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蝦夷地警固に散った東北藩士たち(利尻・稚内)

幕末・明治維新

以前から、蝦夷地の歴史に興味がありまして、いろいろと調べておりました。北海道は広く、この分野だけでも膨大な資料がありますため、今回は地域を道北の1800年代に絞って書いてみようと思います。なぜ道北かと言いますと、やはり当時においては遙か遠い場所で条件が過酷であったことや、国境に近く国際的にも多くの事件があった場所だからです。

ついでに申しあげますと、ちょうど2000年ごろに数回道北を旅したことがありまして、以下でご紹介するような旧跡を回ってみたことも取り上げる理由の一つです。ただ、当時デジカメを購入したてで、いろいろと不具合もあり、いい写真がほとんど残っていないのが残念です。冒頭の画像は、利尻島鴛泊にあるペシ岬上からの夕日で、向こうに見えるのが礼文島です。こちらはフィルム写真ですが。

訪れたころのことも思い出しつつ、そのころに揃えた資料なども基に、歴史をまとめて見たいと思います。なお、20年も前の情報だけですと心許ないので、念のため現在の状況も調べつつ進めて参ります。

北方警備の歴史

外交を求めるロシア使節レザノフの来航後、北方におけるロシアとの衝突が増えたことで、幕府は対応に迫られます。東北諸藩なら寒さに強いだろうという(安易な)発想で、まず東北の四藩に、動員の命令を出します。

この間の事情はかなり込み入っていますが、レザノフが日本との交渉を失敗しカムチャッカへ帰還したあと、部下のフヴォストフ中尉に樺太千島方面へ派遣する攻撃隊の組織を命じたことが発端です。レザノフは基本的に武力での開国を目指していました。しかし、フヴォストフに対する命令は「樺太の偵察」と「つねに露米会社(註:レザノフの会社)の利益を念頭において行動せよ」という曖昧な指示だけであり、レザノフはそのまま帰国の途に就きます。そのため、残された部下たちは好き勝手を始めたのです。それが1806年から始まる「文化露寇」です。樺太、択捉、利尻などで狼藉を働きました。(「文化四 (一八一七)年ロシアのエトロフ島襲撃を巡る諸問題」札幌大学文化学部紀要巻 22, p. 33-63)。

その結果、東北4藩――弘前藩(津軽藩)、盛岡藩(南部)、庄内藩、秋田藩(久保田藩)――を中心とする数千人規模の軍を動員することになります。

蝦夷地警固に関する年表
  • 1804年
    文化元
    ロシア使節レザノフが長崎に来航
  • 1806年
    文化3
    西蝦夷地見聞として幕府目付遠山景晋(遠山の金さんの父)宗谷来訪

    この年からレザノフ配下の軍が樺太から利尻を荒らし回る(文化露寇)

  • 1807年
    文化4
    幕府による最初の「蝦夷地直轄」(松前藩は領地召し上げの上転封)

    東北諸藩に動員令が下る

  • 1807-8年
    文化4-5
    津軽藩が斜里にて越冬し多数の死者を出す(70人以上死亡)
  • 1808年
    文化5
    会津藩は北方警備を願い出、宗谷へ本陣を敷き樺太、利尻へ布陣
  • 1808年
    文化5
    会津藩はロシアとの戦闘がないまま、10月に撤兵開始(~文化6年)

    樺太からの帰還では船が難破し死者が出ている

  • 1821年
    文政4
    蝦夷地直轄を終了。松前藩が蝦夷地に復帰

    津軽藩・南部藩の松前箱館駐留終了

  • 1854年
    嘉永7
    日米和親条約締結
  • 1855年
    安政2
    幕府による第二次「蝦夷地直轄」始まる

    再び東北各藩に警固動員が命じられ、宗谷は秋田藩の管轄になる

津軽藩士の殉難

文化四年(1807年)の幕命を受けて津軽藩は、当初宗谷へ入ります。その後直ぐに斜里への移動が命じられることとなりますが、その結果過酷な環境で越冬せざるを得なくなり、多くの犠牲者を出します。これが「津軽藩士殉難」として伝えられ、今でも慰霊祭が行われています。

当時、持っていた食料は、米・味噌・塩のみだったといわれます。斜里到着が秋であり、もう冬支度が必要でしたが、11月から雪が降り、偏った食事で栄養失調になって11月には病人が続出します。流氷で海路は閉ざされ、補給も不可能でした。翌年(1808)八月にようやく迎えの船が来て、亡くなった72人の墓標を作ったのち引き上げることになります。100人のうち28名しか帰国できませんでした。この悲劇は津軽藩の恥とされ、極秘扱いでした。(口外すれば切お家断絶)。

