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大河ドラマ「光る君へ」第24話感想

光る君へ

毎度「天邪鬼」な大河ドラマレビューを書いております。批判的な分析を主旨としておりますため、世間一般の論調とはかなり乖離しているかと思います。そのため、ご不快に思われる方もおられるかもしれません。前もってお詫びいたします。(以下ネタバレも含みます)。素人の自由研究レベルでありますので、誤りがありましたらご容赦ください。

第24話「忘れえぬ人」感想

一条天皇と道長ら公卿との間での不協和音が少しずつ出始めているようです。出家した者が再び「後宮」へとなると、唐の武則天の例も思い出されたでしょう。(ただ武則天は太宗崩御で強制的に出家させられたわけですが)。

また、藤原隆家が戻ってきました。お調子者キャラで描かれていますが、かなり優秀な人でもあったようです。「切り換えがはやい」というのは人生でも重要なことではありますね。今後の活躍に期待です。

内容としては、前回から今回は「中だるみ」という印象でした。文化的な情緒も少なく、ただ色々なものごとが発生するだけという感じ。今回「まひろ」は周明と別れるわけですが、そのあたりもかなり唐突というか、心情描写が欠落していました。

最近NHKの特集サイトの脚本家大石さんの解説を読んだのですが、このドラマは脚本家以上に演出の采配が大きいように見受けられました。(大石さんは良い意味で語っておられましたが)。なので、やはり脚本だけを責めたり褒めたりもできないなと思う今日この頃。ここ数回の「中だるみ」もやはり演出にあるのかなと思いました。(あくまで私の勝手な感想です)。

「さわ」さんの死をもっと深く扱ってほしかった!

親友の死も描かれました。このあたりをほとんどスルーしたのは残念です。おそらく紫式部の作品に出てくる幼なじみで「姉君」とも慕った女性がモデルなのでしょう。この女性との友情は『紫式部集』でも言及されており、彼女との死別は紫式部の人生にも一定の影響を与えたものと思われます。

この別れを歌ったとも言われる『紫式部集』冒頭の歌がありますが、ドラマでも使ってほしかったなと思いました。

めぐりあひて見しやそれともわかぬまに くもがくれにし夜はの月かげ

『紫式部集』実践女子大学本。   ※陽明文庫本では「月かな」

百人一首でも有名なこの歌ですが、解釈はいろいろあるようです。山本淳子氏の現代語訳を引用します。

めぐり会って御顔を見た、それがあなたなのかどうかもわからない間に、本当に短い出会いと別れで、あなたは私の前から姿を消してしまった。それはまるで、雲に隠れる月のように。

山本淳子「『紫式部集』 冒頭歌の示すもの」2010(「『紫式部集』研究の現在」)より

この冒頭歌については様々な解釈があり、厳密にいつ詠まれた作品なのかもわかりません。場面としては、年若いころの友との離別(この時点では転居)だということは詞書きからわかるわけですが、『紫式部集』編纂時にその頃の感情を振り返って詠んだものなのか、若い頃に詠んだものなのかははっきりしません。ただ、「雲隠れ」という言葉が「死」を連想させて若干不吉であることを考えれば、単に「遠くに転居した」友人本人に贈る贈答歌とも思えないので、『紫式部集』編纂時に、若かりし頃の作品を改作の上掲載したか、当時の感慨を振り返って新しく詠んだかであろうとする研究者もいます。1

このように若干背景が複雑なのでドラマでは採用しなかったのかもしれませんが、今回の話では既に訃報が届いているところなので、このタイミングでこの歌を詠むのもありだったかなと思いました。いずれにしても、もう少し時間をかけてほしかったという感想です。

周明のひな形はあるのだろうか~周文裔・周良史父子

周明はオリジナルのキャラですが、日宋間の交流の中で彼のような人は実在したかもしれません。今回は、彼の姓が周ということで(キャラはかぶりませんが)、同じ周姓の商人周文裔・周良史父子の活動を少しまとめて見ました。

