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大河ドラマ「光る君へ」第5話感想

源氏物語絵巻橋姫 光る君へ

毎度、天邪鬼なレビューを書いております。否定的な意見もふくめ率直に書いております為、不快に思われる方もおられるかもしません。前もってお詫びいたします。

先回も書きましたが、今回のドラマは視聴者の評価が見事に割れています。様々なサイトのレビューを分析してみると、やはり圧倒的に女性には人気が高いようですね。それに対して、私のように大河ドラマに歴史を見たい中高年(?)層では、批判的な人が多いようです。また、「源氏物語」がお好きな方の多くも支持されているように感じます。もちろん、ネット上の性別や年齢はあまり当てになりませんし、上記の分析も一定の傾向に過ぎません。

毎度大河はフィクションとの兼ね合いというかバランスが話題になります。ただ、平安時代ぐらい昔になると、分からないことの方が多い訳なので、私はフィクションが多くなっても全然かまわないと思います。ただ、これは繰り返しになるのですが、やはりその時代の価値観や雰囲気は大事にしてほしいのです。現代と同じような描写になるのなら時代劇である必要はありません。お隣の中国古装ドラマに多いような、異世界時代劇にすればよいのです。しかし、史実を題材に平安時代を描くならやはり「その時代」を描いてほしいです。

言い換えれば、フィクションでもいいのでリアリティがある時代劇をお願いしたいということです。せっかっく紫式部が文字の形で自分の価値観や心情を残してくれているのですから、ぜひそのあたりを映像で表現していただきたく思います。

第5話「告白」の感想

さて、今回は道長の身分が発覚すると同時に、母殺害の下手人がその兄道兼であったことがわかります。私は他のレビューで書きましたように、このような「劇的」なフィクション要素は実在の人物を描くドラマにあまり良い影響がない気がしています。もちろん、そうしないと空白を埋められないという制作上の都合はあると思いますが、紫式部のパーソナリティを形成した要素に、「母の殺害」というあまりに大きなものを含めてしまうのはちょっとやり過ぎかなと思います。(ドラマは面白くなるでしょうけれど)。「どうする家康」もそうでしたが、フィクションをあまりに大きな設定にしてしまうと、ドラマ全体がそれに振り回されることになるのではと危惧しています。

道長と兄道兼の対立は良く知られていますが、結局道兼の子は道長の側近ですし、紫式部の娘は道兼の子と結婚する(異説もあり)わけなので、やはり上記フィクション設定には無理があるかなと思います。

あと、今回の安倍晴明の台詞で、「わが命が終わればこの国の未来が閉ざされる」というのがありましたが、非常に違和感がありました。この頃の彼はそんなことを言えるほどの大物でしょうか。万一言うとすれば、一条朝で重用されるようになって官位が上がったあとでしょうか。(それでも言う立場ではない)。

いずれにしても、全体的な脚本があまりに現代的なのが残念です。

でも、吉高さんを始め、皆さん演技がうまいですね。今回の吉高さんの泣きの演技は素晴らしかった。(年齢設定的にもかなり大変だったと思います)。

紫式部の性格について(清少納言「批判」から見えること)

この機会に、紫式部の「性格」について調べて見ました。調査した資料の学説が偏っている可能性もありますので、参考程度にご覧下さい。

有名な「清少納言批判」とされる一文から、彼女について分かることを考えて見たいと思います。ここは倉本一宏氏「紫式部と藤原道長」の現代語訳から引用いたします。

清少納言は実に得意顔をして偉そうにしていた人です。あれほど利口ぶって漢字(真名)を書きちらしております程度も、よく見ればまだひどくたりない点がたくさんあります。

倉本一宏「紫式部と藤原道長」 (講談社現代新書) p.198-199(括弧内筆者)

一般的には「真名」つまり漢字を書きちらすという部分は、漢籍に明るいことをひけらかしているというような解釈をします。(漢文の文字が拙いという解釈をする学者もいる)。ちなみに、清少納言は皇后「定子」に仕えており、紫式部は同じく皇后(二皇后並立だった)「彰子」に仕えていました。ただ、定子は早くに亡くなり、少子はまだ10代前半という状況でしたので、直接二つの陣営(所謂サロン)が「バチバチ」と敵意を戦わすようなことはありませんでした。(時系列は後述)。