しかし、当時22歳で生還した、斉藤勝利が密かに書き残した「松前詰合日記」が真実を後世に伝えることになります。この日記の表紙には「この一冊は他見無用。長く子孫へと伝。松前詰合日記全」と書かれています。しかも、これがまた終戦直後に古書屋で発見されたというのですから、本当に驚きです。結果的に勝利の願い通りになりました。(「知床博物館研究報告 第17集」 p57~)

会津藩士の墓

利尻島には、3カ所の会津藩士の墓所があります。昔すべて回ったことがありますが、いずれもひっそりとしていて、人目に付きにくいのが残念ではありました。今では観光用の説明書きなども整備されているようですし、場所が変わったケースもあるようです。(後述します)。

さて、この時の会津藩は、前述の津軽藩とほぼ入れ替わりで宗谷に入っています。ただ、この時は幕命によると言うより自ら志願した事情があるようです。やはり幕府内での藩の立場をよくしたいという政治的な思惑があったようです。(例えば、東北諸藩の中でも津軽藩と南部藩は犬猿の仲で有名ですが、今回の蝦夷地警固でも加増の問題でかなりもめています)。

文化5(1808)年4月に宗谷に到着し、樺太に745名、利尻には252名を派遣します。ここ数年一番被害があった場所へ重点的に兵を配備したということです。しかし、この年いっこうにロシア船はやってきませんでした。それはロシア側が文化露寇の犯人(レザノフの部下達)を逮捕し、艦船も抑留されていたからです。

敵が来るかどうかにかかわらず、過酷な条件下の駐留は大変な苦難を伴いました。樺太に出陣した北原采女配下の高津泰の記録では、このころ50名が死亡したと記録しています。(「天明の蝦夷地から幕末の宗谷」稚内市編纂)。

会津藩はその年の内に撤退しますが、代わりにふたたび津軽藩が戻ってくることになります。この時の津軽藩は越冬のための万全の備えをして戻っています。しかし、翌文化6年正月には利尻駐留が中止され、3月には越冬時は南部増毛まで下がって良いことになりました。その後、1821年(文政4年)には、幕府の蝦夷地直轄が終了し、各藩の役目は「いったん」終了となります。

以下は利尻島にある会津藩士の墓碑に刻まれた名前と日付です。(墓碑自体がいつ建てられたかは差異があるようです)。

利尻富士町本泊の会所跡にあったもの(現在本泊慈教寺):
会津 白石又右衛門僕宇兵衛墓 文化五年戌辰八月二日死
会津 遠山登僕利助墓 文化五年戌辰六月七日死
会津 関場友吉春温墓 文化戌辰七月六日死(縁者の依頼で早期にこちらへ移したもの)

利尻町沓形の種富駐車場奥にあるもの:
会津 諏訪幾之進光尚墓 文化五年戌辰七月十日死(※これは会津藩家老格)
会津 山田重佐久墓 文化五年戌辰年七月八日死
この二基は、明治27,8年まで草に覆われて忘れられていたものが干し場作成時に発見されたもの。その際錆びた刀が副葬されていたとのこと。(「島の風土記利尻礼文」p92)。

利尻富士町鴛泊の本浄寺にあったもの(現在鴛泊のペシ岬の登り口にある):
会津 樋口源太僕孫吉墓 文化五年七月二十四日
会津 渡辺左右秀俊墓 文化五年戌辰七月十六日
会津 丹波織之丞僕茂右衛門墓 文化五年七月十六日

私は、ペシ岬に移動したあとは見たことがありませんでしたが、現在はこんな感じになっているようです。

Photo By 663highland Creative Commons Attribution 2.5 Generic(Wikipedia)

この三基の墓石が鴛泊の本浄寺にあったころの写真があります。(スキャンした際のモアレが出てますが)。

鴛泊の本浄寺にあった頃
(「島の風土記利尻礼文」より)

文化五年は、ロシアとの戦闘はなく、7月に撤収命令が出ています。これら8人のうち4人は、この撤収の際、樺太から乗った「観勢かんぜい丸」が暴風雨のため現利尻町沓形付近の海岸に漂着難破して亡くなった方たちです。墓碑は新潟から運ばれた石とも言われます。(「りしりふじの文化財」利尻富士町教育委員会)。実際は他にも様々な状況で亡くなられた方がおられ、色々な土地に埋葬されたのでしょう。

ちなみに、この頃(文化2~4年)には、天然痘が利尻島、礼文島を襲っており、特にアイヌの方たちの被害が大きく人口が三分の一ほどにまで減ったと言います。(「西蝦夷地日記」。幕府御小人目付だった田草川伝次郎の調査日記より)。おそらく、外部から様々な人達が出入りするようになり、免疫が少ない地元の人達が犠牲になった面もあるのでしょう。

宗谷の旧藩士の墓

前述のように、一旦は終了した幕府の蝦夷地直轄ですが、日米和親条約締結という大きな方針転換があり、再び国防が喫緊の課題となりました。そのため、再度蝦夷地が幕府直轄になります。

