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紫禁城の歴史とその日常~休刊中の「月刊しにか」から

世界史
Photo by treellercoaster

今回は、旧ブログで書いた(2000年ごろ)紫禁城関係の記事を、追加編集して掲載いたします。

今回の情報の主な参考文献は、2000年4月号の「月刊しにか」(大修館書店)です。2004年で休刊した「しにか」は、漢字文化圏の歴史文化をあつかった大変面白い雑誌でした。(雑誌名は”中国”のラテン語)。紙媒体(特に雑誌)が休刊や廃刊になるのも時代の流れなのでしょうか。

紫禁城といいますと、ちょっと古いですが「ラストエンペラー」とか「西太后」(もっと古い)などの中国の歴史映画や古装ドラマ、また武侠小説などにも良く登場する古城です。武侠小説でいうと、金庸の「書剣恩仇録」とか「鹿鼎記」などでしょうか。

私は洋の東西を問わず、城での生活や「宮仕え」に興味があります。(日本や西洋についてもいずれ取り上げたいと思います)。今回は紫禁城の日常について簡単にまとめて見たいと思います。

紫禁城の歴史

紫禁城の内城部分の建設は、明の初代洪武帝期に名将徐達が元の大都城を攻略した1368年から始まっています。大都城を基本にして改築が始まりましたが、三代の永楽帝期に北京遷都を前提にして本格的な拡張工事が始まります。六代英宗のころに、ようやく土城からレンガでつくった磚城に改装されたと言われます。

明の永楽帝期に遷都されて以来、清まで都城となりました。ただ、興味深いのは清の乾隆年間になると、北京郊外に離宮である円明園が作られ、それ以降皇帝はそちらで暮らすようになることです。紫禁城で政務を執ることも少なくなり、年の三分の二は円明園で暮らすようになります。清末までずっと住んでいたイメージがありますが、違うのですね。

冒頭の写真は「太和殿」ですが、元々明代には政治と儀式の場でした。しかし、清の康煕帝の時代になると、朝政の場は内廷の乾清門に移動し、以後太和殿は儀式だけの場になります。康煕帝はそれだけ実務のための利便性を重んじたということのようです。明代は男子禁制であった内廷ですが、清代になると大臣たちも出入りするようになり、場合によっては庶民すら招待されるケースもあったとか。やはり清は民族の違いもあって実を重んじる傾向が強かったのかもしれません。

北京城(都城全体)は、儒教的な思想「面朝後市」(周礼)を理想として作られています。平城京や平安京は、この理想を実現できず、結局宮城が北部に寄っています。しかし、北京城はこれを可能な限り実現した設計であることがわかります。また、「紫禁城」ばかりに目が行きますが、実際は外城、内城、皇城と幾重にも囲まれた都市であることもわかります。(現在は多くの城壁は撤去されている)。

▼上記赤い四角部分の拡大図です。(クリックで拡大)。

上記地図を見るとわかるように、外城と内城は多くの門で隔てられていました。短い距離の間に正陽門、大清門、天安門、端門、紫禁城正門の午門へとつながります。このうち、大清門は、取り壊されて「毛主席紀念堂」になっています。大清門は、国号をもつ重要な門だったようで、明代は大明門、民国になってからは中華門と呼ばれました。

紫禁城の日常を支えた人達

紫禁城の日常を全て書くのはここでは難しいので、皇帝たちではなく、それを支えた人達のことを少しだけ触れたいと思います。この部分の情報は主に「しにか」2000年4月号p44からの川越泰博さんの解説によっています。(明代軍事史などのご専門)。

紫禁城の朝は午前四時頃に始まると言われ、まだ暗闇の中(灯火もなく)官僚達が仕事を始めます。

紫禁城の警備

紫禁城城門の開門は、時代によって午前二時から夜が明ける時間までと変化があります。護軍営の兵が武器をもって警備し、門外には二人の護軍が紅棒を持って座っていました。親王などが通っても着座したままで良いとされていたそうです。閉門は日没で、何重にも施錠が確認されました。

夜間の出入りには(歴史ドラマなどであるように)「聖旨」と書かれた割り符が必要で、城門側と一致した場合だけ開門がゆるされたようです。

皇帝が起居する内廷を囲む外廷部分は、「侍衛処」の所管で、各宮門や太和殿、中和殿の警備にあたりました。(特に太和殿は皇帝直属の上三旗から任命)。内廷警備は上三旗である護軍衛や前先鋒営の管轄でした。紫禁城外の警備は、下五旗(八旗のうち)があたりました。夜間の警備は一層厳重で、様々な経路で合計13回の巡邏が行われました。

