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中国ドラマ「慶余年」【レビュー2】人物考察~范閑・葉軽眉編

中国ドラマ

2024年に他ブログで書いた記事の引っ越し版です。再掲にあたって再編しております。
本記事はドラマ「慶余年」第1季と第2季のレビューです。

前回に引き続き。以下かなりのネタバレあり。また、貧弱な中国語力故の誤解の可能性もあり。ご注意ください。今作については、ちょっと厳しい評価になっておりますが、ご了承ください。

以下は、原作とドラマを比較しながらの登場人物考察です。第三季にかかる情報については原作に寄っています。第三季が大幅に原作から改変された場合はかなり異なる可能性があります

今回と次回は、登場人物について考察いたします。今回は、本作の重要人物である主役の范閑とその母葉軽眉についての考察です。かなり長文ですが、お付き合いくださいまうように。

范閑

最初に原作の范閑をよく表す言葉を原作から引用してみます。

「死んだことのない人間は、死の恐ろしさを永遠に理解できない」「だから僕は死にたくない」「指一本動かせず寝たきりだった人間が、再度チャンスを与えられたら、むやみやたらに生を貪るだろう」

原作でもドラマでも、范閑はかなり傲慢で暴走気味な部分があります。ドラマではどうしてそうなるかまでは説明されませんが、原作では彼の行動原理は上記のような台詞で説明されます

前回も指摘しましたが、原作の主要なテーマである「タイムトラベル(転生)」が、ドラマでは検閲の関係上非常にぼかしたもの(科学的な雰囲気)になっているため、本来の范閑のキャラもかなりぼやけてしまっていることは残念です。

ドラマと原作の比較の一例として、「牛欄街襲撃事件」(ドラマ第一季の范閑暗殺未遂事件)を考えて見たいと思います。

「牛欄街襲撃事件」原作とドラマの違い

ドラマでは、その場では刺客である程巨樹を殺害出来ず、その後、法を無視した報復が「派手に」なされるストーリーです。確かに劇的な話にはなりますが、まだ地位も名声もない彼の行動としてはあり得ないものです。家族が連座することなどもまったく考えていません。さらに、彼は滕梓荆の死が「ただの護衛の死」と評価されることに強く反発します。キャラの「死」によって話を盛り上げている側面は否めません。

一方原作では、なんとかその場で返り討ち(正当防衛)にすることで、国中の話題になるのです。また護衛の滕梓荆は重傷を負いますが、死にません。(最後まで生存)。原作の范閑はその際に死んだ他の数名の名も無き護衛たちのことを悼み、その死を自分自身の責任として自分を責めるのです。(ドラマでは他者に怒りをぶつけている)。これは五竹が次のように戒めたことに関係します。五竹は、「いろいろ教えてきたのだから、乗り越えられないのはお前の問題である」といい、護衛の死については「自分が守るのはお前だけだ。他の人間はお前が集めた護衛であり、彼らを守るのはお前の責任だ」と言います。私は原作の方がより人間的だと思います

ドラマのようなアレンジは結局、「敵と味方」「正義と悪役」を分けて分かりやすくするエンタメ的な対比の構図です。人権や平等を主張するドラマ版の主人公は(彼は『現代人』なのでそれでもいいのですが)、意地悪く見れば「偽善的」とも言えます。もっとも、ドラマは確かにエンタメなのであり、制作には大人の事情も複雑に関係しているでしょうから、このようなアレンジもやむを得ないことではあるのでしょう。

ただ范閑は、原作・ドラマどちらにおいても敵にたいしては非常に残虐で、多くの人たちが彼の行動に巻き込まれます。こういうキャラ造形は人によっては受け入れにくいとは思います。

原作ラストのシーンに見る范閑の思い

「彼が結局何を目指していたのか」は、これまで何度か取り上げてきたように、本作の題名「慶余年」がよく表していました。ここでもう一つ、「彼が目指したもの」をよく表現している原作の最後の部分をご紹介したいと思います。これは物語のクライマックスが過ぎたあとの後日談のような部分です。場面は范閑と幼い長女范淑宁との会話です。(母は下女だった柳思思。ドラマ未登場)。以下に勝手な(いいかげんな・・)私訳で引用いたします。

散歩の途中で、范閑は娘を腕に抱き語り合う。范淑宁は父范閑に尋ねた。
「おばあさまはどんな人だったの?」
「おばあさん」という言葉に戸惑っている自分に気づく。自分の中の母は絵の中の「美しく聡明な姿をした娘姿」だったからだ。少ししてようやく答えた。
「そうだね・・、実は彼女は天上界から逃げてきた仙女様だったんだけど、この世界で遊び疲れたから天上に帰ったんだよ」
と冗談交じりに答えた。娘の范淑宁は笑って言った。
「嘘ばっかり!ならどうして詩仙といわれたお父様も天にかえらないの?」
これは一本取られたと思い、頭をかく范閑。急に、昔皇帝陛下が自分に名前(閑と安之)を付けたときのことを思い出し、笑って言った。
「たぶん彼女と父さんの考え方はぜんぜん違うからかもね・・。父さんはただの俗人さ。だからどんな世界に住んでも大差はないんだ・・」

