・・・・屏風の色紙形を書く。華山法皇・主人の相府・右大将・右衛門督・宰相中将・源宰相の和歌を色紙形に書く。皆、名を書く。後代に已に面目を失なふ。(実名を書くのは慣例に反する恥ずべき事であり、後世の恥である)但し法皇の御製、読み人知らず。左府は左大臣と書く。件の事、奇怪なる事なり。主人、余に和歌を責む。献詞を致すに、承引せず。右大弁、書き了んぬ。

「摂関期古記録データベース」日文研『小右記』読み下しより(長保元年十月)括弧内の訳は勝手な意訳です・・。

上記部分を見ますと、何度も和歌の催促をされており(道長は23、27、29、30日と督促)、辞退すると道長はかなり不機嫌だったようです。なぜ断ったのかは色々な説明があるようですが、基本的に公卿がこのような屏風歌を歌うのは前例がなく(正確には前例はある)、公卿がすべきことではない(専門職にさせればよい)という考えだったようです。一方で、違った説もあります。実際は身分的な問題ではなくて、能力的に屏風歌を詠める人が少なかったという説明もあります。(その結果公卿は読まないという風に思われた)。

またこのころ、実資は太皇太后宮大夫として昌子内親王に仕えていました。その昌子内親王が夏頃から病を発しており、時期が重なってたため、慶事とは言っても歌を詠む気にはならなかったと説明する研究者もいます。1 日記では度々内親王の病についての言及があり、かなり彼も心配していた様子なのでこれも説得力ある説明だと思われます。

ただ、道長と実資の関係性がこれでこじれることはありませんでした。道長側としては「無理なお願い」をしていたという意識があったでしょうし、実資側も表向きは道長支持の大人の対応をしていたということでしょうか。

ドラマでの歌屏風のシーンは、なかなか面白く二人の関係性を描写していたと思います。ただ、上記の通り昌子内親王の病悩という要素が関係しているとすれば、そんな「誠実な」実資も見てみたかった気がしました。

一帝二后の話

彰子入内後に発生した一帝二后についてのまとめです。

定子入内の時

道長の兄道隆は、娘の定子を若き一条天皇に入内させていましたが、正暦元年十月に娘を中宮とします。中宮とはそもそも古くは「宮」=建物を指す言葉でしたが、のちに三后(皇后・皇太后・太皇太后)や天皇生母を指して使われるようになります。その後10世紀には意味がさらに変わって、基本的に皇后を指すようになりました。

道隆は定子を中宮にするために、かなり不自然なことをしています。

定子入内後の后の状態

太皇太后:昌子内親王(冷泉天皇の皇后)
皇太后>女院:藤原詮子(円融天皇の女御。一条天皇母。初の女院)
皇后:藤原遵子(円融天皇の皇后。詮子と中宮位を争い勝つが子が無かった)
中宮:藤原定子(一条天皇の皇后)

この中でおかしいのは、藤原遵子が皇后になっていることです。「皇后」は本当なら現在の一条天皇の妻であるはずですが、定子を「詰め込むため」やむをえず空位の「皇后」にスライドさせたということです。(他の称号が一杯だったので、ほとんど同じ意味の皇后と中宮を無理矢理分けてみた・・ということ)。2

彰子入内の時

このあと、今度は道長が権力を握り、彰子入内となります。ただ、当時の状況は道長には予断を許さないものがありました。出家したとはいえ定子が最初の男子敦康親王を出産したからです。もちろん、すでに「中関白家」の凋落は激しく、伊周らも大きな力を持つことはありませんでした。長男とは言えこの皇子の立場は最初から非常に不安定なものでした。

そこで道長は兄道隆に見倣い、入内した彰子の身分を「無理矢理」引き上げようとしました。長保二年(1000年)二月のことですが、以下のようになりました。(一月に太皇太后の昌子内親王が崩御)。

彰子入内後の后の状態

女院(上皇格):藤原詮子(円融天皇の女御。一条天皇母。女院)
皇太后:藤原遵子(円融天皇の皇后)
皇后:藤原定子(一条天皇の皇后。出家)
中宮:藤原彰子(一条天皇の皇后

定子入内のケースでは、ごり押し(本来遵子は皇太后なはず)とはいえ、違う世代(違う天皇)の后でした。(名称の問題だけ)。しかし今回は、一条天皇一人に対して二人の「皇后」(名称が違うだけ)がいるという前回以上に不自然な形となりました。

以上、わかりにくかったのでまとめて見ました。

まとめ

いよいよ彰子入内で、道長の権力固めが始まりますが、まだまだ予断を許さない時期です。「まひろ」の人生も大きく動き始めますが、ドラマではどのように描かれて行くのでしょうか。なかなか面白い回でした。


▼藤原だらけの大河ドラマなので、藤原一族の関係図を作ってみました。さらに混乱すること必定ですが、宜しければご覧ください。


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  1. 劉卿美「彰子入内屏風歌詠進について―実資の公卿意識をめぐって」 ↩︎
  2. 「天皇の歴史3 天皇と摂政関白」 ↩︎