以下は自分用調査メモのため、情報の羅列となっています。
動機や事件の「真相」についての議論は調査記録対象としない。ここでは関係資料を一部メモするに留める。
参考論文は、山田忠雄氏の「佐野政言切腹余話」1988年(三田史学会)が有名で引用も多い。今回は山田氏の論文を元に情報をまとめる。ちなみに、国語学者で有名な山田忠雄氏とは別人である。慶応義塾志木高等学校の社会科教員だった方。(東海大学の教授になられた後2011年に亡くなられたよう)。著書としては「中山道: 武州・西上州・東信州」が検索できた。
以下メモ・・
事件発生後の経緯
山田氏の論文を中心に引用・整理。
発生当時の世論
事件後にドラマの主題にあったように、「佐野大明神」と書き付けた者がいたという記録。
善左衛門死骸を葬りし徳本寺、由緒もなき諸人毎日群集して佐野の墓に詣て拝礼する者幾千万人の数を志らす、善左衛門の屋敷上へあかりしるに、門の戸ひら(扉)へ佐野大明神と神に書て張付たるハ何者の志わさか、これは善左衛門を神二祝ひたる心か、是等も田沼をにくむ事の甚しきゆへならん哉、
「雑談」「寛永以来刃傷記」のうち、国立公文書館内閣文庫)
檀家だった徳本寺側の記録
以下の記録は佐野家が檀家だった徳本寺の記録。(この記録の由緒などは上記山田氏の論文を参照のこと)。事件発生からいくらかの手紙の応酬があったが、興味深いものだけ以下にメモする。1984年に徳本寺へ寄贈された史料であるようだが、本来徳本寺にあったものと思われる。(この間の経緯は論文参照)。
山田氏が紹介している史料(『史料1』)を引用する。まずその部分の山田氏の解説は以下の通り。
〔史料1〕事件直後、江戸城中での変事を巷間の噂で知った徳本寺では、檀家の一人が事件の人物だというので、捨てて置けず、まず同寺の役僧恵潮に命じて、様子を探索に行かせたところ、事実にまちがいないと確認された。そこへ佐野家に代わって、親類の春日佐太郎からも手紙が届いたが、刃傷に及んだ事情が判らないとのことであった。春日左太郎広端は当時新番上で、政言と同役である(『寛政駆修諸家贈』巻第一-0六)。史料の日時は不明だが、記事の内容から、事件発生からあまり時間の経過していない時点(田沼意知の死去以前、つまり佐野政苔の切腹以前)でまとめられた徳本寺の覚え書である。同事件に関する落首も別に同寺では記録していたようだが、これは現存しない。
「佐野政言切腹余話」山田忠雄 1988年(三田史学会)p27
上記史料1の原文(一部当方で太字・ふりがなをふった部分あり)を以下に引用する。記録したのは徳本寺側。なかなか詳細がわからず慌てている様子がわかる。この資料には刃傷事件が起きた3月24日~3月27日までのことが記録されている。(佐野の切腹以前)。
「佐野善左衛門一件覚書」(仮題) 天明四年甲辰三月廿四日
佐野善左衛門藤原政言廿八歳田沼山城守源意知ヲ切かけ候一件、殿中并落書等之儀別紙二有之候間略之、拙寺方筆記抜書相添入御覧二候、
一、三月廿四日卯暮時ゟ往来之人殿中騒動之旨申由家来共承之、乍去■■(二字抹消)様子相不知、
一、同廿五日辰朝五ツ時過出入者一両輩罷越、昨日殿中騒動之子細新御番之籏本衆田沼山城守殿ヲ令殺害候由物語ル、又壱人出入之者罷越、昨日之始末新御番佐野善左衛門殿と云仁、田沼山城守殿ヲ切侯旨専ら種々之風説之由、依之佐野善左衛門方江実否可承存、使僧恵潮指遣ス、尤彼宅江罷越候も如何二候間、近所二新見忠(右)衛門と申籏本衆有之候間、是二而得と可承旨申付遣ス、同日九ツ時過恵潮罷帰り、新見ニ而委曲承候所、昨日之騒動弥佐野善左衛門之由、併未タ様子も委敷不相知候間、御見舞御使僧は先御差扣、追而指越可然旨内意ニ付、恵潮佐野家門前罷通り見候得は門ハクゞリ迄閉、窻ふた致置候由、
