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上代から平安期の濁音の話

日本史

2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、「まひろ」こと紫式部が文字を書く場面がたくさん出てきました。演じる吉高さんも大変な努力をされて、ご本人が書いているシーンもありました。(お上手でした)。

あたりまえですが、当時は濁点がありませんでしたなぜ書き分けなかったか(書く必要が無かったか)という問題は、言語学(日本語学)が不得手な私には荷が重いのでここではふれません。この書き分け問題については、1970年の亀井孝氏の論文「かなはなぜ濁音専用の字体をもたなかったか―をめぐってかたる」があり、現在でも基本的に支持されていますので、リンクを張っておきます。(リンク切れの際はご容赦)。

今回は、近年の考古学的な発見(木簡)から分かってきたことを「濁音」関係に絞ってまとめてみました。あくまで、私の学習結果のメモと思ってお付き合いください。(お詳しい方には初歩的な内容で恐縮です・・)。

「万葉仮名」とは

話は、「上代」(飛鳥・奈良)まで遡ります。記紀や万葉集の時代までには漢文だけではなくて「万葉仮名」が使われるようになっていました。濁点についての話はここからスタートしたいと思います。

ちなみに、この「万葉仮名」という言葉は、辞書ではこう定義されています。

漢字を、本来の意味を離れ仮名のように用いた文字。借音・借訓・戯訓などの種類がある。6世紀頃から大刀銘・鏡銘に固有名詞表記として見え、奈良時代には国語の表記に広く用いられ、特に万葉集に多く用いられたのでこの称がある。真仮名(まがな)。男仮名(おとこがな)。

大辞林「万葉仮名」

勘違いしやすいのは、「万葉集で使われているから万葉仮名」というわけではないということです。あくまで「万葉集に代表されるような、漢字をつかった仮名」ということです。ただ、「かな」はその文字自体には意味が無いゆえに「仮名」であるなわけなので、「万葉仮名」が(意味を持つ)漢字であることを考えると、完全に(現代的な意味での)「仮名」の定義には当てはまりません

当時の人達は「日本語(倭語)」を表記するために、外来の漢字を「仮名として」使いこなすに至った、ということです。漢字に意味が存在することを逆に利用するケースや、むしろ意味を意識させない(音に集中できる)ようにするケースなど、色々な方向性も生まれるようになります。

過渡期とも言える平安時代の、漢文と仮名の関係をよく表す例がありました。思い出したのは、『源氏物語』の「若菜」で、「明石の君」が出家した父に(仮名の)手紙を送った場面です。父親は返事の中でこう書いていました。

仮字文かなぶみ見たまふるは目のいとまいりて、念仏も懈怠するやうにやくなうてなむ、御消息も奉らぬを。つてに承れば、若君は春宮に参りたまひて、・・・

『源氏物語』「若菜(上)」

つまり、父入道からすると娘から来る平仮名の手紙はむしろ読みにくかったということのようです。(もちろん、「読みにくくて修行に障りがある」というのは娘への遠慮や気遣いかもしれませんが)。この部分については大隅和雄氏の解説があったので、現代語訳と共に引用しておきます。

〈仮名の手紙を拝見するのは、時間がかかって、そのために念仏も怠るようになるので、御消息もさし上げませんよ〉 

と記したとある。女性の手紙は仮名文字で綴られているので、読むのに時間がかかり、念仏の行の妨げになるという。漢字で書かれていれば、一見すれば何が書かれているかわかるが、当時は仮名文字だけの文章には句読点も濁点もなく、音便の表記もまちまちだったので、日々仏典に接している入道にとっては、仮名文を読むのは大変だったに違いない。

大隅和雄「シリーズ〈本と日本史〉③中世の声と文字親鸞の手紙と『平家物語』」

漢文を読める知識人からすると、漢文は意味を手早く表現してくれるものであり「よみやすい」文だったのかもしれません。しかし、漢文になじみがない人たちにしてみると仮名こそが親しみやすかったのでしょう。

ここに、意味を表す漢字と、仮名の違いがよく表されています。話し言葉(音)をそのまま表現する手段があればいいけれども、「万葉仮名」はかなり専門的で漢字にも意味があることが別の意味で障害になっていました。結果的に生み出されたのが「仮名」ということになります。

考古学的発見からわかってきたこと

上古(文字史料が存在する大化の改新ごろまで)の時代から(発音の違いなどはあるが)会話において濁音があったことは、「万葉仮名」で書き分けているケースがあることからわかります。ただ、前述の通りその後平安期に「平仮名・片仮名」が成立して以降~明治あたりまでは基本的にかき分けない時代になります。(濁点という「表記システム」自体は室町あたりから普及したようですが、限られた使用法でした)。

したがって、以前は学校でも「万葉仮名」から所謂「仮名」に変化していったと単純に教えられた気がします。つまり・・・

・・・というイメージ。

しかし、最近は大分変わってきているようです。論文検索してみますと以下のような記事が見つかりました。

最近では上代の木簡史料の研究が進み、万葉仮名表記でも、木簡などでは清濁をかき分けない方が普通であったことが知られるようになって(犬飼1992)(2005)(2008)、ひらがなやカタカナのシステムは新たな文字体系の成立とともに始まったのではなく、それ以前からあったものを受け継いだにすぎないということがわかってきたが・・

