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大河ドラマ「光る君へ」第16話感想

光る君へ

毎度「天邪鬼」な大河ドラマレビューを書いております。批判的な分析を主旨としておりますため、世間一般の論調とはかなり乖離しているかと思います。そのため、ご不快に思われる方もおられるかもしれません。前もってお詫びいたします。(以下ネタバレも含みます)。病気のため若干更新ペースが落ちております・・。

第16話「華の影」感想

『枕草子』で有名な「香炉峰の雪」の場面はなかなか良かったですね。(ちょっと演出過多な気もしました)。

道兼の変化については、いい方向なのだと思いますが、やはりここまでの伏線が弱いと思います。彼ほどの人間が変化するためには、後継者になれなかったというだけでは弱いですし、道長との関係改善についても、今少し説得力が必要だと思います。「汚れ仕事は・・」という台詞は良かったです。

病に倒れた「まひろ」を看病する道長の「私のことはよい!」に全てを持って行かれ、いろいろと言いたかったこともトーンダウンしました・・。

ただ、王朝文化の華やかさの一方での、庶民の暮らしの厳しさを思うと、貴族文化である平安文化についてただ称揚できない気持ち(楽しめない気持ち)にもなります。先回も指摘しましたが、実際の道長や「まひろ」は庶民のことをこんな風には考えていなかったわけなので(むしろドライ)、美化しすぎではあると思います。(あまりに強調すると偽善的に見えてしまう)。政治と慈善の関係は続く部分でまとめたいと思います。

「まひろ」が生きた時代の背景をよく理解できる回でもありました。

一条天皇と災厄

一条天皇は名君という評判がありましたし、いわゆる「定子サロン」の優雅な文化も貴族たちには定評がありました。(今回の大河ではうまく表現していると思います)。しかし、その一方で一条朝の時代は災害や疫病、事件などが絶えなかったので、心ある貴族たちは心を痛めたといいます。

ドラマ内でも、一条天皇が『貞観政要』や儒教的な思想から、仁政を主張する様子が描かれていました。日本でも儒教の受容とともに、天災は「天」の為政者への戒めという「天人感応説」1が広く信じられるようになっていました。

ただ、藤原行成の『権記』長保二年(1000年)6月20日の条にはこんな記述がありました。

近日、疫癘、漸く以て延蔓す。此の災ひ、年来、連々として絶ゆること無し。昔、崇神天皇御宇七年、疫有り、天下の人、大半、亡没す。時に天皇、其の祟りを知る。忽ち以て解謝し、天下を治め馭すこと百余年なり。而るに今、世路の人、皆、云はく、「代、像末に及ぶ」と。災は是れ理運なり。予、思ふに、然らず。最勝の説を聞くに、自づから以て相叶ふ。後漢の末歳、災異、重畳たり。後代の史、当時の謡、以為へらく、「賞は其の功に当たらず、罰は其の罪に当たらず」と。又、王法論のごとくんば、「悪人を治罰せず、善人に親近せざれば、禍は災孽を胎み、何処に転ぜんや」と。彼の済陰の彩鳳、巴郡の黄竜、皆、訛言を出し、多く妖孽を為す。今年の夏、招俊堂、災し、其の後、幾くならずして、応天門、壊つ。皆、是れ怪異の極みなり。有識の者の定、応に見ゆる所有るべし。主上、寛仁の君にして、天暦以後、好文の賢皇なり。万機の余閑、只、叡慮を廻らし、期する所、澄清なり。庶ひ幾ふ所は、漢の文帝・唐の太宗の旧跡なり。今、斯の時に当たり、災異、鋒起す。愚暗の人、理運の災を知らず堯水・湯旱、免れ難し。忽ち白日蒼天に迷ひ、訴ふと雖も答ふること無き者なり。

摂関期古記録データベース『権記』(日文研)より(太字筆者)

行成の日記では、当時「もう世も末だ」(代、像末に及ぶ)と世間は騒いだことが書かれています。行成は上記日記の前半では前述の「天人感応説」を認めつつ、後半では、そうであるならば、名君(「寛仁の君」「好文の賢皇」)である一条天皇(主上)の御代に、どうしてこんなに世が乱れるのかと嘆いています。行成自身は、「愚かな自分にはその答えがわからない」(愚暗の人、理運の災を知らず)と嘆く一方で、最後に中国古代の聖王堯・湯の時代ですら水害や旱があったのだとのべて、天皇のせいではないという気持ちを表しています。

