清院本「清明上河図」風景探索2回目
先回に引き続き、清院本「清明上河図」の風景探索です。今回の場所は虹橋から町の城壁前までです。画全体の三分の一程度です。細かいですが、以下の部分になります。(下記図の赤い数字と枠部分が以下の画像と図番号です)。
虹橋をくぐる船の風景
船が橋にぶつかるのを防ぐ仕事は、専業か兼業で行われていたようです。ただ、このような仕事は宋代にはなかったようで、これもやはり明清の風俗を投影しています。今で言うフェンダー(防舷材)のようなものを壁に垂らしている人達もいます。橋の通過は難所だったのでしょう。
虹橋の風景
虹橋の全景は、冒頭の写真がそれです。橋の上にまで所狭しと店がならんでいます。西洋でも橋の上に商店や住宅が建設されていたのを絵画などで見ますが、考えることは同じですね。ここだけでもかなり見所はありますが、きりがないので一カ所だけご紹介いたします。
橋のたもとですが、大きな傘の下に「風鑑」(人相見)という看板がかかっています。診断を受けている人物だけではなく、大勢がそれを見守っているのも面白いです。順番を待っているのか野次馬なのか。隣の友人?の方に肘をかけている人がいますが、こういう描写が本当に細かくて感心します。
虹橋を渡って対岸の風景
これは橋を渡った対岸の風景ですが(冒頭の番号3の場所が間違っております。渡って右側です)、右側の店舗は塩の販売業者で、店の壁には「發賣有引官盐(塩)」と書かれています。塩は国の専売制であったため取引免許のある業者しか販売できませんでした。なので、「官塩」を売っていますよという看板です。また「引」は塩の販売単位であるため、「引商」とも言われていました。1
左側の人だかりは猿回しです。ちょっと画像があらいですが、今と同じように猿に「リード」をつけて曲芸をさせているのでしょう。既に漢代にはこのような芸があったといいます。猿回しはまた城内にもいます。
猿と言えば、唐末期の昭宗が相次ぐ反乱の中、唯一心を許したのが猿という話も有名です。昭宗は後に朱全忠に殺され、息子の代に唐は滅びますが、後世にはいろいろな逸話が残っています。(もちろん実話かは疑わしいものも多いですが)。
明の郎瑛が著した「七修類稿」巻三十五の「詩文類」には、同じ明代の張詡の「白鷳歌」にある「又不見唐家孫供奉、奮跳欲断朱三喉」という詩を取り上げた話が出てきます。「唐家孫供奉」という部分が、唐の昭宗が飼っていた猿のことです。(異同あり)。昭宗は”孫供奉”という名前と衣冠を与えて大事にしていました。昭宗が朱全忠に殺された後、捕らえられて引きたてられた”孫供奉”は、朱全忠の衣を引き裂こうと(この詩では喉になっている)襲いかかって殺されたという話です。「七修類稿」のこの部分では、猿だけではなく馬とか鳥、象などがそれぞれ主人に忠義を尽くした故事が語られます。そして郎瑛は、動物ですらこのように忠義の心があるのに、人間が動物に劣ってよいものか!と語ります。
脱線しましたので、戻りましょう。
こちらは、橋を渡った先の広大な朝廷の敷地で、軍の演習(騎射)がなされている様子です。一番左の壇上には赤い官服を着た軍の高官がいて、その前には儀仗の兵達がいます。見にくいですが、右下に多くの見物人が群がっています。
「清院本」は明代の風俗を画にしていますが、この軍の様子も(宋ではなく)明軍を参考に書かれています。明代には各地の演習場で、実戦というよりパフォーマンスとしての演習が行われていたようです。明の崇禎四年の兗州での閲兵では「女装の美少年三、四十騎が背に旗を刺し、毛皮の衣装をまとい、袖口に刺繍を施し、纏め髪を結った出で立ちで、馬上で曲乗りを(した)」という記録もあります。2 これはちょうど旧暦三月の閲兵式の記録なので、やはり清明節の時期に画のような「イベント」があったことがわかります。
外城の城門前の風景
城壁の門の前には「金蘭居」という酒楼があり、下には「包辧南北酒席」(ご宴会承り)の文字が書かれています。「南北」という言葉から、全国から首都にやってきて、ここで出会うというイメージが感じられます。3
そして「金蘭居」の向かいの茶楼の前では、曲芸師の女性が綱渡りを披露しています。バランスを取る竿を持つところなどは今と同じですね。
そしていよいよ堀を渡れば都市(外城)の城壁です。
この城壁や城門はやはり開封ではなく蘇州の風景に似ているようです。「宋本」に比べてもかなりしっかりした作りです。奥には水門があって、船で城内に入れるようになっています。西洋画の遠近法も使っており、きっちりと描かれています。
外城内に入る
城門を入ると(右側の建物)、軍の詰め所があり、左右に刀や槍を立てかけた看板があります。看板には、「固守城池」(街を守る)、「盤詰奸細」(悪人を尋問し取り締まる)と書かれています。全体的にのんびりした風景の中でも、城門近辺はやはり防犯上や軍事上多少の緊張感を感じさせる場所です。
左側にある店の看板には「本堂発兌川広地道藥材」(四川および広東地方の薬材取扱い店)とあり、店の中では、薬師がお客に挨拶し、そばで徒弟が薬を調合しています。
そして城門前の広場にもいました。猿回し。子供達が猿にちょっかいをだしています。
こちらは人形劇の人だかりです。「木偶戯」というようですが、様々な種類があり、特に宋代から盛んになりました。手前の家からは母と娘が出てきて一緒に見ているようです。貴重な娯楽の一つだったのでしょう。
こちらは「状元府」の場面です。立派な牌坊(鳥居形の門)があって、一番上には「聖旨」とあり、その下には「状元及第」(科挙首席)の額があります。大邸宅であることから見てもこれは皇帝の信任篤い重臣の家なのでしょう。
門の前では、そろって来客をお見送りしています。駕籠で帰る者や馬に乗る者などいろいろのようですが、三名の来客があったようです。豪勢なお宅なので素晴らしいもてなしがあったのでしょう。
その少し先では、官僚同士の挨拶の場面があります。赤い官服を着ている方が身分が高いので、緑色の官服の人はかなり丁寧に挨拶しています。引き連れている従者の人数も違います。「清院本」の場合基本的に明代の装束を描いているので、身分が高い方から「赤」「青」「緑」と官服の色は決まっていました。(宋代は若干の変化はあるが「紫」「赤」「緑」「青」の順)。鞭を持っている従者もいますが、彼らはそれを鳴らして、(形式的にですが)露払いの役目を果たしました。それでもなんとなく、のんびりしていますね。(清代になると「出行」の際には銅鑼を鳴らしたりしていたようです)。
挨拶し合っている二人のすぐ後ろを、20頭立ての荷馬車が通ります。これも先導役がついており、巨石を運んでいます。これだけの規模のものであれば、皇室用の荷なのかもしれません。「清明上河図」のオリジナル(宋本)が宋代であることを考えると、徽宗が運搬させた「太湖石」を思い出します。
今回も長くなりましたので、このあたりで。次回、「その3」で終わりにしたいと思います。お読みいただきありがとうございました。
※「清院本」は台湾の「國立故宮博物院」の所蔵です。全ての画像は基本的にCC0の範囲の画素で使用していますが、一部画像の画素数がCC BY 4.0の可能性があるため、念のため記載いたします。