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大河ドラマ「光る君へ」第47話感想|「刀伊の入寇」論功行賞の話など

光る君へ

毎度「天邪鬼」な大河ドラマレビューを書いております。批判的な分析を主旨としておりますため、世間一般の論調とはかなり乖離しているかと思います。そのため、ご不快に思われる方もおられるかもしれません。前もってお詫びいたします。(以下ネタバレも含みます)。本ブログは、素人による雑多な自由研究の備忘録であり、更新もかなりのんびりしております。悪しからず。(体調不良のため、内容はかなり薄くなっております)。

第47話「哀しくとも」感想

太宰府での出来事は、個人的には「余計」な気がしているのですが、物語を盛り上げたり、「刀伊の入寇」をドラマに組み入れるためには必要な設定だったのかもしれません。また、身近な人たちとの死別が大きな影響を与えた紫式部の人生観を表現するという意味でも、必要だったのかもしれませんが・・・。

「まひろ」がいよいよ京に帰ってきました。それにしても矢部太郎さんの演技、とても良かったですね。実は自分が帰りたいというより、「まひろ」を帰らせるための演技ではとさえ思いました。また、彼女や賢子とのひとときもとても良い描写でした。

最後はちょっと「今更感」が強い気もしました。倫子が知っているということはドラマ内でもずっと描写されてきましたし、赤染衛門すら気づいていました。「まひろ」があまりに呆然とするのになんとなく違和感がありました。「さすがよくご存じで」と言うぐらいがいいのではと。もちろん、途中で終わったので、次回どのようにこの先を描写するかは楽しみでもあります。(道長の臨終に立ち会うという話がある?のなら、必要な場面なのかもしれませんね)。

朝廷での「論功行賞」問題は次の項目でまとめて見ました。

刀伊の入寇と朝廷の論理

積み重ねられた伝統と平和(実際はいろいろ起きているが)の結果、朝廷の思考も硬直化していたようです。ただ、当時の朝廷の公卿達の価値観を、現代的な価値観だけで批評するのもよくないと思いますので、そのあたりも含めてまとめて見ます。

「刀伊の入寇」は4月に第一報が来ますが、それ以降度々報告は朝廷へ届いています。しかし、朝廷は危機感を失い、対策を取らずに時間が過ぎます。

結果的に現地の隆家以下の奮闘で、撃退に成功するわけですが、今度は恩賞で悶着が起きます。以下は、先回と同様、関幸彦氏の『刀伊の入寇ー平安時代、最大の対外危機』 (中公新書)を参考にまとめております。

ドラマでも描かれていたように、撃退後の6月29日の朝廷の会議では、論功行賞について、「要不要」が分かれてしまいます。このドラマ的には「意外」かもしれませんが、公任と行成が反対しています。(史実としては有名ですが)。

この時の様子を実資の『小右記』から見てみましょう。

「・・又、定清并びに元命等、申請せる事、同じく定め申すべし」てへり。国々の司・将軍等、申請せる事等を定め申す趣き、其の定文、別紙に在り。抑も勲功の賞の有無、如何。大納言公任・中納言行成、行なふべからざる由を申す。其の故は、勤め有る者を賞進すべき由、勅符に載すと雖も、勅符、未だ到らざる前の事なり。余(※実資)、云はく、「勅符の到不を謂ふべからず。仮令、賞の事を募らずと雖も、勲功有る者に至りては、賞を賜ふに何事か有らん

『小右記』六月二十九日条(国際日本文化研究所「摂関期古記録データベース」の読み下し)

公任や行成の反対理由は、勅符の日付が4月18日付で発せられていて、その到着前に撃退成功してしまっているので、彼らは勅令で戦闘したわけではないから恩賞不要という論理でした。あまりといえばあまりな論理ですが、それでもこれは当時の前例主義、法治主義の現れでもありました。

それにたいして、藤原実資は、勅符到着云々ではなく、(引用青ライン)勲功有る者に至りては、賞を賜ふに何事か有らん、つまり「功績」が既にあるなら恩賞を与えるべきと論じます。

もちろん、実資が何か革命的なことを言ったわけではありません。実資は先例にも詳しい人であり、上記の続き部分で、かつての寛平六年の新羅戦の際の恩賞の例を引き合いにだして納得させています。

寛平六年、新羅の凶賊、対馬島に到り、島司善友(※国司の島版。文室善友)、打ち返す即ち賞を給ふ募らるること無しと雖も(命令がなくても)、前跡、此くのごとし。他の事、相同じ。就中、刀伊人、近く警固所に来たる。又、国島の人民千余人を追ひ取り、并びに数百人・牛馬等を殺害し、亦、壱岐守理忠を殺す。而るに大宰府、兵士を発し、忽然と追ひ返し、并びに刀人を射取る。猶ほ賞有るべし。若し賞進すること無くんば、向後の事、士を進むること無かるべきか」と。