一、同月廿六日巳九ッ時、春日佐太郎善左衛門姉(婿欠力)(割註「高八百五拾石、四ツ谷新屋敷」)方ゟ書札到来左之通、
以手紙啓上候、然は一昨日御旦方佐野善左衛門殿中ニ而田沼山城守殿へ為手負候二付、当日揚座敷江被追候
段、酒井石見守殿被仰渡候旨、昨日私義承知仕驚入奉存候、沙而善左衛門殿留守宅ゟは御知せ申間敷侯間、
御知セ申上候、以上、
三月廿六日 春日佐太郎 徳本寺様
右之返事略之、
一、廿七日午春日佐太郎方江使僧恵潮指遣ス、右見舞口上并ニ具ニ可承旨申越之所、彼方二而も一向殿中之次第意趣之訳も曽而相不知旨二而恵潮帰寺、
その後切腹は4月3日に申し渡され、その日の午後6時に執行された。(詳細は山田氏論文参照)。切腹後の遺体の引き取りが家族というのは誤伝で、閉門中なので徳本寺に直接引き取られた。佐野家は改易。(ただ闕所にはならなかった)。
4月4日の父親の徳本寺への手紙
私が印象にのこった史料をあと一つ。これは、同じく徳本寺の記録であるが、4月4日早朝の父親から徳本寺宛の知らせ。この時点で閉門であり既に幕府の監視下にあった。4月3日に寺側から見舞にがあったが、その直後に切腹の申し渡しがあり、遺体の引き取りが申し渡された。閉門状態なので直接の引き取りが出来ないため、いろいろと住職へお願いしている手紙。(山田氏『史料の2』)
(表書)「四月四日朝六ツ半時 徳本寺様 佐野伝右衛門」
昨日は御出添奉存侯、然は善左衛門義昨日切腹被仰付候、仍死骸之義一類共相願貰請候様二との事二御座候ヘ共一類共ハ差扣等二而一向相成不申候、何卒貴公御願被成御請取可被下候、死骸被下候様二奉願候段伝馬町牢屋敷二而詰合之与力中江御申達御願被成候様二仕度奉存候、尤昨夜中ゟ今朝迄之内持人被召連御出可被下候、奉頼候、御貰請被下候ハゞ、跡之義ハ又従是可申上候、以上、
天明四辰年 四月四日
追而申上侯、夜中今朝迄之内と申候事二御座候、以上、
前日に申し渡しがあり夕刻に切腹が既に執行されていた。手紙が早朝であることからも、一刻もはやく息子の遺体を寺に受け取ってもらいたいという気持ちが表れている。息子の為に何も出来ないもどかしさや、急におこったことへの混乱などが垣間見える。(遺体のつなぎ合わせから埋葬までの具体的な寺への願いは論文にさらに詳しく史料が掲載)。家族(妻もあり)の気持ちいかばかりかと思う。
なお、この事件は田沼意次の権力の弱体化を招き、最終的に失脚へと繋がるが、実際は田沼家は再び挽回している。徳川家斉の時代に水野忠成(田沼系の老中)の力添えで意知の弟田沼意正が若年寄・側用人にまで復権している。
以上記録する。
このメモは、以前この事件をブログ記事にしようかと調査を始めて挫折したものです。今回、2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で、「田沼意知刃傷事件」の回(28話「佐野世直大明神」)があり、このメモを思い出して、メモ形式で残すことにしました。(なので分かりにくい部分はあると思います)。
NHK公式ページにこの回の紹介文があり、そこに「蔦重は亡き意知の無念を晴らす術を考え始める」と書かれていたのがとても印象的でした。(「佐野世直大明神」という題もまた良い)。今回の大河は、ステレオタイプな田沼父子像とは違った描き方をしているのが気に入っています。もっとも、田沼時代の再評価は昨今のトレンドであり、これが「画期的」というわけではありません。結局ドラマはエンタメなので、史実にこだわり過ぎるのも面白くはないですが、実際の歴史を取り上げたドラマの場合はある程度丁寧な作り方をしてほしいとは思います。いずれにしても、歴史を広い視野で見ることはいつも大事なことだなと思う今日この頃です
それにしても、SNSやネットがなくても、そもそも世論というものは一斉に一つの方向へ流れる危険を持っているということですね。