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大河ドラマ「光る君へ」第21話感想

光る君へ

毎度「天邪鬼」な大河ドラマレビューを書いております。批判的な分析を主旨としておりますため、世間一般の論調とはかなり乖離しているかと思います。そのため、ご不快に思われる方もおられるかもしれません。前もってお詫びいたします。(以下ネタバレも含みます)。病気のため若干更新ペースが落ちております・・。

第21話「旅立ち」感想

為時と「まひろ」が越前へ旅発つ一方で、朝廷では「長徳の変」の余波で「中関白家」が一瞬にして凋落する様子が描かれました。この出来事はある意味自滅であり自業自得でもあるわけですが、今回のドラマの問題点としては、道長が(現時点でも)権力闘争に積極的でないという風に描かれていることかなと思います。

確かに五男(嫡系では三男)の彼が権力を握ることになったのはある種の偶然が重なったためでもあったわけですが、「長徳の変」前からかなりの反目は始まっていました。(「長徳の変」ももちろん道長側には「幸運」でした)。そう考えるとドラマで描かれる頃の道長は、かなり意を決して戦っていたはずです。でも、ドラマでは「争いたくない」「蹴落としたくない」人物として描くことで、政治的(歴史的)な出来事が非常に曖昧に見えている気がします。

その結果、中宮定子の行動が(定子サイドは清少納言主従を含めて美化されてはいるが)、すごくわがままな行動に感じます。(一条天皇の裁定に不服であったり、勝手に剃髪するなど)。もちろん、これは史実の彼女に近い描写であり、父や兄の後ろ盾を失った彼女の精一杯の抵抗だったでしょう。ただ、道長の方がかなり美化されているので、なんとなくバランスが悪く感じました。

ドラマとして、(伊周ら以外)道長、定子、清少納言らをどれも美化して描きたいのはわかりますが、その結果全体的に曖昧で「もやっ」としたストーリーになっていると思いました。(ちょっとうまく表現できなくてもうしわけありません)。

道長と「まひろ」の逢瀬の場面ですが、手紙を出した理由が「聞きたいことがあったから」というのが多少残念でした。もちろん、彼女自身が「噂を信じて一瞬疑った」と後悔しているので、彼女の疑念は実際に道長と会うことで氷解するわけですが、二人の関係性からするともう少し互いを(離れていても)理解している存在に描いてほしかったと思います。上申された漢文が「まひろ」のものだと見抜いた道長と、一瞬の疑いをもった「まひろ」の若干の温度差が浮き彫りになってしまったのが残念に思いました。「旅立つ前に会いたかった」というだけの場面でよかったと思うのです。さらに言えば、道長の気持ちを既に察しているぐらいの「まひろ」でいてほしかったとも思います。

そもそも、「長徳の変」の事件処理は一条天皇のリーダーシップで行われています。噂がどうであれ、明らかに「中関白家」側が自滅した事件であったわけなので、「中宮様を追い詰めたのは道長様ですか」という「まひろ」の台詞はあまりといえばあまりではないかと。情報が限られていたという設定かもしれませんが、事件の大きさは十分理解できる立場にいたわけですから。(父、宣孝、清少納言ききょうなど情報源は豊富だった)。

もっとも、「終わり良ければ・・」で、二人の信頼関係は再確認されましたので、あまりうるさいことを言うのも野暮でしょうか。

個人的に一番印象深かったのは、サマーウイカさん演じる清少納言が『枕草子』を書き始める場面です。書道を長いことされていたと聞きましたが、なかなかの達筆に驚きました。それを生かした、カット割りなしの演出はとても良かったです。その後の、臥せっている定子が少しずつ読み進んで行く場面も美しいものでした。

為時の越前国司赴任の話

今回、道長が赴任する為時に、外国勢力に警戒せよと下命している場面がありました。まず、この時の来航者への対応についてまとめてみたいと思います。

長徳元年(995)に来航した商人朱仁聡一行の扱い
  • 長徳元年
    (995)
    8月ごろに若狭へ唐人(宋人)70名が来航

    9月には、道長が天皇に宋人来航の上奏をしており、その後対応が議論されている。(若狭から越前への移送が決定)

  • 長徳二年
    (996)
    対応のため藤原為時を越前守とし、下向させる

    同じころ「長徳の変」勃発。
    夏には、為時と宋人の間で漢詩の贈答が行われている。

  • 長徳三年
    (997)
    朱仁聡についての事件が審議される

    若狭守源兼隆が、朱仁聡らに「陵轢」される(侮られる)事件あり。詳細は不明。貿易に関するトラブルか。(源兼隆は若狭から何か商用でやってきてトラブルになったのか)。

  • 長保二年
    (1000)
    朱仁聡らは太宰府へ

    緊迫する国際情勢やトラブルなどが関係か

  • 長保四年
    (1002)
    朱仁聡ら帰国

この頃は、対外貿易は朝廷の独占であり、ある意味での「朝貢」とも解釈されていました。それゆえにも、外国人の来航は非常に重要な事件であり、徹底的に管理すべき問題でした。太宰府へではなく日本海側若狭に直接来航したため、かなり議論になったようです。

