PR

大河ドラマ「光る君へ」第4話感想

源氏物語絵巻橋姫 光る君へ

毎回、天邪鬼な感想を書いております。そのため、不快に思われる部分があるやもしれませんので前もってお詫びいたします。

第4話「五節の舞姫」の感想

他の方の高評価レビューを観ておりますと、どうも観ている層(というか発言している層)が通常の大河とは違い、(当たり前でしょうけれども)源氏物語のような物語が好きな方達が多い気がします。その意味では、今回のドラマの方向性は良いのかもしれません。ただ、私はどうしても、「歴史」という方向からドラマを見てしまうので、「雅」な論評ができないでおります。

私は、「人はいつの時代も同じ」という普遍性の部分よりも、時代による価値観の違いに注目したくなります「中世の人達はこんな風に考えていたのか」というような点に興味があるため、現代的な価値観寄りで作られたドラマにはどうもなじめないのだと感じます。

ただ、毎回同じ突っ込みを入れても意味がないので、感想はひとまず置いておいて、今回は文化的な描写に注目してみたいと思います。特に、「五節の舞」について調べて見ました

五節の舞は、大嘗祭・新嘗祭の後に天皇が紫宸殿に出御して(時期によって例外あり)行われた「豊明とよあかりの節会」(新嘗会とも)という宴で披露された舞です。ドラマでは、自分の娘を舞姫として差し出したくないので、「まひろ」が代役とされるシーンがありました。ドラマでは、帝の女癖を心配してというような説明がされていましたが、色々な見方があるようです。この時期に女性(娘)を人前にさらすことを忌むようになったということや、大嘗祭の場合以外(通常の新嘗祭)は舞姫に対する叙位がなく、持ち出しが多く役得が少ないということもあったようです。これは、その貴族たちの地位や立場も関係しており、むしろ得だと考える場合もあったでしょう。

五節の舞については、以下のような説明もありました。

五節舞は、容姿の優れた年若い四人の乙女が舞う華やかな行事である。『政事要略』巻二十七「辰日節会事」は、「五節舞者浄御原天皇之所レ制也」として、天武天皇が神女の舞を見たことに由来し、さらに「挙レ袖五変。故謂二之五節一」と神女が袖を五度挙げたことから五節の名が出たと説明している。五節舞は、初期は参入後に常寧殿で調習したと推察されるが、舞姫の実家で行われるようになり、「舞師が一昼夜ほど教習すれば習得できる、簡単な舞であった」らしい。しかし難しくないとはいえ、舞姫は豪華な衣裳を身につけ、物忌の標である日蔭の蔓を挿頭として天皇、群臣を前に舞う。測り知れない緊張があったと思われる。舞姫のほかに童女二人、下人四人などの供人も選ばれた。

茅場康雄「宇治の大君の忌日 ―付『大嘗祭・新嘗祭』と『五節』―」2021

重要な行事における、注目の舞だったようですね。古今和歌集で有名な「天つ風雲の通ひ路吹き閉ぢよ 乙女おとめの姿しばしとどめむ」は、この五節の舞を歌ったものです。 

ドラマのように紫式部自身が舞うことはなかったのでしょうけれども(未確認)、紫式部日記には、寛弘五年(1008年)の新嘗の記録があり、女房として体験した騒動が書かれていてそれもまた面白いです。また、「源氏物語」にも五節の舞や関連した行事の記述があり、物語ではあっても当時の歴史を研究する上では重要な史料のようです。(ただし、「源氏物語」は紫式部の時代より若干前の時代を想定している)。このあたりの分かり易い事情は、以前ご紹介した「紫式部ひとり語り」をご参考になさるようお勧めします。(2024年1月現在Kindle Unlimitedなら読み放題)。

紫式部ひとり語り (角川ソフィア文庫)
KADOKAWA
「この私の人生に、どれだけの華やかさがあったものだろうか。紫の上にちなむ呼び名には、とうてい不似合いとしか言えぬ私なのだ」―。今、紫式部が語りはじめる、『源氏物語』誕生秘話。望んでいなかったはずの女房となった理由、宮中の人付き合いの難しさ、主人中宮彰子への賛嘆、清少納言への批判、道長との関係、そして数々の哀しい別れ。研究の第一人者だからこそ可能となった、新感覚の紫式部譚。年表や系図も充実。

平安時代の髪型の話

ドラマ内で冠の話が出ましたので、関係して髪の話を。

日本では天武天皇の11年(682年)に勅令が出て、古来の「みずら」などを禁止して、男女ともに中国風に髪を結い、髷を作るように命令されたことが知られます。(日本書紀巻29天武紀「自今以後男女悉結髮」)。これは中国に倣った中央集権化を進める政策の一つだったようですが、この時はこれまでの慣習になじまないため、直ぐに撤回されます。(朝廷の装束についてはかなりの変更がなされた)。それでも、以後上流社会の男性は総髪にして髷を結うようになり、公家や社家においては総髪の習慣が明治維新まで続くことになります。