この「清少納言批判」とも言われる部分の倉本氏の解説を引用します。

まずはこの評価が清少納言という人物そのもののみに対するものではなく、『枕草子』という作品を踏まえておこなわれたことに留意しなければならない。「利口ぶって漢字を書きちらしております」とか、「興あることも見逃さないようにしている」という記述は、『枕草子』の諸段を指している。紫式部が彰子に出仕した時点では、すでに清少納言が仕えていた定子は死去しており、紫式部と清少納言が宮中で直接顔を合わせる機会はなかったのである。

倉本一宏「紫式部と藤原道長」 (講談社現代新書) p.199

つまり、個人的に何か恨みがあったというようなことよりも(そういう学説もある)、彼女の作品やその政治的影響に対して反感や不快感があったということでしょう。ちなみに上記の「紫式部と清少納言が宮中で直接顔を合わせる機会はなかった」という定説を、今回のドラマではどのように描くのでしょうか。

このあたりの事情を、小説化して表現しているのが、先日来引用している山本淳子氏の「紫式部ひとり語り」(角川ソフィア文庫)です。上記のような「清少納言評」を書いた理由を独白形式でこう(アレンジして)説明しています。

私には分かっていた。故定子様が亡くなられてもう十年の歳月が流れるのに、なぜ帝お一人のみならず誰しもが定子様を忘れず、それどころかいつまでも懐かしむのか。故定子様があれほどまでに悲劇的な境遇にあったにもかかわらず、なぜあの方の後宮には、楽しい印象ばかりが遺っているのか。故定子様がこの世に恨みを遺すような亡くなり方をしたのに、定子様の怨霊については、なぜ誰も想像すらしないのか。それは『枕草子』の力だ。清少納言は定子様の死後、『枕草子』に定子様懐古の章段を次々と書き加えては、世に流した。優しかった定子様、才気煥発だった定子様、よく笑われた定子様。『枕草子』を読むたびに、人々は生きていた時そのままの定子様に会うことができる。いや、そうではない、生きていた時以上に素晴らしい定子様に会うことができるのだ。

(中略)・・・風流を好む定子様、思いやりのある定子様、微笑む定子様。定子様の心を汲む清少納言、そして知的であることが当たり前の女房たち。心地よい緊張感が流れる、実に魅力的な後宮だ。こうした後宮がかつてあったことを、誰もが生き生きと思い出し懐かしむ。これが『枕草子』の力だ。何とあっぱれな作品ではないか。だが、だからこそ『枕草子』は、中宮彰子様と私たちの前に立ちはだかる壁でもあるのだ。 私は世の人に言いたい。『枕草子』に引きずられないでほしいと。清少納言が必ずしも正しくはないことを、私は世間の人々にきちんと分かってほしい。

山本淳子「紫式部ひとり語り」(角川ソフィア文庫)

なかなか面白くまとめられていると思います。ここまで清少納言を評価していたかは別にしても、「定子サロン」の思い出は、彼女の死後も宮廷内に強く浸透していたようです。確かに、「枕草子」はある種のプロパガンダだったのでしょう。それゆえに、「紫式部日記」も「彰子サロン」側の正当性を主張する政治的な色を帯びていました。(「紫式部日記」は下記の表に記したように、彰子の出産記録が始まりのようです。原本はないので、どのような形態だったかは議論があります)。

前述の「清少納言評」が書かれた時系列を整理してみました。天皇の即位順や親王の名前が似ているなどややこしいですが。(①~③は天皇の即位順。赤線は定子サロン、黄線は彰子サロン関連)。

「清少納言批判文」の時間的経緯
  • 寛和2年
    986年
    一条天皇①即位

    太子は居貞親王(三条天皇)。皇后は定子(道隆の娘)

  • 長保2年
    1001年
    定子(一条の皇后)の死(定子サロン終わる)

    遺児の敦康親王の養育は彰子(一条の皇后。道長の娘。当時13歳)が形式上担うことに。清少納言は宮仕えを辞する

  • 寛弘初年頃
    1004年
    このころ枕草子が流布し始める

    (これ以前にも知られていたが、順次追加されたとも言われる)
    世間に敦康親王の存在意義を再確認させる意図があるとも

  • 寛弘5年
    1008年
    彰子敦成親王(後一条天皇)を出産

    出産記録が「紫式部日記」本来の目的

  • 寛弘6~7年
    1009,10年
    清少納言「批判」の消息文(紫式部日記掲載箇所)★
  • 寛弘7年
    1010年
    道長は敦康親王の後見をやめ、敦成親王(後一条天皇)の立太子を考える
  • 寛弘8年
    1011年
    一条天皇崩御し、三条天皇②(居貞親王)即位