紫式部も『源氏物語』で光源氏にこのように言わせています。

世の静かならぬことは、かならず政事のなほく、ゆがめるにもよりはべらず。さかしき世にしもなむよからぬことどももはべりける。聖の帝の世にも、横さまの乱れ出で来ること、唐土もろこしにもはべりける

『源氏物語』薄雲より

「災厄は、中国で名君が治めた時代にもあったのだから、必ずしも帝の御政道が間違っているわけではない」と源氏は言っています。

この時代には、陰陽道と儒教の融合で、このような考えが先鋭化したとする説もありますが、一方で上記のように政治と災厄を切り離して考えるような議論もされています。これは、白居易の「策林」などが受容された結果だとする研究者もいます。2

私たちの「平安時代」のイメージを形成しているのは、「枕草子」や「源氏物語」などの華やかで雅な王朝文学です。しかし、現実の一条朝期には多くの問題が発生しており、庶民にとっては危機の時代でもありました。もっとも歴史上「平安な時代」はほんとうに少ないのでしょうけれども。

施薬院・悲田院の話・・

悲田院は、聖徳太子を起源とする伝説もあるようですが、実際は養老七年(723年)に仏教寺院内に置かれたものが最初のようで、公式にはその後光明皇后(藤原光明子)が、天平二年(730年)施薬院(読みは一般に「ヤクイン」3)・悲田院ひでんいんを皇后宮職に設置したものが最初とされます。皇后死後に衰退しますが、平安初期淳和天皇の頃に施薬院が再度法整備され、悲田院は施薬院の差配下にあったとも言われます。施薬院は藤原氏(光明皇后)の影響下で始まっているため、藤原氏内の病者や困窮者の救援も行っていたようです。

悲田院は、その性質から寺院と深くつながるようになり、施薬院は医術や藤原氏とのつながりから、権力との関係を強めます。悲田院は民間へ、施薬院は民間とのつながりを失いながら、官職(施薬院使)として形式的に存在し続けます。特に戦国時代には朝廷が実質を伴った「施薬院」を維持することはもはやできなかったのでしょう。「施薬院使」は名誉職として丹羽氏などが世襲したとされます。後代に豊臣秀吉の側近施薬院全宗やくいんぜんそうは丹羽氏の末裔の医師でしたが、秀吉の力を借りて「施薬院」の復興に成功します。とはいえ、実質のある官職として復興しただけであり、庶民には関係のない話でした。(もちろん、医学研究という点での意味はあるけれども)。政府による「庶民のための施薬院」となると、徳川吉宗の時代の小石川養生所まで待たなければなりませんでした。

まとめ

毎回述べていることですが、やはり庶民と縁遠い貴族(これは下級貴族も同じ)をあまりに美化するのは問題だと感じました。もちろん、エンタメですからあまり目くじらを立てるのも野暮ではありましょう。道長の「私のことはよい!」も、史実の彼は言わないでしょうけれども、柄本版道長ならではの大変いい台詞ではありました。


紫式部と藤原道長 (講談社現代新書)
講談社
無官で貧しい学者の娘が、なぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか?後宮で、道長が紫式部に期待したこととは?古記録で読み解く、平安時代のリアル

  1. 「中国の思想上、天(自然)と人(人事)とには対応関係があるとする説。最初に組織的に論じたのは前漢の董仲舒の《春秋繁露》である。」――「世界大百科事典(改訂版)」平凡社 ↩︎
  2. 長瀬由美「平安時代における儒教-白居易「策林」の受容を軸にー」2020年 ↩︎
  3. 有職故実の書物に、読まない文字(内匠頭とか)として出てくるので読まないのは確かである。「施」を読まない理由はいろいろ言われている。音が脱落したという説、仏教的に「施」とわざわざ言うのは、いわば「上から目線」だから(大熊房太郎など)、など諸説あり。 ↩︎