ドラマ内での解説の通り、男性においては、髷を作ってかぶり物をするのが礼儀とされ、かぶり物を外すことも恥とされるようになりました。烏帽子をかぶるような習慣も中世には武士だけではなく庶民にまで広がって行きます。(昔話の翁のイメージ)。ちなみに、武士が月代を剃るようになるのは平安後期からと言われ、兜をかぶると頭が蒸れるためだったようです。(気の通りが悪いなど諸説あり)。したがって、戦が終わるとまた伸ばしていたのだとか。

女性は、奈良時代には高松塚古墳の画にあるような唐風の髷を作ることもありましたが、平安期には垂れ髪となり、中国風の結い上げる髷は結局採用されませんでした。(ただし、髷は後世に武家社会で行われるようになる)。

著作権クリアできる画像がなく、切手にて(Wikipedia P.D.)

平安時代の女性の髪について国際日本文化研究センターの「黒髪の変遷史への覚書き」(2012)にはいくつか面白い解説がありましたので、引用してみます。

まず、当時の女性の髪についての美意識はこういうものでした。

清少納言は髪の長い人を「うらやましげなる」とする一方、「短くてありぬべきもの」として、下衆女の髪をあげている。これは、身分の低い女性の髪は短くしておかなければならないことを意味している。

「黒髪の変遷史への覚書き」国際日本文化研究センター(2012)

つまり、髪が黒々と長い女性ほど高貴で美しいとされていたことがわかります。髪の毛は伸び続けるとはいえ、毛根の寿命もありますし、抜けてしまうこともあるので、長い髪を維持するのは非常に難しいようです。同じ平安期の「うつほ物語」には、「いとうるはしく多くて、七尺ばかり」(2メートル)という記述もあり、長い髪が魅力とされていたことがわかります。(従って付け毛もはやりました)。

また、前述の通り、女性の髪の長さや処理の方法は、身分に応じたものでもありました。当たり前ですが、髪が長ければ手間もかかり、動くのも大変になるわけですから、髪が長くても不自由しない(労働しない)身分だからこそ長くできる、ということなのです。

当時の上流社会で仕えていた女性たちについても前掲の資料にはこうありました。

「御膳まゐるとて、女房八人、ひとつ色にさうぞきて、髪あげ、白き元結して 」(『紫式部日記:上』講談社、二〇〇二年、一〇七頁) 

食事の準備をはじめようと、女房八人が同じ色の衣装を着て、髪を結い上げ、白い紙で束ねる。この髪を束ねるものを、元結とよんだ。 元結の色は、延喜式には「髻結紫糸」とあることから、本来は紫であったのではないかと考えられる。

「黒髪の変遷史への覚書き」国際日本文化研究センター(2012)

髪をあげ、結って仕事をしました。これは、身分が高い女性が、宮仕えなど職務上必要な時もそのようにしたようです。さらに源氏物語にはこんな言葉も出てきます。

「耳はさみがちに、美相なき家刀自」 (『源氏物語:一』岩波書店、一九六五年、四九頁) 

家刀自とは、食事の分配などを決める女性、いわゆる主婦のことをさす。耳はさみという、垂れさがる額の髪を耳に挟んで後方にやる姿を、家事が多忙で身だしなみをしない様子であり、賎しいとする。

「黒髪の変遷史への覚書き」国際日本文化研究センター(2012)

当時の上流社会の礼儀作法からすると、働く身分の女性が髪を耳の後ろにやる仕草も「賤しく」映ったのですね。平安文化は確かに「雅」ですが、それはほんの一部の特権階級の生活でしかありません。そう考えると、当時の一般社会の多数の人達の生活や装束をもっと知りたくなりました。

まとめ

今回は、感想というよりもドラマ内で取り上げられた平安文化の背景についてのまとめでした。今のところ、ドラマ自体はあまりに現代的過ぎて違和感が強いですが、赤染衛門主催の勉強会の様子や、平安文化の紹介などは大変興味深いものだと感じています。

同時に、「紫式部」本人がどのように才能を認められて行くのか、今後のドラマに注目したいと思います。

紫式部と藤原道長 (講談社現代新書)
講談社
無官で貧しい学者の娘が、なぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか?後宮で、道長が紫式部に期待したこととは?古記録で読み解く、平安時代のリアル
写真でみる 紫式部の有職装束図鑑
創元社
皇室の衣装のすべてを知る筆者が解説。豊富なカラー写真で、紫式部の生涯と装束や源氏物語にまつわる衣食住を紹介する。平安時代の有職装束の基本に加え、紫式部(女房)の仕事着、日常着、夏の部屋着などから、貴族の世界に迫る。装束の成り立ちと仕組みや文様、かさね色目なども解説する入門書。