『小右記』六月二十九日条(国際日本文化研究所「摂関期古記録データベース」の読み下し)

その結果、満座は彼の意見に賛成し、恩賞が出ることになります。これもある意味先例主義ではあるけれども、彼はそれをうまく利用したことになります。もっとも、実資としては昵懇の隆家びいきももちろんあったと思います。それもまた実資らしいところではあります。

この点、関氏は以下のようにまとめています。

この恩賞論議の争点は、実資は”有事臨時立法”ともいうべき立場で事態の緊急性を前提とした。公任と行成は勅符到来の時間的有効性を問題とした。公任や行成は”法源”を問おうとした。 重視されるべきは”実質”か”形式”かということでもある。前者はある意味では結果の重視にあり、後者は建前に重きを置く考え方となろう。この恩賞授与をめぐる中央貴族たちの考え方の違いは、請負を是とする王朝的意識に対し、それを非とする立場でもある。実資の主張の背景をなすのは原理・原則を超えた運用主義ともいうべき現実的思考だった。それは別の言い方をすれば、多発する困難な事態を現場に委任する柔軟な方向に繫がる。王朝国家が是認する請負と通底している。ただし、秩序維持を是とする公任らの理念的立場も健在だった。

関幸彦『刀伊の入寇ー平安時代、最大の対外危機』 (中公新書) ※下線太字筆者

当時の恩賞と後世の恩賞の違い

同時に面白いのは、ここで問題になっていた「恩賞」とはなにかということです。重要なのは、私たちは後世の武士の影響を受けて、「所領」であると考えがちです。しかし、この当時はまだ官位が恩賞でした。(もちろん、後世も名誉としては官位は重要でしたが、実質的所領はさらに重要だった)。

今回のドラマでは、平為賢を肥前守にと推薦されています。史実では、大蔵種材も対馬守に補任されているようですので、結局これはあくまで官職を与えるという恩賞だったことがわかります。(その地を与えられるわけではない)。

関氏はこの恩賞の内容の違いをこのようにまとめています。

刀伊戦で活躍した彼らの恩賞は、所領の領有を前提としていなかった。したがって王朝軍制段階での彼らへの恩賞は、国家恩賞権の分与という形態であり、その対象は位階授与・官職補任だった。その点では具体的戦闘行為での武功者たち(「都ノ武者」系や「住人系武者」)が勲功者として名を連ねている点は注目される。寛平新羅戦での勲功者は文室善友以下の国司・郡司級の官人のみであって、それは職務に由来した。多くの軍団兵士たちは強制的兵役の中での戦闘であったからだ。これに対し、刀伊戦での武力発動は選ばれた武的領有者たちによる能動的意思が大きかった。

関幸彦『刀伊の入寇ー平安時代、最大の対外危機』 (中公新書) ※下線太字筆者

なかなか、朝廷も混乱したようですが、このような出来事や記録を通して、当時の朝廷の価値観や、日本各地の情勢や権力構造の変化が分かります。この時期の大河はこれまでなかったので、そういった歴史の移り変わりのようなものも背景から理解できて、面白かったと思います。

ところでドラマ内では、恩賞に反対した公任が道長に対して、「お前のためだった」などと言っています。しかし、これは(史実とは違いますし)違和感がある「言い訳」に感じました。もちろん、ドラマの公任は道長の友であり、良識的で親しい人物という設定なわけですが、未だに「隆家が道長の政敵だから」というのはちょっとあまりに近視眼的で理性のない発言のように聞こえました。物語上彼を「悪人」「教条主義的人物」としたくなかったのだとは思いますが、恩賞のリストに上がっているのは隆家やその郎党だけではなく、当地の武人たちも大勢いるのです。もう少し設定(脚本)がなんとなからなかったのでしょうか。一方の道長は、公任に「あきれはてた」といいます。台詞としてはこれもちょっと「薄い」気はしますが、確かにそんな事を言う公任であれば「あきれ果てる」というのも無理はありません。結局、皆「善人」にしたい結果こうなるのでしょうけれども。

刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機 (中公新書)
中央公論新社
藤原道長が栄華の絶頂にあった一〇一九年、対馬・壱岐と北九州沿岸が突如、外敵に襲われた。東アジアの秩序が揺らぐ状況下、中国東北部の女真族(刀伊)が海賊化し、朝鮮半島を経て日本に侵攻したのだ。道長の甥で大宰府在任の藤原隆家は、有力武者を統率して奮闘。刀伊を撃退するも死傷者・拉致被害者は多数に上った。当時の軍制をふまえて、平安時代最大の対外危機を検証し、武士台頭以前の戦闘の実態を明らかにする。

まとめ

いよいよ次回は最終回です。いろいろなプロットがどのように回収されるのでしょうか。やはり大河は最終回の出来が非常に重要だと思います。最終回を楽しみにしたいと思います。


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