数年後に越前から太宰府への移送となった理由としては『小右記』の同時期(長徳三年六月十三日条)の記録を上げる研究者もいます。1

高麗国の牒三通<一枚、牒日本国。一枚、牒対馬島司。一枚、同島。>を下し賜ふ。諸卿、相共に定め申す。大略、「返牒を遣はすべからず。又、要害を警固し、兼ねて内外の祈祷を致す事。又、高麗の牒状に日本国を恥ぢしむる文有り。須く官符を大宰に給ふべし。其の官符の文に、高麗、日本の為に称する所の由、又、□すべき事を注す」てへり。高麗国、礼儀に背く事なり。商客、帰去の時、彼の国に披露すること有るか。但し件の牒を見るに、高麗国の牒に似ず。是れ若しくは大宋国の謀略か。抑も高麗使、大宰の人なり。若しくは返し遣はすべからず。其の罪を勘ぜらるべし。・・(中略)・・又、北陸・山陰等の道に官符を給ふべき由を僉議し了んぬ。上達部、云はく、大宋国の人、近くは越前に在り。又、鎮西に在り。早く帰し遣はすべきか。就中、越州に在る唐人、当州の衰亡を見聞せるか。近都国に寄り来たるは、謀略無きに非ず。恐るべき事なり」てへり。

「摂関期古記録データベース」の『小右記』書き下しより

当時、高麗から無礼な書状が来たり、同じ歳の10月には太宰府が実際に襲撃される事件がありました。その背後に、もしかして宋がいるのではとも疑われています。前述の商人とのトラブルも重なって、宋人への警戒心も高まっており、それが太宰府への移送につながったと言います。

今回ドラマ内で道長が、赴任する為時に「外国勢力に警戒せよ」と命令しているのは、こういった国際情勢の緊張を反映していると思われます。この後、一度は左遷された藤原隆家が活躍する「刀伊の入寇」(1019年)も起こりますが、ドラマではどのように描かれるのでしょうか。

為時の漢詩について

ちなみに、前表の通り為時は越前において海商朱仁聡やその一行と漢詩を贈り合っています。『本朝麗藻』には為時の詩「覲謁之後以詩贈大宋羌世昌」が残されています。(「覲謁」は国司着任の儀式)。

「覲謁之後以詩贈太宗客羌世昌」藤為時。

六十客徒意態同 独推羌氏作才雄
来儀遠動煙対外 賓礼還慙水舘中
畫鼓雷奔天不雨 彩旗雲聳地生風
芳談日暮多残緒 羨以詩篇子細通

重寄。

言語雖殊藻思同 才名其奈昔楊雄
更催郷涙秋夢後 暫慰羈情晩酔中
去国三年孤舘月 帰程万里片帆風
嬰児生長母兄老 両地何時意緒通

『本朝麗藻』下巻

この二つの漢詩は『本朝麗藻』からのものですが、文献によって趣旨や引用は違うようです。この羌世昌という人物は朱仁聡と一緒にやってきた海商のようですが、この人物の帰還については中国の歴史書『宋史』にも記録されています。その部分には、羌世昌は世昌の名ででてきます。(異説もあり)。

咸平五年、建州海賈周世昌、遭風飄至日本凡七年得還。与其国人滕木吉至。上皆召見之。世昌以其国人唱和詩来上 詞甚雕刻 膚浅無所取

【大意】
宋の咸平五年(日本の長保四年)、建州の海商周世昌が、漂流の末日本に至り7年の後に日本人滕木吉を伴って帰ってきた。世昌は日本人の唱和した漢詩を奏上したが、詞は甚だ凝っているけれども、内容は非常に浅薄であり、とるにたりな

『宋史』列伝二五〇 外国七 日本国伝

この部分の解釈はいろいろあるようですが、この周世昌という人が、為時と『本朝麗藻』に残る詩をやりとりした羌世昌と同じ人物であることは概ね間違いなさそうです。問題は、ここで出てくる日本人滕木吉が誰かということです。

東洋史学者の石原道博氏は、滕木吉=為時説を紹介していますが、国司が渡海はできないので、彼の詩が紹介されたということなのでしょうか。石原氏は以下の文献を紹介しています。

■『隣交徴書』(江戸時代。伊藤松の著作)
『本朝麗藻』の為時の漢詩を世昌宛(羌の誤り)と解説。
■『活所備忘録』(江戸時代前期の儒学者那波活所の著作)
『隣交徴書』の上記部分註に引用されている。『宋史』の周世昌と『本朝麗藻』の姜世昌(羌の誤り)とは同一人物だということや、その時の越前守は為時だったことを解説