彼らの活動時期は道長晩年なので、今回の朱仁聡よりも少し後になります。周文裔の妻は日本人で、二人の間に生まれたのが周良史でした。(この点は以下で言及するように、諸説あり)。

周文裔は、若い頃から日宋交易に関係していたようです。2 その結果として日本人妻を娶り周良史が生まれたというのが通説のようです。1026年に道長の息子藤原頼通に名籍(名簿)や献上品とともに爵位(栄爵)を申請します。爵位の授与はされませんでしたが、褒美を下賜されています。当時の日本側の記録には以下のようなものがあります。

藤原実資の『小右記』:

中将、云はく、「宋人良史、解纜に及ばんと欲す。而して名籍を関白に献じ<民部卿、伝へ献ずる所。>、栄爵を懇望す。贖労の桑絲三百疋。若し朝納無くんば、本朝に帰り、戊辰の年の明後年に帰り参り、錦・綾・香薬等の類を献ずべし。件の良史の母、本朝の人なり

『小右記』万寿三年(1026年)六月二十六日条(日文研「摂関期古記録データベース」より)

源経頼の『左経記』:

商客周良史、上状の文のごとし。是れ大宋の人、母、則ち当朝の女なり。或いは父に従ひて往復す。随陽の鳥に似ると雖も、或いは母を思ひて稽詣す。懐土の人と謂ふべし。今、其の籍を通ず。志の至るを知り、沙金三十両を附し、便りに信還せん。軽尠を顧ると雖も、古人、駿骨を弔ふ意なり。

『左経記』七月十七日条(日文研「摂関期古記録データベース」より)

この時期の彼の動向については、中国側の資料「勅封魏国夫人施氏節行碑」からも分かります。これは周良史の妻施氏とその息子の栄達を顕彰したものです。南宋の慶元二年(1196年)に、同郷の王藻が作成した碑文で、碑自体が残っているわけではなく、後の時代(明代)に編纂された『崇禎寧海県志』に内容が残されています。

そこには日本人との血のつながりは触れられませんが、こんな記録が冒頭にあります。

時府君雖不事官学、而以能文称、居郷慷慨、有器度、喜給。人頗推長老、故施氏以帰之。周之先、嘗総大舶、出海上。府君至孝、不肯離其家、納人之明年、侍其父適日本国。去三月(浙本作「二月」)而生少師。後七年而府君哀訃至、少師生、府君既不及見。而人年二十有二、居家益貧、・・・

【訳】
当時、周良史は仕官のための学問をしなかったが、文章が上手だと称賛さた。地元では豪快で、器も大きく、人に恵むことを喜びとしていた。人々は長老に周良史を推薦し、よって施氏は周良史の妻となった。周良史の親は、かつて船舶を率いて海上に出ていたが、周良史は至って親思いで、その家族と離れることを良しとせず、施氏を妻に迎えた翌年に、父に従って日本国へと行ってしまった。その三ヵ月後に周弁が生まれた。七年後、周良史の訃報が伝えられ、周弁は生れてより父の顔を見ることができなかった。そして施氏は二十二歳で寡婦となり、家は益々貧乏となった。・・・

「勅封魏国夫人施氏節行碑」(山崎覚士「海商とその妻十一世紀中国の沿海地域と東アジア海域交易」の現代語訳より引用)。

彼は身重の妻を残して父と共に1021年に日本へ旅立ちます。そして7年後(1028年)には訃報が中国(宋)に届いています。(これはあくまで情報が伝わった年)。息子に対面することなく、若くして亡くなったことになります。(妻も22才で寡婦になった)。碑文の内容は、貧乏になった家を支えながら息子に教育を施した施氏の徳を称揚し、科挙に及第して官僚となって栄達を遂げた息子周弁を称えています。