気まずい笑顔は、海風に消え、そっとつぶやく。
「・・・まあ、父さんの場合は、『やってきた世界で、平穏無事に生きて行く』って感じかな」(我的人生,大概便是、既来之则安之
そういうと二人は笑い合った。
花咲くうららかな春の海辺にて。(父女二人相视一笑,面朝大海,春暖花开

ここで一番迷ったのはこの物語の一番核となる言葉「既来之则安之」の訳です。典拠は『論語』で、元々は「既に帰順しているなら、(徳政によって)平安に暮らさせるべきである」というような政治的な意味でした。しかし、現在の意味は慣用化しており、「こうなったら成り行きに任せよう」とか、会話なら「せっかくだから~」のように使ったりもするようです。基本的に共通するのは、「○○な状態になったんだから、否定的に諦める・積極的にそのまま受け入れる」という感じでしょうか。(間違っていたらすいません・・)。

では、この『慶余年』ではどうなのかと考えると、『論語』のない世界設定である以上慣用化もし得ないので、本来そのままでは意味が相手に伝わらないはずです。しかし、このシーンでは普通に通じていることを考えると、文字(漢字)に近い意味で解釈するのが良いかと思いました。(ただ、そこまで著者は考えていない可能性も高いです)。

原文に「異郷」という言葉があることや、「天上に帰らないの?」という問い、母親との生き方の違いや慶帝が自分を名付けた理由を思い出している場面であること・・・等々を勘案して、上記のような訳がよいかと思った次第です。原意である「やってくる」+「安んじる」を考えると、「住めば都」(久居则安・久居为安)も近いかなとは思いました。

いずれにしても、慶帝が息子に「安之」という字を付けたことからすると、本来息子には権力闘争からは無縁の人生を送ってほしかったのかもしれません。物語の終わりでようやく范閑は、二度目の激しい人生においてとりあえず安住の地を得ました。(この時点でまだ20代ですが・・)。私としては、この最後の親子の会話の中に、彼が望んだことやこの話のテーマがまとめられていると感じました。

ちなみに、小説最後の一文は、早世の詩人海子の詩「面朝大海,春暖花开」から取られています。「明日からは幸せな人になろう・・」で始まる凄くいい詩なんですが、長くなるのでここでは取り上げません。

以上が、范閑についての簡単な考察です。ただ、上記の情報の多くは原作に寄っていますので、ドラマ第三季ではどのようにこの辺をまとめてくるのかが楽しみではあります。

葉軽眉

前回指摘したように、彼女の設定もドラマと原作では異なっています。これは范閑の場合と同じく検閲が主な理由だと思われますが、それでも「時代を超越して生きた人間」という点はどちらも共通しています。

彼女はその最初から「仙女」「女神」の如くあがめられ、尊敬されました。この設定と、彼女が「今時の女性」で「天真爛漫」という部分が「ギャップ」として多くの原作読者を魅了してきました。ただ、これはかなり「中二病」的設定なので拒否反応を示す人も多いです。『慶余年』を受け入れられるかは、この葉軽眉のギャップを受け入れられるかも関係すると思います。

彼女の原型は「陽子」

彼女は人々の幸せを願い、そのために多くの活動を行いました。この葉軽眉のモデルは、日本の小説『十二国記』の主人公陽子です。「鑑査院」の前に立つ石碑も原作では『十二国記』を元ネタにした言葉が刻まれています。(ドラマでは、著作権の問題なのか対日感情の問題なのか文言を改変されている)。まず『慶余年』原作の方を引用します。

私は慶国の国民全員が王になり、それぞれが自分の土地で唯一の王になれることを願っている。

元になったのは、『十二国記』「風の万里 黎明の空」下巻の終章に出てくる、陽子の次の言葉です。

私は慶の民にそんな不羈ふき(※束縛されないこと)の民になってほしい。己という領土を治め唯一無二の君主に。そのためにまず、他者の前で毅然と首(こうべ)を上げることから始めてほしい

そもそも、『十二国記』が「慶国」ですから、猫腻も好きな作品だったのですね。

風の万里 黎明の空 (下) 十二国記 4 (新潮文庫)
新潮社
王は人々の希望。だから会いに行く。景王陽子は街に下り、重税や苦役に喘ぐ民の暮らしを目の当たりにして、不甲斐なさに苦悶する。祥瓊は弑逆された父の非道を知って恥じ、自分と同じ年頃で王となった少女に会いに行く。鈴もまた、華軒(くるま)に轢き殺された友の仇討ちを誓う──王が苦難(くるしみ)から救ってくれると信じ、慶を目指すのだが、邂逅(であい)を果たす少女たちに安寧(やすらぎ)は訪れるのか。運命は如何に!(Amazonより)

