今年の大河ドラマ「光る君へ」では、紫式部(まひろ)と藤原道長の関係を中心に描かれるようです。ただ、私はかねてより紫式部と藤原実資の「ペア」に興味があるのです。以下は簡単な雑感です。
藤原実資は、道長より10才ほど年上で、90才の長寿で大往生しています。有名な「小右記」の作者ですが、長寿であるゆえに21才から84才以降?までという膨大な量の日記を残しました。これは大変貴重な記録といえます。
私は、この実資と紫式部のペアでドラマを作ってほしかったぐらいなのです。(需要はないでしょうけれど)。
紫式部が書いたこと(「紫式部日記」より)
紫式部日記「五十日の祝い」に関する所(1008年)で、こんなことを書いています。
右大将(実資)にちょっとした言葉なども話しかけて見たところ、ひどく当世風に気取っている人よりも、右大将は一段とご立派でいらっしゃるようであった。祝杯の順が回ってきて即興の賀歌を詠進するのを、右大将は恐れておられたけれど、例のいい古された千年万代のお祝い歌ですませた。
紫式部日記。現代語訳は倉本一宏 「紫式部と平安時代ーその第三の人生」YouTubeより。
この場面は敦成親王の誕生から50日目の祝宴の場面で、公卿たちが乱痴気騒ぎをしている場面の記録です。その中で、紫式部は藤原実資(右大将)が、他の人達と違って凄く立派だと感想を述べています。
また注目すべきは、この場面で紫式部は自分から実資に声をかけています。女性であり、どちらかと言えば内向的と思える彼女が自分からちょっと話しかけてみたというのは、かなり珍しいことだと思われます。
藤原実資が書いたこと(「小右記」より)
では、藤原実資の方ではどうなのでしょうか。
長和2年(1013年)5月25日の部分にこうあります。
去ぬる夕、女房に相逢ふ<越後守為時の女。此の女を以て、前々、雑事を啓せしむるのみ。>。彼の女、云はく、『東宮の御悩、重きに非ずと雖も、猶ほ未だ尋常に御さざる内、熱気、未だ散じ給はず。亦、左府、聊か患ふ気有り』と
「小右記」摂関期古記録データベースより
ここには、紫式部が「越後守為時の女」として登場します。<>は原文では割注のようで、面会した女房が紫式部であり、常々情報交換していたということが書かれています。ここでは、東宮の健康状態を問い合わせていたのですが、紫式部の方は聞かれてもいない道長の健康状態まで報告しています。
倉本一宏氏の『紫式部と藤原道長』に「紫式部と実資の信頼関係」という見出しがあり(p232)、「小右記」に出てくる「女房」の多くが、紫式部であろうことを検証しています。そう考えると、二人の関係はかなり継続しており、紫式部も重要な役割を果たしていたことが分かります。(倉本氏は紫式部の早期の死亡説は採らない)。
紫式部と藤原実資の関係は・・
倉本氏が「よっぽど仲がいい」と仰っていましたが、私も同感です。二人はまったく立場が違いますが、「なにがしか」の思いがお互いにあったのでしょうか。おそらく、お互いの「センス」というか、フィーリングが合ったということは確かでしょう。
もちろん、お互いの政治的ニーズがあってのことだとは思います。しかしそれでも、紫式部日記の書き方を見ると、公卿側も「女房」との関係性を大事にしている様子がわかります。例えば、公卿達には「昵懇のお気に入りの女房(心よせの人)がいる」と彼女自身書いていますし、彼らは「お目当ての女房がいないときはつまらなそうに立ち去って行く」1とも書いています。このような書き方からすると、実資との関係も、やはり事務的な関係以上の「仲の良さ」を感じます。(もちろん、それ以上の事はないのでしょうけれども)。
今回の大河では、道長と紫式部の関係が中心ですが、藤原実資(秋山竜次さん)との関係はどのように描かれるのか楽しみです。
▼ちなみに、こちらもお勧め。(kindle Unlimitedで読み放題)。旧版は「私が源氏物語を書いたわけ 紫式部ひとり語り」2011。一部改修しての再版。ただの物語ではなく、研究者による学問的な「ノンフィクション」。「私は」という一人称で書かれた独白の形を取る面白い作品です。大河ドラマの「紫式部」「藤原道長」ペアについても、著者の解釈を楽しめます。
▼倉田氏による実資の「小右記」の現代語訳。この巻には、紫式部との関係が語られる。
- 倉本一宏「紫式部と藤原道長」(講談社)p232 ↩︎