この記事は2025年に他ブログで書いた記事の引越版です。一部加筆修正しております。
豆辯の評価では5.2。うーん、やはり良くも悪くも徐克な作品。豪華な俳優と潤沢な資金はわかるのですが、結局「粗製濫造」というイメージ。お金がかかっているわりにネット映画なみのクオリティでした。(これこそ徐克ではありますけれども)。

どうしても昨年2024年に放映されたドラマ「金庸的世界」の『鉄血丹心』(射鵰英雄伝)と被ってしまいますし、特に此沙と肖戦がかなり雰囲気が似ていることもあってどうも新鮮さを感じませんでした。
私個人の評価では5点。肖戦は程小東の時(『誅仙』)もそうですが、どうも古装では作品(監督)に恵まれていない気がします。(ただし『蔵海伝』は「はまり役」だった)。
以下、あくまで勝手な私の個人的感想であり、ネタバレが含まれていることを最初にお断りしておきます。
キャラ造型について
これはもう金庸原作ものは毎度議論がやまないわけですが、今作はそもそも肖戦に郭靖はあわないという違和感は大きかったです。(郭靖はかっこよくない純朴さがいいわけで)。むしろ彼には楊過が会うような気がしました。(まあ商業作品である以上主役がどの俳優かが一番の「売り」なわけですが)。
黄蓉についてはかなり批判がありましたが、個人的には良かったのではと思います。もちろん、かなりイメージは違っていましたが、(原作ではなく)歴代のドラマのイメージに引きずられ過ぎる部分もあるので、雰囲気はよかったのではと思います。小悪魔的な天真爛漫さがなくなり、純朴な少女という感じが強くなってしまったのが黄蓉らしくないとも言えますが、原作の黄蓉はかなり一途なところがあるのでその意味で本作の黄蓉もありだと感じました。
出演者はとにかく豪華でした。まず梁家輝が欧陽鋒というのがまた贅沢ですし、胡軍がちょっとだけでしたが洪七公というのも豪華。他にも徐向東(梁長老)、元彬(梁子翁)とアクションスターを見られたのもよかったです。ただ、ほとんど宝の持ち腐れで、彼らのアクションをもっと見たかったという不満は大いにありましたが。
本作品の時代背景は明確に宋代なので、もっと衣装や文化的背景の交渉をしっかりしてほしかったです。(せっかく潤沢な予算があるわけですし)。ただ、モンゴル軍についてはかなり考証されているようではあります。
作品感想:良かったこと
画自体は徐克らしい、派手なエンタメ作品という感じでした。CGの多用は徐克の良い点でもあり悪い点でもあると思うのですが、今回は特に「鵰」=鷲はとてもよく描けていたと思います。射鵰三部作での大鷹や「神鵰」の描写は現実ではなかなか難しいので、やはり高品質のCGで描かれると、あらためて「金庸の世界」が感じられました。もっとも、一方ではCGに頼り過ぎなのはいつものことではあります。
モンゴル語の多用
一番素晴らしいと思ったのは、モンゴル語を多用したことです。これは今までの映像化作品の多くでずっと違和感がある点だったので、これだけでも大変評価できる点だと思います。(中国語をしゃべるハーンは見たくないですし)。また、俳優陣もモンゴル系の人たちが多く出演していました。登場人物の末裔の方もおられたとか。
改編部分を絞ったこと
話の改編方法という点では、華箏公主と黄蓉、郭靖のそれぞれの関係性を中心に話をシンプルにまとめたのは良かったと思います。(原作とはかなり違いますが)。
ただし、話が行ったり来たりする結果になったのは宜しくなかったと思います。結局話をよく知らない人にとっては混乱するだけでしょうし、急に登場する人物たちについても原作ありきの展開になっています。(最近は金庸作品を読んだことがない世代もいるので)。
張文昕の好演
この点で、今回一番評価が高かったと思われるのは、華箏公主役の張文昕です。無名の彼女を大抜擢したという点では、徐克の判断は正しかったと思います。ただそれなら、公主役もモンゴル系の女優さんにしてみるのが良かったとは思います。
作品感想:残念だったこと
今作は、やはり残念な点は多いです。もちろん最後まで見ましたけれども、どうも金庸作品の魅力が十分に感じられませんでした。徐克の手にかかると、エンタメとしては面白くても、金庸の世界観がどうも壊れてしまうと思うのは私だけでしょうか。(胡金銓と喧嘩別れした『笑傲江湖』の時もそうだった)。
母の死の場面
前述のモンゴル語ということに関係することで、以前の『鉄血丹心』の時にも指摘した「母親が自害するシーン」が今作ではどうもさらっとしすぎていて、母の愛情や死の意味が十分描写されませんでした。(民族に関係するコンプライアンスがあるのか?)。
原作では、モンゴル語で話すハーンたちと、その御前で漢語で息子に語りかける母という重要な場面があり、その言語の壁がその場面をより劇的にするという仕掛けなのですが、せっかくモンゴル語を多様した本作にもかかわらず、あっさり密室で死んでしまうのは残念な設定でした。
アクション