特に防火には(江戸城などもそうですが)非常に神経を尖らせていました。防火専門の「火斑」も設けられ、場内には300以上の水瓶が常備されていたようです。ひとたび出火すると、王侯貴族以下すべて動員されて消火にあたったとか。(光緒帝の師匠も夜中にたたき起こされている)。

医療と食事

宮廷内の医療は「太医院」が担当しており、多数の専門医を擁していました。清代の康煕帝は西洋医学を信頼しており、実際に宣教師に治療させています。乾隆帝も西洋医学を好んだといわれます。

食事は膨大な量を必要とするため、数多くの料理人(厨役)がいました。明の宣徳年間(1435)には光禄寺の4700人を人員整理しましたが、それでも5千人残っていたといいます。光禄寺は特に宮中の宴会を管轄する役所であるゆえに多かったのでしょう。なお、皇帝のための料理人は乾隆帝期で150人程度という記録があります。皇帝の食事は一日2回で、早朝と正午過ぎ。夜6時頃に軽食が出たようです。

天安門とは

Public domain (wikipedia)

世界でもっとも有名な門は天安門でしょうか。皇城の正門であり、明代には承天門と呼ばれていました。明末の動乱で焼失し、清朝による再建時に天安門と命名されました。

上記画像は清朝末期1900年の天安門ですが、この写真を選んだのは現在の天安門が、再建されたものだからです。現在のものは、1969年~70年に厳重な情報統制の下に解体と建て替えがなされています。最高の耐震性を持つよう設計され、コンクリートや、厳選された木材を使用してエレベーターも完備する現代建築として生まれ変わりました。

その際、土台部分も調査され、数百年前のモルタルが引き続き非常な強度を保っていたことがわかっています。これは、石灰石と餅米の粥を混ぜたもののようですが、以前、ナショナルジオグラフィックにも中国古来の工法について報告されていました。

さて、上記北京城拡大図を見ますと、天安門前の広場は昔はT字型の壁に仕切られた「禁地」になっており、一般民衆は入ることはできませんでした。そのため、東西の交通のためには、南の大清門まで迂回しないと行けなかったといいます。

清代には、天安門前で「金鳳頒詔」という儀式が行われたと言われます。国家大典で皇帝が詔勅を下す際に、天安門上から金色の鳳のくちばしに詔書をくわえさせて下ろし、文武百官が承るという行事です。その後、天下にその詔が発布されるという皇帝の権力を可視化するデモンストレーションでした。

「しにか」の「天安門」の項を書いた石橋崇雄氏はこうまとめています。

清朝皇帝による天安門上からの金鳳頒詔と毛沢東による天安門上からの中華人民共和国の建国宣言。両者の根底にある政治上の意義こそ異なるものの、象徴としての天安門の政治性が現代中国にまで受け継がれていることはそこから明確に見て取れるのである。

「月刊しにか」2000年4月号 p31

確かに、歴史は続いているのだなと思わされる言葉でした。

以上、簡単に紫禁城とその生活に注目してまとめて見ました。参考にした資料は、主に「月刊しにか」を中心にしましたが、末尾に参考資料もいくつか記載しております。なお、上記の図は完全オリジナルのため、誤りがある可能性もあります。

休刊中の「しにか」の復刊を願いつつ・・・。お読みいただきありがとうございました。


大清帝国への道 (講談社学術文庫 2071)
講談社
「しにか」で「天安門」の記事を書かれた石橋崇雄氏著
明代中国の軍制と政治
国書刊行会
今回メインで参考にさせていただいた「しにか」の記事を執筆された川越泰博氏の主要著作です。ただ、お値段が高い。
紫禁城史話 中国皇帝政治の檜舞台 (中公新書)
中央公論新社
手軽に読めるところでは、明代研究の大家、故寺田隆信氏のこの新書でしょうか。
西太后に侍して 紫禁城の二年間 (講談社学術文庫)
講談社
紫禁城での生活で中国人の著書となると、この本も良いかと思います。ただ、原書は1911年であり日本語訳も大戦中の出版なので、かなり古い本です。この復刻版は中国文学の研究者加藤徹氏の解説がついています。