    三条天皇の即位は中継ぎ的で、早期に太子への譲位を迫られた。ただし彰子は養子の敦康親王に同情的で、譲位にも反対だったと言われる。
    敦成親王(後一条天皇)が太子

  • 長和5年
    1016年
    後一条天皇③(敦成親王)の即位

★印を付けたところが、清少納言「批判」が掲載された時期ですが、前後の政治的な状況は非常に複雑です。(年数は旧暦との換算で1年ずれている部分もあります)。一条帝の皇后定子が亡くなり、二人目の皇后であった彰子の時代になります。まだ非常に若かった彰子ですが、敦康親王の養育を(形式的な養母)任されます。その後彼女は敦成親王(後の後一条天皇)を産むわけですが、父道長が主導する養子敦康親王の排斥には反対だったようです。わが子敦成の立太子と養子敦康への愛情の間で複雑な感情があったのでしょう。

彰子本人の感情は上記のように複雑でしたが、彰子に仕え道長の意も受けていたと思われる紫式部としては、かつての「定子サロン」を懐かしむ朝廷内の動きに警戒していました。「定子サロン」という過去の亡霊との戦いだったのでしょう。

その意味でも清少納言の「枕草子」の影響は大きなものだったと思われます。(前述の通り清少納言は既に引退していたと言われる)。そのような政治的な影響力を保持していた「枕草子」と作者清少納言への評価が厳しくなるのも当然ではあります。しかし、紫式部は政治的な理由だけで清少納言を批判していたわけではないでしょう。やはり「真名書きちらし批判」の部分からすれば、清少納言のキャラクターというか、スタイルへの反発もあったのだと思います。

「紫式部日記」や「源氏物語」などを見ると、彼女は表面的な学識ではなくて、その根底にあるものをより重視しているようです。倉本氏も、「清少納言のように断章取義的な知識のひけらかしをするのとは違い、紫式部は全体の詩情をよく理解したうえで、それをうまく生か」していたと評しています。(「紫式部と藤原道長」)。そして、当時の女性知識人たちを鋭く批評する一方で、その直ぐ後に「自分も人のことは言えない」と内省する冷静さも持っていました。かなり複雑なキャラクターと言えます。

一方の清少納言は、どちらかと言えば華麗でスター性があるイメージです。彼女にとって学識は雅さや風流のための道具であるようにも思えます。どちらの価値観が良いとは言えませんが、王朝文化の中では清少納言のようなスタイルはかなり重視されたはずです。清少納言は主である定子のキャラクターと相まって、そのときのニーズを満たせる人だったのでしょう。この二人について、今回のドラマがどのように描くのかも楽しみです。

最後に、少し古い論文(文章も硬い)ですが、守屋省吾氏の論文を引用して終わりにします。

日記に見られる紫式部の自照性、自己凝視の姿勢は、彼女の先天的な性癖に因っていようが、その性癖は最大の権力と経済力によって形造られた最高美の世界、栄華の頂上に上りつめるべきいわば約束手形ともいえる皇子を出産するといった栄耀ある世界でもある彰子後宮に身を置きつつ、その世界が栄華を極める方向に進むほどわが身をその中に没我的に同化、沈潜させることができず、逆に孤立感、疎外感をかみしめさせずにはおかなかったであろう。このような性癖はまた他をもつくづくと凝視し、その本質を見極めずにはおかない冷厳な批評精神にも通じる。彼女が生きた栄耀と美の世界も、実のところ権力と富によっで構築された虚構の世界であることを認識したに違いない。この認識は返照して、彼女をその世界から一層浮きあがらせ、いやましに孤立感、疎外感を助長せずにはおかなかったであろう。

守屋省吾「『紫式部日記』の形成に関する試論」1970

では、次のドラマを楽しみにしたいと思います。お読みいただきありがとうございました。


紫式部と藤原道長 (講談社現代新書)
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無官で貧しい学者の娘が、なぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか?後宮で、道長が紫式部に期待したこととは?古記録で読み解く、平安時代のリアル
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「この私の人生に、どれだけの華やかさがあったものだろうか。紫の上にちなむ呼び名には、とうてい不似合いとしか言えぬ私なのだ」―。今、紫式部が語りはじめる、『源氏物語』誕生秘話。望んでいなかったはずの女房となった理由、宮中の人付き合いの難しさ、主人中宮彰子への賛嘆、清少納言への批判、道長との関係、そして数々の哀しい別れ。研究の第一人者だからこそ可能となった、新感覚の紫式部譚。年表や系図も充実。
清少納言
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