今回も天邪鬼なドラマの感想を書き連ねて参ります。視聴率はかなり厳しいようですが、私は今のところしっかり観ております。あくまで本ブログのスタイルは「批判的考察」を旨としているので、楽しんでご覧になっている方にとっては、ご不快な内容かもしれません。同時にこれはあくまで私の勝手な感想でありますことをお断りしておきます。
第7話「おかしきことこそ」感想
さて、ドラマとしては(実は)結構楽しんでいる私です。しかしやはり違和感を感じる場面も多いので、率直に感想を書きたいと思います。
「まひろ」の価値観
最も違和感を感じるのは、「まひろ」の価値観です。これが紫式部を主人公にしたパロディーやファンタジーなら別にいいのです。ただ、これは大河ドラマであり、歴史的人物の生涯を扱う作品なので、少なくともその時代性は表現してほしいのです。エピソードにフィクションが多いこと自体は何も問題ありません。映像化とはそういうものでしょう。しかし、彼女そのものがフィクションになってしまっていないか、考えてほしいなと思います。
少なくとも彼女は現代人ではなく、平安時代に実在した人です。にも関わらず、彼女の価値観はどこまでも現代の価値観であり、現代的なジェンダー感覚です。現代人が観るドラマですから、あまりに乖離していても問題でしょうけれども、もう少しこの時代の女性の価値観を表現してみてほしいのです。
もちろん、普遍的な感情とか、今と変わらない部分もたくさんあるゆえに、彼女の著作は今でも読み継がれて共感を得ているわけですが、私は天邪鬼なので「違う部分」や「今では批判される価値観」にどうしても注目してみたくなります。
そうはいっても、今後「まひろ」がどんな女性に成長するのかは楽しみです。紫式部の人となりについては、山本淳子氏が「紫式部ひとり語り」の中で、自身について言わせた言葉が非常に的を射ている気がします。(ただこれは夫と死別後の彼女ですが)。「勝ち気なのに内気で自意識ばかり強い私は、もとより決して女房には向いていない」。ドラマの「まひろ」はまだ若く結婚前なので、このような自己分析には至らない時期なのでしょうけれども、内省的でありつつも芯が強い「まひろ」を期待したいと思います。まだドラマが始まったばかりですから、今後の展開を楽しみにしたいとは思います。
「まひろ」が道長たちの話を聞いてしまう場面
源氏物語はあまり詳しくありませんが、今回の場面はもしかすると「雨夜の品定め」(帚木)を意識している場面なのでしょうか。
【雨夜の品定め】
広辞苑
源氏物語の帚木(ははきぎ)の巻の中で、夏の雨夜に、光源氏の所で頭中将(とうのちゅうじょう)たちがさまざまな女性の品評をする段。雨夜の物語。
「源氏物語」の方は夜の宿直の場面ですから、意識した場面ではないのかもしれません。ただ、ドラマの方はあまりに風情がない描写でした。室内セットでは限界はあるでしょうけれども、せっかくの雨もただ諸肌脱ぎを見せたいだけの(品のない)シーンでした。女性についての言い方も、源氏物語とは比較にならないものでした。(源氏物語もかなりきわどいけれども)。
しかもそれを「まひろ」が影で偶然聞いているというのもなんとも不自然ですし、それで手紙を燃やしてしまう展開もどうなのでしょうか。道長がなにも答えなかったことがショックだったとすれば、あまりに現代的な発想だと思います。
脚本の大石さんは実績ある方ですから、こういった私の勝手な不満や違和感はあくまで方向性や制作サイドの問題なのかもしれません。同じ大石さん脚本でも「功名が辻」は結構好きでしたので。そういえば、大石さんは以前の週刊朝日の取材で今回は「山本五十六」がやりたかったが、NHKには聞いてもらえなかったという笑い話?を述べていました。私はむしろ彼女の「山本五十六」が観てみたかったです。そう考えると、今回の紫式部の話を男性脚本家でというのも逆に面白かったのではとも思います。
うるさいことを書きましたが、今作の「まひろ」と道長が非常に生き生きと描かれており、魅力的であることは確かです。
あと、ファーストサマーウイカさんの清少納言は特徴をよく表している気がして、意外といいのではと思い始めています・・。果たして今後はいかに。
▼ちなみに、藤原家だらけのドラマのための系図を作っております。権利関係で俳優の写真などは載せられませんが、ご参考までに。
屏風について
今週更新された大河特集ページでは「屏風」についての解説がありました。
兼家の家にあった、和歌が貼られた屏風について、和歌考証の高野晴代氏が語っておられます。確かに素晴らしく風情のある屏風が再現されていました。この時代の実物は現存しないようなので、このような道具類の再現は大変貴重なものだと思います。
著作権をクリアできそうな画像がなかったので、下記NHKのリンクでご覧下さい。
ただ、屏風と言えば、「中国」のサイトでも話題になっていた初回の時代考証問題を思い出します。著作権の関係で一部のみの画像(キャプション)にしましたが、これは明らかに清代の官僚です。平安時代は唐~宋なので、数百年の違いがあります。男性の辮髪や官服、女性の髪型を考えれば明らかにわかるわけですが、どうしたことでしょうか。
このあたりの考証はしっかりしていただきたいです。
打毬(撃毬)について