彼女は聖女か魔女か

彼女はこの現代的な価値観を、「転生」した物語世界に実現しようとしました。彼女の考え方をよく表す陳萍萍の言葉があります。原作の後半での皇帝との会話です。(ドラマでは第三季に関係する部分)。皇帝が、裏切った陳萍萍に「朕はお前に十分よくしてやってきただろう」と問う場面があります。それにたいして彼はこう答えています。

「彼女は親切で、私を友人として扱ってくれました。陛下もご親切ですが、それは奴隷としてです。これは同じことでしょうか?」

つまり、皇帝は彼をどこまでも奴隷として大切にしました。しかし葉軽眉は友として大切にしてくれたのです。宦官として卑しめられてきた若き日の彼にとって、同じ目線で接してくれた葉軽眉の思い出は、非常に強烈なものであり、彼の人生全てでもありました

大勢の男性が彼女を愛し尊敬しました。范閑の養父范建は、自らの子供を死なせてまで范閑を守りました。(その結果正妻は精神を病んで死亡)。陳萍萍は彼女の仇を取るために全生涯を捧げました。

ただ、こう考えると、(私の勝手な感想なのですが)葉軽眉はもしかして悪女では?と思う時があります。表現しにくいのですが、無自覚の罪というか、天真爛漫さや天然さから来る罪、彼女が持つ強力な信念が周りを巻き込む罪、などと表現できるかもしれません。(もちろんそれが「罪」かという問題はあります)。もっとも、それだけ彼女は輝いていて人として魅力的な女性だったのでしょう。

この点で面白い記述が原作にあります。范閑の弟范思轍が、妓楼「包月楼」の件(ドラマでは第二季最初)で北斉へ「追放」される時に兄に述べた言葉です。彼の罪(原作では実際に売春宿を経営し死者を出している)は重罪で国内にはいられないため、范閑は情けをかけて北斉に逃がします。不服な范思轍にたいして范閑は、「葉軽眉のような偉大な商人になれ」と言います。それにたいして范思轍は、「結局葉軽眉は武器商人でもあって、多くの人を殺戮したことになる」と言い返します。それにたいして范閑は言葉を失います。これが葉軽眉という存在の矛盾であり、それを小説内できちんと言及しているところがこの物語の魅力です。ドラマではあくまで偉大な人物という描写になっているのが若干残念ではあります。

范閑との関係性

考えて見ると、原作もドラマもそうですが、生物学的な親子関係があったとしても、精神的にはまったく別個の人間が「転生」したわけなので、本能的に「母」「子」とは思えないはずです。分かり易く言えば、別々の大人の男性と女性が出会ったというレベルの話です。

実際原作の6巻では、母親葉軽眉についての范閑の感情が綴られています。もともと母の愛情に恵まれずに生きた前世だった范閑は、葉軽眉に親近感を抱いていましたが、本当は葉軽眉には(自分が思ったような形では)愛されていなかったことに気づきます。原作では手紙は五竹宛しかなく、生まれる赤子へのメッセージはなかったのです。彼女が大切にしたのは五竹でした。(姉や母に似た感情でしたが)。「最低な子どもを産んだ最低の母親」とさえ述べています。

ここで范閑が歌うのがなんと「一休さん」のエンディング「ははうえさま」です。一休さん役の藤田淑子さん歌うED曲は私も懐かしく思い出します。読んでいて本当に范閑がかわいそうになってしまいます。

おそらくドラマは、原作の葉軽眉をもう少し大衆向けの「温かい存在」に変更しているのだと思います。つまり、彼女の無自覚な残酷さを薄めているのでしょう。そのために、生まれてくる子供宛の手紙を登場させました。ただ、これはこれでいろいろ問題を呼ぶことになります。当たり前ですが、まだ生まれていない子供の性別は物語の背景設定では分かりません。(神廟にでも行けばわかるのかも?)。また、生まれていない子供の名前が「范閑」と知っているのも不思議です。原作では皇帝が名付けたとされていますから、ドラマ第三季で大きな改編があるのかもしれません。

それでも、母を敬愛するようになるというストーリーは原作もドラマも共通しています。ただ、彼女はあくまで世の中の変革者であり、母親としての経験をせずに亡くなりました。彼女を責めることは酷でしょうけれども、もし自分が范閑なら、父(皇帝)も母(葉軽眉)も恨む・・というような展開になっているかもしれません。

余談ですが、ドラマの現代部分で登場する葉教授(指導教官?)が葉軽眉と同じ姓なのは、何かドラマ独自の伏線なのでしょうか・・。ただ、転生やタイムトラベルに厳しい検閲の問題を考えると、彼女が葉軽眉だというような設定は難しいので、別の何か工夫をするのか・・? この点も第三季に期待です。

長くなりましたのでこのあたりにいたします。

次回:【その3:登場人物考察~その他編】に続く。

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