ここまでの日本側と中国側の記録を突き合わせてみると、1026年には叙爵を求めていたわけですから、この時点で日本への定住(永住?)を考えていたことになります。その後1028年には父と共に再び対馬に来航しています。(『小右記』万寿五年七月九日条、長元元年十月十日条)。中国側の碑文には「父の顔を見ることができなかった」とあるので、中国と日本の間を行き来していたとはいえ、故郷には戻っていなかったということなのでしょう。

そして、この年に訃報が中国へ届けられることになります。この来航で遭難したのでしょうか。そうではないようです。実は日本側の記録にはその後も生存が確認できます。1034年には東宮(太子)と京都で面会している記録がありますので、宋側に訃報が伝わった時期と齟齬があります。誤報だったのか、碑文の誤りなのか、日本定住を決めた結果の意図的な虚報なのか、今となってはわかりません。いずれにしても、彼は日本に住み摂関家や皇族などともつながりがあったことがわかります。

それから、前述の通り周良史に日本人の血が流れているという従来の学説については別の学説もあります。今回参考資料にさせていただいた山崎覚士氏の論文では、前掲の「勅封魏国夫人施氏節行碑」の記述から、周良史は幼少期を(日本ではなく)中国の寧海県で過ごしていたことがわかるため疑問点も多いとしています。3 母が「現地妻」のような存在で、子ども(周良史)は直ぐに中国側に戻されたのか、あるいは日本との通商をうまく運ぶための周良史の詐称だったのかなど想像は尽きません。(実際彼は寧海周氏であったのに、名族である汝南周氏を騙っている)。あるいは、中国の儒教や華夷思想の影響から、そもそも碑文が「不名誉」と考えた事実に触れていないのかもしれません。確実なのは、日本側はそのように信じて記録したということです。

中国の『寧波日報』の2023年02月14日の記事では、寧波大学外国語学院の先生が詳細な記事を書いていて、結論としては「わからない」としています。4 

今後の研究や資料の発見を待つことにはなるのでしょう。ちなみに日本外交史の研究者森公章氏は、関連して次のような仮説(ご本人曰く「憶説」)を提示しています。これは、同時期に志賀神社(現福岡)の社司が日宋間の交易に関与していた記録があることからの興味深い仮説です。

志賀社は筑前国糟屋郡に所在する延喜式内社志加海神社で、古くから海上交通・交易に従事する人々の信仰を集めており(『万葉集』巻七1230など)、志賀社司が海外交易に携わっていた可能性は既に指摘されているが、ここではさらに志賀社司が渡海した理由として、周文裔の日本人妻、つまり周良史の母方の一族であった蓋然性を憶説として呈示してみたい(章仁昶の母も日本人)。後代の事例では宗像大宮司家には宋人の博多綱首と婚姻関係を結んだ人物が知られ(『訂正宗像大宮司系譜』)、周文裔・周良史父子はこうした北部九州の在地勢力と宋商人との密接なつながりを知ることができる先駆的事例としても注目すべき存在である。

森公章「平安中・後期の対外関係と対外政策―『遣唐使』以後を考える―」

これはなかなか面白い説だと思いました。日宋交易の背景には、ドラマの周明のように多様なパーソナリティを持つ人たちが大勢いたのでしょう。

まとめ

ここ数回のドラマではあまり歴史的に興味深い描写がなく、若干消化不良だったため、ちょっと無理矢理ではありますが、題材を探してまとめてみました。歴史の中にささやかに残った記録の断片をつなぎ合わせてみるのは面白いものですね。


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  1. 山本淳子ほか「『紫式部集』研究の現在」2010 ↩︎
  2. 山崎覚士「海商とその妻十一世紀中国の沿海地域と東アジア海域交易」 ↩︎
  3. 山崎覚士(同上)「現段階では後考を俟つほかない」との結論。 ↩︎
  4. 寧波日報2023年02月14日「大宋海商周良史是中日混血儿吗?」(周良史についての中国側の論調は、ナショナリズムの影響で偏った記事が多いが、この記事の内容は中立的で好印象) ↩︎