屋名池誠「仮名はなぜ清濁をかき分けなかったか」2011(太字下線筆者)

上代の万葉仮名が静音仮名と濁音仮名を使い分けていたのに対し、平安時代に入って、平仮名・片仮名はその書き分けを放棄したと、かつては捉えられることもあった。しかしその後、一次資料として、多数の木簡が発掘されたことにより、むしろ実用の世界に於いては清濁をかき分けないのが一般的であり、万葉集・古事記・日本書紀のような文芸・史書における万葉仮名の様相の方が、特別なのであったと考えられるようになっている(犬飼1992・2005)。

肥爪 周二「 平安時代の仮名表記, 言語研究」2023(太字下線筆者)

木簡が語ること

この木簡の発見と、上古以来の日本語については、上記引用でも参照されている犬飼隆氏の本が一番参考になるかと思います。私が持っているのは旧版ですが、2011年増補版が出ているようです。

前掲2つの引用と内容は重なりますが、以下に万葉仮名における清濁の書き分けについて犬飼氏の本から引用してみます。

たとえば、八世紀末にある天才が日本語の清濁を書きわけないと決め、皆がそれに従ったというようなことは考えられない。仮名が濁音専用の文字をもたないのは当時の一般の音韻認識の行き着いたところである。記紀万葉の類いに依拠してものを考えていたときは、万葉仮名に濁音専用の字体があり平仮名・片仮名にはないことが歴史の流れの上で不連続と感じられたが、今、多くの木簡上の万葉仮名列を見れば七、八世紀には濁音をいちいちに表示しないのが普通であったと誰でもわかる。

犬飼隆「木簡による日本語書記史」p14(太字下線筆者)

たとえば、古事記では音節トは漢字「登」、音節ドは漢字「杼」。タは「多」、ダは「陀」と表記されます。これは日本書紀も万葉集も同じように使い分けがあります。しかし、発見された木簡(日常文書)では、音節ト、ドはどちらも共通して「止」あるいは「等」で書かれます。「登」はまったく使用されません。つまり、漢字「登」は公的、文学的に使うもので、「止」は日常の、口語的な使い方となっているとのことです。1

このようなわけで、7世紀には「万葉仮名」(仮名書き)は既にかなり普及していたことが考古学上わかってきました。つまり、記紀や万葉集は例外的な(犬飼氏曰く「洗練された」)ものだったと言えそうです。その結果、犬飼氏は、「仮名」と「記紀万葉の類とは不連続である」とし2「仮名は木簡で日本語の発音を表記するために使われた漢字の子孫である」3と結論しています。このあたりの、「過程」についてはまだまだ議論があるところだとは思いますが、近年の考古学的発見は従来の考えを大幅に塗り替えつつあるようです。

■発音:古来から濁音は存在
■表記:万葉集以前から一般には濁音を書き分けなくなった

  1.木簡の仮名:漢字を利用した古い時代の仮名(濁点なし)
    ↓  (この間例外的に、『記紀』・『万葉集』等高級な書物で書き分け)
  2.平安以降の仮名(濁点なし)

写本された典籍と考古学的な発見

いずれにしても『古事記』『万葉集』『日本書紀』は非常に貴重な史料ではありますが、原本が存在せず写本されてきたという経緯を考えると(日本書紀は平安、万葉集や古事記は鎌倉室町以降の写本)、そこには様々な問題が存在します。ごく初期に「読み方」の問題すら発生していました。

平仮名、片仮名が普及すると、ヤマト言葉を漢字のみで記した『万葉集』は、きわめて難しいものになって、平安時代の文人たちも、そのほとんどが読めなくなっていたのである(源順『源順集』詞書、天暦五年[951])

上野誠「万葉集講義―最古の歌集の素顔」2020

上記で参照資料となっている『源順集』には、「天暦五年宣旨ありて、はじめてやまとうたえらぶところなしつぼにおかせ給ひて、古萬葉集よみときえらばしめ給ふなり」とあり、村上天皇の勅命によって万葉集の訓読作業が開始されたことがわかります。万葉集最後の歌は天平宝字3年(759年)の大伴家持のものとされますから、既に200年経った源順みなもと の したごうのころには、大規模な訓読作業をしないと読めなくなっていたのです。

写本(文字)で伝わっている史料典籍類は、その性質上いろいろな課題や問題が存在します。(それを研究するのが古来学者たちのやりがいでもあったわけですが)。一方で、発見される考古学的な史料は、その当時の状況を直接知るための助けになります。もちろん、考古学にも課題はたくさんあり、出土状況の裏付けや、「どう解釈するか」という問題は常に存在します。結局、どちらが優れているかという問題ではなく、互いに補いあう学問ですから、今後の様々な発見にも注目したいと思います。

以上、いずれもお詳しい方には初歩的なことかもしれませんが、私的な勉強の(雑然とした)まとめとして記録します。お読みいただき、ありがとうございました


  1. 犬飼隆「木簡は古代日本語について私たちに何を語るか」 2013 ↩︎
  2. 犬飼隆「木簡による日本語書記史」2005(旧版)p142 ↩︎
  3. 犬飼隆「木簡は古代日本語について私たちに何を語るか」 2013 ↩︎