毎度「天邪鬼」な大河ドラマレビューを書いております。批判的な分析を主旨としておりますため、世間一般の論調とはかなり乖離しているかと思います。そのため、ご不快に思われる方もおられるかもしれません。前もってお詫びいたします。(以下ネタバレも含みます)。病気のため若干更新ペースが落ちております・・。
第17話「うつろい」感想
歴史的にも、色々な事件が起き、大きな変化が生じる時期です。これから始まる「中関白家」(道隆家)の没落も、どのように描かれるのでしょうか。
今回、「まひろ」と「さわ」のシーンが印象的でした。話の内容自体は、若干わざとらしい部分がありましたが、私が特にいいなと思ったのは、画の撮り方です。館の奥から外を写したシーンはとても良かった。私はかねてからスタジオ撮影の「作り物」感が残念に思っていました。もちろんおそらくは今回も合成でしょうけれども、こういう画が見たかったというシーンでした。本当は、屋外建設のセットならベストですが、天候や予算など難しい面があるのでしょう。
今回の演出佐々木善春氏で思い出すのは、「清盛」とか「麒麟が来る」でしょうか・・。印象的なシーンが多くて、私は好きな演出家さんです。(今作、佐々木氏演出回にも色々と申し上げて参りましたが、それでも印象的な回が多い演出家さんです)。
『荘子』を写す「まひろ」の話
ドラマの中盤で、ほんの一瞬ですが「まひろ」が『荘子』を書写している様子がでていました。見えたのは「蝶與胡蝶之夢・・」でしたので、おそらく「胡蝶の夢」(内編・齊物論)でしょう。横に原文以外の割注が見えていますので、平安期には日本に多種伝わっていた「註」がついた本であることがわかります。この註からすると、(多分ですが)郭象註『荘子』かと思われます。
郭象(字は子玄)は三世紀西晋の人で、老荘の専門家でした。当初政界を嫌って隠士の風を持っていましたが、後に大変出世して変節したとも批判されています。(隠者かと思いきや、俗人だった・・というような当時の評価)。ただ、そもそも彼の「老荘研究」は政治権力のためのツールであり、彼自身としては「変節」も何もないということではあるようです。彼の註による『荘子』は「郭象の政治思想の成果というべきもの」とも言われます。1
郭象註自体の評価は別にして、今回のドラマで出てきた「胡蝶の夢」について一応簡単に触れておきたいと思います。(青いマーカー部分が、「まひろ」が書いていたシーンの部分)。
昔者莊周夢爲胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志與。不知周也。俄然覺、則蘧蘧然周也。不知、周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與。周與胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
訳文は、野村茂夫『老子・荘子ビギナーズ・クラシックス中国の古典』 (角川ソフィア文庫) p.157より。
【訳文】
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。栩栩然て胡蝶になりきっていた。自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることはまったく念頭になかった。俄然と目が覚めると、蘧蘧然まあ荘周ではないか。ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれがほんとうか私にはわからない。荘周と胡蝶とには確かに(形の上では)区別があるはずだ。(しかし主体としての自分には変わりない。)これが物の変化というものである。
非常に有名で哲学的な話ですが、古くから日本で愛読されてきた話です。漢籍に明るい「まひろ」は、どんな気持ちで『荘子』を読んでいたのでしょうか。この回に、(演出上)『荘子』を持ってきたのは、困難な世の中で現実をありのままに受け入れることを勧める郭象註『荘子』だからなのか、はたまた、道長との「夢うつつ」のシーンからイメージされたものか・・。特別意味はないのかもしれませんが。
まとめ
今回も、結局あまり「天邪鬼」ぶりは発揮できませんでしたが、それなりに楽しめました。次回からは、さらに物語が大きく動くようですね。越前編も近いようなので楽しみです。
- 黄錦鋐「郭象の『荘子注』について」台湾師範大学 1990年 ↩︎