石原道博「日中交渉史雑考」
※筆者註:伊藤松は『今鏡』を引用しているのか。(石原氏の文脈には書いていない)。『今鏡』では、前掲為時の二つの詩を混同しているように見える。

以上のことから石原氏は、「活所備忘録の記述を信用すれば」と前置きをしつつ、滕木吉=為時としています。 ただ、素人の私が読んだ限りでは『活所備忘録』は姜世昌(ママ)が為時と詩の応酬をした周世昌だと述べているだけな気がしますが、どうなのでしょう。(石原氏はこの点についての研究者たちの意見を求めている)。

ただ、滕木吉=為時かは置いておいても、多くの学者が、この『宋史』の記録から為時の詩の評判が、宋側にはあまり良くなかったと解説しています。2『本朝麗藻』の詩自体も、多くの研究者は素朴ではあるけれどもたどたどしいと言います。(脚韻はきちんと踏まれていると思いますが、たしかに素朴・・)。おそらくこの『宋史』の記述から導き出した説なのかもしれません。滕木吉が誰かは諸説あるようですが、「滕」という文字からすると藤原氏ゆかりの人物だったということかもしれません。

あくまで素人の個人的な考えとしては、やはり滕木吉=為時は無理があるので、朱仁聡や周世昌の帰還に同行した藤原家の縁者が、為時の漢詩を宋で詠んだというようなことかもと思ったりします。身分の低い庶民では、詩は作れない(あるいは詠めない)と思いますので、ある程度の学識がある人物ではあったでしょう。その後中国皇帝に弓を射てみよと言われるが下手だったとか・・。(平安貴族だったのか)。

意外に有名人物の「滕木吉」

では、実際にこの日本人滕木吉は「その時」どんな漢詩を読んだのでしょうか。

明の馮応京が著した『月令広義』(年中行事の解説書)に宋の時代に日本人滕木吉が献上した詩というものが載っています。これは、前掲『本朝麗藻』の為時の詩「覲謁之後以詩贈大宋羌世昌」とはまったく違うもので、以下のようなものです。

君問吾風俗 吾風俗最淳
衣冠唐制度 禮樂漢君臣
王甕蒭新酒 金刀剖細鱗
年年二三月 桃李一般春

『月令広義』二月令・桃李春

日本の風土や風俗を詠ったものですが、前述の石原氏によれば、やはりきわめて「素朴・単純」な詩のようなので3、これが宋宮廷で披露されたのだとすれば、確かに微妙な空気になったかもしれません。これは『宋史』の場面で「唱和」された詩とは書かれていないものですが、「宋朝真宗日本国人滕木吉朝献」として紹介されているものです。

この詩についてはいろいろなバージョンがあるようですが、これ以上よくわかりませんでした。素人調査なので、間違いがありましたらお詫びします。

ドラマの中国語・・

今回のドラマで、中国語を話す為時のシーンについて思ったことがあります。現代の普通語?(アル化音はないが)を話している気がしたのでちょっと疑問に思いました。一応中国語指導はクレジットされていますが、これは現代中国語という意味なのか、歴史的な中国語の指導なのかどちらなのでしょうか。中国語も、時代によって大きく変化していますし、戦乱や国境の変化などで人が大きく移動することもあるので、「方言」も多様に変化しています。日本でもその影響を受けて、呉音・漢音・唐音などの変化があります。(平安期は、宋の影響を受けた「唐音」が発生した時代)。

そう考えると、この時代の発音も(現代中国語とは)違っていたのは確かです。中国は方言も多様で、「話し言葉による会話」は昔から難しいので、「文語による会話」や筆談でないと通じない気もしました。入宋の僧侶の中には素晴らしい中国語や詩を褒められた人たちもいますが、為時は実際に現地に渡った経験はないので中国語会話力はかなり限界があったのは確かでしょう。(書き言葉の漢文とはまったく違うので)。次回以降このあたりがどう描写されるのかも楽しみです。(父の中国語力に「まひろ」ががっかりするとか??)。

まとめ

今回は久しぶりの「天邪鬼」復活で、いろいろと書いてしまいました。ただ、朝廷にも「まひろ」周辺にも多くの変化があり、物語が盛り上がってきたのも確かです。今後の展開が楽しみです。


▼藤原だらけの大河ドラマなので、藤原一族の関係図を作ってみました。さらに混乱すること必定ですが、宜しければご覧ください。



紫式部と藤原道長 (講談社現代新書)
講談社
無官で貧しい学者の娘が、なぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか?後宮で、道長が紫式部に期待したこととは?古記録で読み解く、平安時代のリアル
  1. 酒井健治「平安時代中・後期における唐人来着と日本海 : 越前と若狭を中心に」2019年 ↩︎
  2. 森公章「平安中・後期の対外関係と対外政策」、榎村寛之「謎の平安前期」など。ただ、若干資料の読みがおかしい気がする場合や、根拠が提示されない場合がある。 ↩︎
  3. 石原道博「日中交渉史雑考」 ↩︎