これはあまりにひどかったです。金庸の武侠小説はあくまで「低武」(人間世界の物理条件に近い武術)が売りなのであり、その限界部分をどう表現するかが映像化の課題だと思っています。もちろん武侠映画は荒唐無稽さを楽しむ部分もあるわけですが、同時に「武芸」を楽しむジャンルなわけです。近年はもはや仙侠系に近い(魔法・魔術に近い)描写が多くなってしまって、「武芸」はどこかに行ってしまっています。(別に空を飛んでもいいのですけれども)。
近年の中国の視聴者は「吹き替え」(スタント使用)に否定的な人も多いですが、私はむしろスタントによる吹き替えやカット割りを巧みに混ぜて、武芸の局限を表現してほしいのです。(90年前後の程小東のような華麗な殺陣が観たいもの)。
今作のアクション監督は有名所を揃えているようですし、もともと徐克自身もアクション畑出身なわけですから、もっと「武侠らしい」映画にしてほしかったです。
結末(ネタバレ注意)
最後も、かなりおかしかったです。二人で手をひろげるシーンも違和感がありました。なにより、原作では草原で二人だけで静かに語り合う重要な場面が、戦場の大軍の前で派手に語られてしまいます。これでは情緒もなにもない。映画のラストなので大規模な戦場のシーンにしたかったというのは分かりますが、結局言葉で説得されて引き返して行くという非現実的な設定も違和感があり、原作の描写した権力や野望のむなしさがまったく表現されていないのが残念でした。改編が原作通りである必要はもちろんないのですが、「射鵰英雄伝」の最も重要な場面であるが故に残念です。
▼以下で、2024年版と原作の(上記別れの部分を)比較をしていますので、ご参考までにご覧下さい。
ナショナリズムの香り
本作を見て先ず思うのは、昨今多い、「英雄」「国家のため」といった単純化されたナショナリズムが表現されていることです。ただし、表面的には「多民族国家」としての配慮はなされており、検閲を通すことの難しさを感じる作品でもありました。
もちろん、ナショナリズムや愛国心自体が悪いわけでは決してありません。ただ、どうも金庸が表現したかったこととはかなり乖離していると感じます。(これはあくまで晩年のというより執筆時のという意味です)。
香港や台湾で花開いた新派武侠小説は、大陸の政治への批判と同時に、「中国人」としてのアイデンティティーを追い求めた作品が多かったように思います。金庸は中国人、漢人であることの誇りをもっていましたが、同時に大陸から(否定されて)香港に渡って活動した人でした。一方で、香港は自由ではありましたが植民地でもあったという複雑な背景もあります。彼の膨大な政治的発言について論じるほどの知識はありませんが、少なくとも天安門事件では強い抗議を表明した人でもありました。
金庸作品には、こういった複雑な背景が反映しており、ナショナリズムの問題点や葛藤なども描かれています。郭靖は出身地とも言えるモンゴルへの愛情と漢民族(血統)への愛国心の間で葛藤を抱えました。『天龍八部』の蕭(喬)峯はさらに深いものがありました。金庸作品の「多様性」や「多文化性」は、大陸外で生きる作家たちのアイデンティティーの模索の結果でもあったのでしょう。(ただ、蕭峯の結末は自分の生まれを否定=「多様性」の否定とも取れるが)。
執筆当時の金庸は、おそらく中共ではない中国、本来の中国を模索していたという気もします。(勝手な推測ですが)。彼らは香港や台湾など大陸外にいて、「中国とはなにか」を考え続けました。金庸が来日した時に、「日本には今の中国にはない中国的なものがたくさんある」というようなことを言っていました。おそらくこれも「本来中国にあるべきものを探している」ということの言い換えかもしれません。
結局、金庸の執筆期間は50~70年代であり、あくまでその時代背景を忘れるべきではありません。もちろん、解釈や評価は後世によってなされるわけですが、金庸の場合、その評価の「手のひら返し」があまりにひどいので、なおさら違和感があるのだと思います。90年ごろまでは劣悪なジャンルとされた武侠小説でしたが、(鄧小平が愛読者だったという話もあり)90年代以降急に文学的、ナショナリズム的に高く評価されるようになりました。(教科書にまで載る)。こう考えると、結局「利用」していると思ってしまうのです。これは歴史上ずっと繰り返されてきたことではありますが、グローバル化が進んでますます顕著になっている気がします。
もちろん、その国の基準で作られている娯楽映画でありフィクションなのですから、「異邦人」の私があまりとやかく言うべきでもないでしょう。ただ、あまりに「単純化」されているという部分が気になった次第です。
まとめ
エンタメとしては、確かに面白い作品だとは思いますが、決して質の高い映画ではありませんでした。徐克にはもう一度90年前後のような作品を望みたいと思います。(これも思い出補正があるのでしょうけれども)。
以上、お読みくださり感謝いたします。
▼ドラマとしては2003年版が私の中での最高傑作です・・・
▼こちらは原作の日本語訳。なかなか書店で見かけなくなって悲しいです。