このころから通年での駐留のため、様々な配慮が幕府によってなされるようになります。最新技術であるストーブの制作と配備がなされたり「毛布」が配布されたりしています。ストーブ支給の際には箱館奉行からこのような「御諭書」が出されています。(以下はその現代語訳の一部)。

このたび製造したオランダ名カッペルという火炉は西洋人の使うものである。まず置く場所を決め、部屋の中を風が通り抜けないように仕切り、炉中で薪を燃やし(炭でもいいけれど、薪が良い)、燃えるにつれ熱がたまり寒さを防ぐ。カッペルには煙出しがついており、あの炭素(一酸化炭素)を外に排出し吸い込まないようになっている器である。

「天明の蝦夷地から幕末の宗谷」(稚内市篇) p38

指示がなかなか具体的です。当時の最新の舶来技術ですが、「炭素」(一酸化炭素)についてしっかりと注意しているのが興味深いです。他の場所では「毒気」とも表現されています。北国の生活に欠かせない道具が与えられたことになります。

また積丹半島の神威岬以北は女人禁制だったものを「解禁」し、幕府官僚の妻等も同道できるようにしました。この女人禁制は、アイヌの習慣にかこつけて松前藩が権益を独占するために吹聴していたものとも言われます。(奥地に松前藩以外の和人が進出することを恐れたため)。

有名なのは、このころようやくコーヒーが薬として支給されるようになります。1803年頃に蘭方医がコーヒーが水腫病(脚気や壊血病のようなもの)に効くと報告しているので、前回の惨事には間に合わなかったものの、今回50年たってようやく実用化されるようになったわけです。もちろん、嗜好品としてではないですし、一般的なものでもありませんでしたが。

そうはいっても、道北の暮らしは当時では引き続き厳しかったことと思います。当然病気も多かったでしょうし、精神的なストレスも多かったことでしょう。

宗谷にも藩士達の墓があります。宗谷公園にある説明書きを書き起こしておきます。

旧藩士の墓
ここに安置されている墓は、ロシアの南下政策に対する警備に従事するため、文化四年に津軽藩士二百三十名、文化五年に会津藩士五百七十七名、さらには安政二年~慶応二年まで秋田藩の宗谷に派遣された藩士のものである。
現在墓碑は、宗谷護国寺過去帳により判明している者を含め、合計十三基であるが、明治四十四年に此の海岸に点在していたものを一ヶ所に集め、その後昭和三年には宗谷青年団によって現在地に移遷された。
以来、遠く故郷を離れた此の地で淋しく散っていった旧藩士の冥福を心から祈りつつ、毎年九月十六日には盛大な慰霊祭が現在に引き継がれ、催されている。

稚内市教育委員会設置の説明書き看板より

こちらは、文化四年からの幕命による動員の際に亡くなった方だけでなく、前述の再度幕府直轄地になった際(安政年間以降)以降になくなった方の墓も含んでいます。

これは、宗谷岬がある「宗谷公園」ではなくて、その手前にある「宗谷公園」にあります。この場所は、1855年に幕府による二回目の「蝦夷地直轄」の際に、秋田藩(久保田藩)が「宗谷陣屋」を置いたところでもあります。(この際は宗谷は秋田藩の管轄だった)。近年の研究では風よけを意識した地形選択であったこともわかっています。(「幕末期蝦夷地陣屋の立地した気候」Geographical Studies 89 (1), 13-19, 2014)。

まとめ

以上、1800年代の蝦夷地警固の歴史と、それに殉じた大勢の藩士達のことを振り返りました。開国から明治維新へは有名な歴史事件も多いですが、その影では大勢の人達が命がけの任務に当たっていたのですね。これも決して忘れてはならない歴史だと思います。

宗谷の風景(おまけ)

せっかくなので、2000年ごろに撮った写真のなかから、僅かながら残っているものをご紹介いたします。フィルムをスキャンしたものもあるので、画質にはばらつきがあります。

ノシャップ岬の夕日(稚内)
冬の利尻山
夏の宗谷丘陵
稚内公園から海を望む(向こう側に宗谷岬)
吹雪の利尻(沓形方面)

結局旧跡を巡ったときのフィルム写真がないのですが、冬期に訪れた際の写真もいくらか残っておりました。短い夏はいいですが、長い冬は今でも住むのは大変そうです。

雑多な内容になりましたが、以上といたします。お読みいただきありがとうございました。


参考図書:

近世後期の奥蝦夷地史と日露関係
川上 淳
北海道出版企画センター
2011-02-25

近世後期の奥蝦夷地史と日露関係
北海道出版企画センター
著者は札幌大学の教授で「日本北方史」がご専門のようです。「近世後期蝦夷地東部のアイヌ社会」と「蝦夷地の日露関係と千島」の二部構成の研究書です。