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大河ドラマ「光る君へ」第15話感想

光る君へ

毎度「天邪鬼」な大河ドラマレビューを書いております。批判的な分析を主旨としておりますため、世間一般の論調とはかなり乖離しているかと思います。そのため、ご不快に思われる方もおられるかもしれません。前もってお詫びいたします。(以下ネタバレも含みます)

第15話「おごれる者たち」感想

今回は、かなり盛りだくさんの内容でした。何より道兼のシーンは、玉置さんの演技も中島さんの演出も良かったと思います。道兼の執念を感じます。ただ、これまでも何度か申しあげていることではありますが、「まひろ」母の殺害事件というフィクションの影響を、今後どのように扱って行くのかには注目したいと思っています。道長妻の明子は、相変わらず『源氏物語』の六条御息所ろくじょうのみやすんどころよろしく、笑っていても「狂気」を感じてしまいます。(個人的にはこの設定は好きではありませんが・・)。

今回は、「おごれる」という題の如く、道隆の専制と一門の優遇がエスカレートして行く様が描かれました。ただ、「弓比べ」のシーンは要らなかった気がします。「おごれる」という部分をあまりに直接的に表現しすぎて、余計なシーンに思えました。今後自滅してゆく伊周の将来を象徴しているのでしょうか・・。

定子が「清少納言」と名付けたシーンはなかなか良かったと思います。「少納言」という名称の由来についてはよくわかっておらず、基本的には夫や近親者にも少納言に就任したものはいないと言われています。(やはり夫がそうだったという説、一族を遡った人物からの命名など諸説あり)。秘書官たる「少納言」の本来の役割をもって「ニックネーム」的に名付けたとも言われ、「定子側近」という意味ではその説が正しい気もします。今回のドラマもこれに近い説かなと思いました。

惟規のぶのりが大学寮の「試験」に合格したあたりから、清少納言の訪問のあたりの場面描写もなかなか印象的でした。本来、清少納言と紫式部は直接の面識はなかったと考えられますし、活躍した時期がまったく違うわけですが、こういった「もしも」的なシーンも面白いと思いました。この辺の設定は当初違和感があったのですが、意外とこれもいいかもと思い始めております。ただ、後日の「清少納言批判」との整合性をどうするのかには注目したいと思います。

「まひろ」の葛藤については、続く部分で取り上げたいと思います。

「琵琶行」について

琵琶行
明の董其昌による「琵琶行」
「明董其昌書白居易琵琶行冊」(部分)The National Palace Museum, Taipei, CCBY-4.0 @ www.npm.gov.tw

今回は、「まひろ」が白居易の「琵琶行」を書写している場面がありました。最後にその一節を声に出して読むのが、なんとも悲しいシーンでした。

上の写真は、明代の董其昌の筆による「琵琶行」ですが、「まひろ」が声に出して読んだのは左側最初の2行部分です。(形式は七言古詩です。「まひろ」の書写もそうでしたが、上記のように句を分けずに書かれています)。

以下にドラマで読まれた部分の文脈を引用します。(太字部分が「まひろ」が読んだ部分)。

忽聞水上琵琶聲
主人忘歸客不發
尋聲闇問彈者誰 
琵琶聲停欲語遲


【書き下し】
たちまちち聞く 水上 琵琶のこえ
主人はかえるを忘れ 客は發せず
聲を尋ねて闇に問ふ 彈ずる者はたれぞと
琵琶聲
みて 語らんと欲するおそ

【私訳】
突然水面に琵琶の音が流れてきた。
主人(白居易)は帰ることを忘れ、客も出発しない。
誰が琵琶を弾いているのかと闇に向かって(あるいは「ひそかに」)尋ねてみた。
すると、琵琶の音はやんだが、返事もなかなかない。

琵琶行(仇英作)
明の画家仇英作の「琵琶行」(船上で女性が琵琶を弾いている)
「明仇英琵琶行図軸」(部分)The National Palace Museum, Taipei, CCBY-4.0 @ www.npm.gov.tw

都から遠く左遷された白居易が、友人を送別する船上で夜不意に琵琶の音を聞くという詩です。誰が弾いているのか返事がないので、こちらから舟を近づけて数曲弾いてもらうことにしたという話です。弾いていたのは商人の妻で、もとは技芸でした。詩の序文によれば、その女性の身の上話を聞いたりしているうちに、自分の境遇なども重ね合わせこの詩を作ったと言います。(古来、中国や日本で画題としても愛されてきた。上記の絵もその一つ)。

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「琵琶行」の平安文化への影響

この白居易の「琵琶行」は、藤原行成の『権記』や、『源氏物語』『枕草子』などに間接・直接の引用があると言われ、他の白居易の詩文とともに平安文化に影響を与えました。

「琵琶行」は、『枕草子』への引用でも有名です。以下に、『枕草子』「御仏名のまたの日」の段を引用いたします。御仏名は12月に三日間清涼殿で諸仏の名を唱えて罪業消滅を願う日のことで、以下の話はその翌日の出来事。

いと面白うひとわたり遊びて、琵琶弾きやみたる程に、大納言殿の「琵琶、声やむで、物語せむとする事遅し」と言うことをしたまへりしに、隠れ伏したりしも起き出でて、「罪おそろしけれど、なほ物のめでたさは、やむまじ」とて笑はる。