今回の打毬のシーンは、俳優の皆さんが上手に馬を乗りこなしておられて、すごいものだと思いました。ただ、俳優さんたちの奮闘に対して、映像がどうも郊外の運動会のようにしか見えませんでした。「観覧者席」も、運動会の保護者席のような感じ。なぜだろうかといろいろ考えたのですが、仮設の建物はしょうがないとして、やはり背景になにか時代的なものが映り込むと一気に時代感が増すのではと(素人考えですが)思いました。近年の海外の歴史ドラマでは、非常に精巧なCG合成などが為されているものもあり、画面の歴史的な雰囲気作りにこだわっているものも多いので、大河でももう少し頑張ってほしかったです。
さて、その打毬ですが、以前の日経新聞にこんな記事がありました。
奈良市の平城宮跡で約35年前に出土した木球が、西洋の馬術競技ポロに似た日本古来の遊戯「打毬(だきゅう)」に使われた可能性があることが30日、分かった。奈良文化財研究所が成果を紀要に掲載した。分析した小田裕樹主任研究員は「当時の貴族に流行した遊びを復元する貴重な資料になる」と話した。・・・打毬は競技者が2組に分かれステッキで球を打ち、ゴールに入れる。馬上か徒歩で行い、点数を競う。奈良、平安時代には端午の節会に行う宮中の年中行事だった。万葉集には奈良時代の727年に、皇族や貴族の子弟がこぞって春日野に出かけ打毬に興じ、平城宮の警備が手薄となり外出禁止の処分が下されたとの記述がある。
日本経済新聞WEB版 2022年7月31日 「平城宮跡から木球出土 打毬楽しむ?貴族に流行」より
この競技は中東から中国を介して伝わったとされますが、諸説あるようです。ただ、このような競技が流行してゆく背景には、馬具の進歩があります。
中国において、鞍は既に漢代から図像などに確認され、鐙は西晋(302年)のものとされる長沙の墓から見つかった俑で確認できるものが最初の例とされます。ただし、この俑は、右側に鐙がないので、おそらく騎乗の際に引っかけて乗るための道具であったようです。続く東晋の時代には左右両側に鐙をそなえる俑が出土しています。実物は北燕時代(400年代)の墓から発見されています。ただ、魏晋南北朝時代の士大夫層では騎馬より牛車に乗ることが一般的になったようです。その後隋唐の統一時代になると、北方騎馬民族の習慣を引き継いで騎馬が非常に盛んになります。(中国における鐙の一般化は唐代という研究もある1)。鐙がない時代は、いわば乗馬のプロフェッショナルでないと騎兵にはなれませんでした。(馬の胴を足で挟んでバランスを取って騎射、戦闘するため)。しかし鐙の発明は、多くの兵士が騎馬兵になる道を開き、戦闘の形態も変化してゆきます。そして打毬も鐙あってこその競技でした。
さらに、打毬の流行の背景には騎馬兵の装備の変化が関係しているとも言われます。南北朝期には鐙を含めた馬具が進歩し、騎馬兵の重装化が進みます。しかし、重装化の欠点は機動性が落ちることです。その結果、隋の重装騎兵を唐の軽騎兵が破ったことに象徴されるように、騎兵の重装化の時代は終わりを告げます。このような交代期が唐代であることを考えると、打毬(撃毬)が唐代に盛んになった理由もよく理解できます。軍事訓練でも活発に行われた打毬は、軽装備であって初めて可能になるからです。
これが奈良時代ごろまでに日本へ伝来したようです。
平安期の打毬についての面白い論文がありました。同志社大学名誉教授の本間洋一氏によるものですが、一部だけ引用いたします。
弘仁十三年(八二二)正月、豊楽殿御前で行われた渤海使節による打毬実演とその楽舞は最も印象的な一徴拠に挙げられるべきであろうか。異国の物珍しい演技に嵯峨天皇は瞠目すべき感興を禁じえなかったようである。
本間洋一「漢詩とその背景――北東アジア史の一齣から」2007(太字下線筆者)
早春観打毬〈使渤海客奏此楽〉嵯峨天皇
芳春烟景早朝晴 (芳春の烟景 早朝晴る)
使客乗興出前庭 (使客興に乗じて 前庭に出づ)
廻杖飛空疑初月 (廻杖空に飛びて 初月かと疑ひ)
奔毬転地似流星 (奔毬地に転びて 流星の似し)
左擬右承当門競 (左擬右承す 当門の競)
分行群踏虬雷声 (分行群踏す 虬雷の声)
大呼伐鼓催籌急 (大いに呼びて鼓を伐ち 籌を催すこと急なるも)
観者猶嫌都易成 (観る者は猶し嫌ふ 都て成り易きことを)
(『経国集』巻十一)
これは嵯峨天皇の時期ですから、紫式部の生きた時代から200年弱昔のことです。これは第20次の渤海使節の来朝の際の御製で、この際は大使王文矩自ら参加して打毬が披露されたようです。本間氏は「この(嵯峨天皇の漢詩の)スピード感溢れるプレーの描写と共に歓声のどよめきが聞こえ来るかと思われる臨場感は」唐の名詩にも劣らない、と評しています。この漢詩で嵯峨天皇は、空を舞う打毬のスティックを三日月にたとえ、転がって飛ぶ毬を流星にたとえて生き生きと表現しています。きっと大変感動したのでしょう。
このようにして伝来したいろいろなものが日本で受容され、文化になってゆくのですね。
まとめ
ドラマの感想から、いろいろ脱線してしまいましたが、今回もいろいろ勉強になる回でした。引き続き、批判すべきは批判しつつ楽しんで行きたいと思います。
- 福本雅一「中国における撃毬と撃毬図屏風について」1999 ↩︎