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大河ドラマ「光る君へ」第34話感想|「曲水の宴」の話

光る君へ

毎度「天邪鬼」な大河ドラマレビューを書いております。批判的な分析を主旨としておりますため、世間一般の論調とはかなり乖離しているかと思います。そのため、ご不快に思われる方もおられるかもしれません。前もってお詫びいたします。(以下ネタバレも含みます)。素人の自由研究レベルでありますので、誤りがありましたらご容赦ください。

第34話「目覚め」感想

興福寺など各地の勢力に悩む日が続く道長。そんな中で、「まひろ」とのひとときが彼の癒やしになっているのかもしれません。(「まひろ」は癒し系ではないようですが・・)。

今回は、とても素晴らしい回だったと思います。(初めてのディレクターさん?)。中宮彰子の苦悩と父道長との関係、彰子を気遣う「まひろ」、そして繊細な一条天皇と各キャラクターの良さがよく出た回だったと思います。とくに藤式部「まひろ」の役割がいよいよ大きくなってきました。

欲を言えばもう少し「まひろ」の台詞が豊かだと良いとは思いました。もっとも、立場的にはまだ多くを語れない時期でしょうからやむを得ないところではあります。

後述する曲水きょくすいの宴」の場面もよく出来ていました。雨がふってしばし中止という場面の、男達の会話や彰子の心情の変化など、とてもよく描かれていたと思います。

道長はいよいよ金峯山寺きんぷせんじに出発します。道長が留守の間に流布したと言われる、伊周・隆家による道長暗殺計画もドラマに取り入れられているようです。現代とは違ってかなり大変な道中になりそうですが、それはまた次回のお楽しみですね。

曲水の宴と『蘭亭序』

この日の曲水きょくすいの宴」について、『御堂関白記』にはこのように記録されています。

三日、庚子。曲水の会有り。東渡□所板、流の東西に草墪・硯台等を立つ。東対の南の唐廂に上達部・殿上人の座、南の廊下に文人の座。辰時ばかり、大雨、下る。水辺の座を撤す。其の後、風雨烈し。廊下の座に雨入る。仍りて対の内に座を儲くる間、上達部、来られ、座に就く。新中納言・式部大輔両人、詩題を出す。式部大輔、「流れに因りて酒を汎ぶ」を出す。之を用ゐる。申時ばかり、天気、晴る。水辺に座を立つ。土居に下る。羽觴、頻りに流る。唐家の儀を移す。衆、感懐す。夜に入りて、上に昇る。右衛門督・左衛門督・源中納言・新中納言・勘解由長官・左大弁・式部大輔・源三位、殿上・地下の文人二十二人。

『御堂関白記』寛弘四年(1007年) 三月三日条(国際日本文化研究センター「摂関期古記録データベース」の書き下しより)

だいたいドラマ通りの情景です。参加者は右衛門督(藤原斉信)、左衛門督(藤原公任)、源中納言(源俊賢)、新中納言(藤原忠輔)、勘解由長官(藤原有国)、左大弁(藤原行成)、式部大輔(菅原輔正)、源三位(源則忠)ら22人でした。朝の八時ぐらいに雨が降り始めて、結構降ったようです。幸い午後には晴れ、続きを行いました。

中国起源の「唐家の儀[式]」をして一同「感懐す」ともあります。暫くぶり(記録上では50年ぶり)の「曲水の宴」に感慨があったのか、滅びた唐を懐かしんで感傷的になったのでしょうか。道長らの心にはあきらかに王羲之の「蘭亭序」が去来していたでしょう。(後述)。宴は二日間にわたって行われ、翌日はドラマでも出てきた大江匡衡の漢詩が披露されていました。(『江吏部集』載録)。その彼の詩の中でも、「右軍三日会」と王羲之の曲水の宴に言及しています。

曲水の宴は中国に起源がある習慣ですが、古くは漢の上巳(3月3日の節句)に、官民挙げて水辺で身を清めた祓除の習慣が起源のようです。(諸説あり)。魏晋の頃には、水に杯を浮かべる習慣が始まり、単に「厄払い」ではなく「風雅」な趣が加わった風習ともなります。その後、時代によって形を変えてゆき、自然の中だけではなく人工的に作った「水辺」(庭園内)で行う形式にもなってゆきます。

有名な王羲之の「蘭亭序」は東晋の時代ですが、このイメージが後世に深く影響を与えます。そのため、曲水宴は「一觴一詠」(觴=杯)と言われ、詩を作っては流れてくる杯を飲み干すという習慣でも知られるようになります。下の絵巻は宋代のものですが、人々のイメージにある「曲水の宴」をよく表しています。

宋劉松年曲水上絵巻
宋劉松年曲水上絵巻(台北国立故宮博物院蔵)CC1.0

このような習慣は日本にも古くから「輸入」されています。文献上では『日本書紀』の顕宗天皇の条にあるのが最初のようですが、史実性は疑わしいため、持統天皇、文武天皇の記録がもっとも古いとも言われます。日本での「曲水の宴」は日本独特の変化を遂げますが、今回の道長の宴の場合は、明らかに王羲之の「蘭亭序」を意識した、「一觴一詠」の「唐風」の宴だったようです。この際に詠まれた詩では、前述の大江匡衡の漢詩が唯一現存していますが、「羽觴」(雀にかたどった杯。この時は黒漆製とも)を「水に浮かべて」いる様子が描写されています。1