【現代語訳】
大変面白く一巡演奏して、琵琶を弾きやめました時に、大納言殿(伊周)が、(白楽天の琵琶行の一節)「琵琶の声やむで、物語せむと欲すること遅し」と言ふことをとなえなさいましたので、隠れ伏せっておりましたのも起き出して、(清少納言)「仏罰は恐ろしいけれど、やはり物事の結構なことには、我慢できません」と言って笑われます。

『枕草子』「御仏名のまたの日」(現代語訳は「枕草子・下」講談社文庫より)

上記引用の文脈は、天皇が中宮定子に「地獄絵」を見せている場面で、清少納言にも「見てみよ!」と言われたというエピソードです。清少納言は、絵が怖いので逃げて寝てしまいます。雨も降って手持ち無沙汰な天皇は音曲の会を催すわけですが、演奏が終わった後に、インテリ貴公子である藤原伊周が白居易を引用して「琵琶の演奏が終わったから話をしたいが、返事がないな~」(私訳で自信なし)と言ったというのが上に引用した部分です。清少納言は、彼女も漢籍の才があるわけなので、それに答えて起き出してきて、「仏罰も怖いけれど、素晴らしい音楽を聴いて出てきてしまいました!」と返答をします。

個人的には、自らの学才やしゃれっ気をひけらかしているわけなので、どうもこの下りは好きではないのですが、「定子サロン」の優雅さや学識を良く表すエピソードだと思います。

ただ、このような「琵琶行」の引用方法は、上記の通り、白居易の「琵琶行」の趣旨とはまったく違うものです。そう考えると、このような(「琵琶行」を瞬時に引用するような)やりとりは、あくまで教養を示すためのものであり、「琵琶行」の文学的な解釈などは重視されていないこともわかります。

白居易の詩の多くの部分には、哀愁や時代の危機感なども表れていることを考えると、平安貴族たちの受容方法は(本来の詩の趣旨とは)かなり違うものだったのかもしれません。(もちろん真剣に白居易に向き合った人たちもいたでしょうけれども)。

「まひろ」がこの詩を読んだ(詠んだ)理由

さて、話をドラマの場面に戻しますと、ちょうど「まひろ」が「琵琶行」の書写をしているところへ、清少納言がやってきます。そして、定子の女房となる彼女の抱負が語られ、客が帰って場面は再び書写の場面になります。そのとき、まひろは「琵琶行」の一部を声を出して読みます。

「まひろ」が声を出して読んだ部分は、(上記引用の中の)「琵琶声停」(琵琶聲停みて」・・・までです。続く「語らんと欲すること遅し」の部分は読まれていません。そして、その後琵琶を振り返って、「自分だけが前に進めていない」と嘆きます。

では、「まひろ」はどうしてこの部分を読んだのでしょうか。もちろん、単にドラマの演出で琵琶の話題が出ていたのでそれに合わせただけで深い意味はないのかもしれません。ただ、やはり何か意味があるのではないかなと思った次第です。

その前の場面で、弟がようやく大学寮の試験に合格した場面があり、弟が成長して行くうれしさと同時に寂しさのようなものが描写されていました。また、それは自分が女性であり、才を発揮する場所がないことへのもどかしさでもあったのでしょう。そして清少納言も女房として自分の道を歩んで行く様を観た事で、「自分だけが・・・」という気持ちがいよいよ強くなったのかもしれません。

実際の紫式部は前述の清少納言や伊周と同じく、「琵琶行」引用の際には楽器そのものや演奏にはあまり注目していないようです。『源氏物語』でも、「琵琶行」は当時の教養の雅な文化的背景としてしか使われていません。

ただ、今回のドラマでは琵琶は「まひろ」にとって特別な楽器のようです。白居易は「琵琶行」で、琵琶の音色や演奏に多くの描写を割いています。つまり、琵琶を背景としてではなく、「主役」として扱っています。そして、そこに琵琶を弾く女性と自分の人生を重ねているのです。「まひろ」も(史実の紫式部とは違って?)琵琶の深い部分に注目しているのかもしれません。

そう考えると、「まひろ」が「琵琶行」を読み、慨嘆するというのは何か意味があるのかなあと考えてしまうのです。深読みすると、「見事な琵琶を弾いているのは誰だい?」と尋ねた白居易のような人に巡り会いたいという思いなのでしょうか。(これは男女という問題ではなく、才能を見出してくれる人ということか・・)。あるいは、既に道長がそのように聞いてくれたにもかかわらず、答えられなかった(「おそし」の部分)ということなのでしょうか・・

もちろん単に、琵琶を弾くばかりの自分を恨めしく思っただけなのかもしれません。私はこれ以上考察する能力が無いため、他の方の考察もこれから調べて見ようと思います。

ただ、考えて見ると(史実では)この時「まひろ」は十代でまだまだ若いので、「自分だけが・・」と感傷的になる年齢ではないかもしれません。

まとめ

今回は、中島さんの演出も冴えていて、なかなかうまくまとめられていたと思います。文化的にもいろいろな要素がちりばめられていて面白かったです。(結局今回は、ほとんど「天邪鬼」が出る場面がありませんでした・・)。

次週の予告を観ますと、「定子サロン」の様子も描かれるようなので、それも楽しみにしたいと思います。以上お読みいただき感謝いたします。


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