ただ、「一觴一詠」と言っても、曹植の「七歩の才」のように全員が即興で詩(しかも漢詩)が作れたかは疑わしいので、もっとゆったりした宴だったのでしょう。道長もちょっとリラックスできた宴でした。この宴は多くの公卿が参加したとは言え、私的なものでした。一条天皇も伊周も出席していません。この時の道長の気持ちについてこんな解説もありました。

種々煩悩に苦心する道長が、王羲之の蘭亭曲水に最も共感したのは、詩情よりも政治から逸脱した束の間の「放浪形骸」、つまりは精神的解放であったのではなかろうか。以上の推測の根拠として挙げられるのは、道長の記事に記された参加者のなかに伊周の姿がなかったことである。伊周はすぐれた詩人であり、寛弘初年より朝堂への復帰を果たした人物である。天皇主催の花宴にも参列した伊周を、自分の私宴である曲水宴に招かないことは、身内に限る政治から離れた宴にしようとする道長の心情をうかがうことができる。

陳翰希「日中の曲水宴及び草餅に関する比較民俗学的研究」p104 2022(太字筆者)

王羲之の『蘭亭序』について

ついでに脱線しますが、前述の『蘭亭序』についてここで少しまとめておきます。お詳しい方は飛ばしてください。『蘭亭序』は東晋の政治家で書聖とも言われた王羲之の名書。のちに唐の太宗が王羲之の大ファンだったことから、一層評価を高めました。太宗は死後に彼の真蹟を一緒に埋葬するよう指示したと言われますが真偽の程はわかりません。『蘭亭序』についても太宗が所有者を騙して取得したという伝説があるほどです。

中国の有名小説ではフィクションですがこんなものもあります。(原題:「大唐悬疑录:兰亭序密码」。以下の日本語訳あり)

蘭亭序之謎 上 大唐懸疑録シリーズ
行舟文化
「重厚な史実とダイナミックな虚構。玄宗と楊貴妃以後の唐の時代は、日本人にはほとんど知られていないが、ぜひこの作品で知って愉しんでほしい」~作家 田中芳樹

宋代の『江南余載』や『南唐書』『新五代史』などには、唐末~五代の混乱期の話として、軍閥だった叔父に従って太宗の陵墓に侵入(盗掘)した鄭元素という人の証言が載っています。彼は、陵墓内で『蘭亭序』の真筆を見たそうですが、その後散逸したと証言しています。(信憑性は不明)。

現在全ての真蹟は失われているとされますが、優れた模本や臨本が残されています。

『蘭亭序』北京故宮博物院蔵(CC)。

上の写真は唐の馮承素による『蘭亭序』模本です。「神龍本」とも言われますが、その理由は、巻頭「永和」の横に唐武則天から中宗までの年号「神龍」の印が押されているためです。ただ、これが馮承素によるものかという点も議論はあるようです。「模本」というのは、本物の上に紙を置いて忠実にトレースしたものと言われますので、本物とそっくりという意味で「神龍本」は評価されてきました。一方で「褚遂良臨本」というものもあります。こちらは臨写なので、傍らに本物を置いて褚遂良が書いたものと言われます。そのため、文字の形や位置関係がまったく同じでありませんが、その「精神をよく写している」とも言われます。(私のような素人にはわかりませんが・・)。ちなみにこの『蘭亭序』はもともと草稿だったと言われ、訂正部分もあります。(それも含めてコピーされてきた)。

内容は、東晋永和九年の三月三日に、山陰の蘭亭で行われた「曲水の宴」について述べています。

永和九年、歳は癸丑に在り。暮春の初め、会稽山陰の蘭亭に会す。禊事けいじおさむるなり

このように始まる序文ですが、その後に続くのは、人生の悲哀や生死についてです。最後の部分を引用しておきます。

後之視今 亦由今之視昔 悲夫
故列敘時人 錄其所述
雖世殊事異 所以興懐 其致一也
後之攬者 亦将有感扵斯文


【現代語訳】
のちの人々が今を見るのは、今私たちが昔を見るのと同じであろう。悲しいかな
故に宴に会した人々を列挙し、その作品を収録しておく。
世が移れば事は異なるといえども 感慨を起こすゆえんはつまるところ一つであろう。
後にこれを読む者も、ここに掲載した詩に感じるところがあるに違いない。

訳文:『故宮博物院9』NHK出版より

名書であると同時に、王羲之の感慨が深く表れている文章が多くの人を引きつけてきたのでしょう。

私が好きなフレーズは「恵風和暢」(8行目)で、字もまた素晴らしい。「天ほがらかに気清く、恵風和暢わちょうせり」。「令和」の元ネタの一つとも言われる言葉ですね。(「孫引き」ですが・・)。

道長が催した「曲水の宴」の源泉は、この『蘭亭序』にあると言っても良いと思います。ドラマそのものからはちょっと脱線しましたが、文化的な背景をまとめて見ました。

まとめ

今回は、「まひろ」の宮仕えの様子や、『源氏物語』の伝播の様子が描かれました。特に一条天皇と中宮彰子の関係がどうなってゆくのか、次回が楽しみです。


紫式部と藤原道長 (講談社現代新書)
講談社
無官で貧しい学者の娘が、なぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか?後宮で、道長が紫式部に期待したこととは?古記録で読み解く、平安時代のリアル

  1. 陳翰希「日中の曲水宴及び草餅に関する比較民俗学的研究」2022 ↩︎