PR

多度祭における「上げ馬神事」についての調査メモ

宗教

以前にまとめた記事の引越(一部改定)記事です。個人用メモのため、雑多で箇条書き的なものになっております。

多度祭における「上げ馬神事」については、近年動物愛護などの点で批判がなされてきた。動物愛護の精神は大切であることは前提にしつつ、ここでは歴史的な経緯に注目して調査しメモしておく。(祭りの詳細は記さない)。

おおまかな歴史

まず、「上げ馬」の意味。

神事の際に競馬や騎射(うまゆみ)を行なうこと。また、その馬に乗る人。その馬。とくに、馬長(うまおさ)についていうこともある。あげま。馬長(うまおさ)。十列(とおつら)。

精選版 日本国語大辞典 項目「上げ馬」より

基本的に馬が走る神事をいうらしい。なので、「多度祭」のような、絶壁を登るような意味は本来ない。

多度大社のホームページの説明。

南北朝時代の暦応年間(1338~1341)に、このあたりを分領する武家の中より始まったとされておりますが、元亀2年(1571)織田信長の兵火に罹り、社記散逸された悲しい歴史があり、どのように始まりをみせたのかは今尚詳らかではありません

多度大社の公式ホームページより

歴史的には、江戸時代の桑名藩2代藩主本多忠政により1612年に「多度祭」・「上げ馬神事」等が復興したことは分かっている。

「上げ馬神事」がどのように行われたかの古い記録は見つけられなかった。昭和初期1938年の『三重県下の特殊神事』という本(神道関係団体の編纂と思われる)の記述は以下の通り。

祭馬の内特に優秀なるを選びて馬場に出し騎手を乗せて放つ、騎手之に鞭うてば、狂奔して神前近き石階の傍なる巌壁の如き坂道(傾坂凡十間を登り丈餘の絶壁を設く)を登る、過って墜落すれば網を以て引き上ぐ、先番上げ終わらざれば次番は行ふ事を得ざるを例とす。

『三重県下の特殊神事』1938

一丈(3メートル)の「壁」というのは、急坂の分を足しての寸法なのか不明瞭。今はもっと低い。この記述からはそれ以上はよくわからない。

上げ馬の坂。奥に壁がある。(Wikipedia C.C.)

この本でも、「起源は社記散逸して明らかなら(ず)」と述べているが、もともとは武家が始めたのだろうと推測している。確かに馬術や弓術の腕が試される行事であり、藩主復興の行事でもあることから元は武家の行事だったのか? 同じ時に行われる流鏑馬も武家のたしなみであることからもそう思える。(ただ、現代的な流鏑馬は徳川吉宗が新しい形で再興したものという説もある)1。流鏑馬については、もともと武家のものであったが、その伝統を残しつつ寺社・農村に受け継がれ、豊穣や子供の健康を祈るような要素が強くなったという説明は共通する。

この『三重県下の特殊神事』には、行事の過程が克明にしるされており、祭りの規則についても細かく記録されている。(ただ、意義や由来は前述のことぐらいしかかかれていない)。

問題は「古来」このような形式だったのかということなのだが、殆ど資料がなかった。

祭りの本来の意味と「上げ馬」

この祭りの主役は「神児ちごであり、子供が扮する神の依り代である。そして「七度半」の迎えがあり、坂上げ、神輿渡御と進む。つまり、神様(神児)をお迎えするために、「七度半」2(7回半お迎えの儀式をすること)をし、「神児ちご」の傘を閉じるのを合図に、花馬がスタート。この際、馬が「神児ちご」を「追い抜く」ことに意味があり、神をさらに「上げ馬」によって境内へと導くとされる。

桑名市ブランド推進課課長補佐(2019年当時)の石神教親氏の雑誌への寄稿ではこのように説明されていた。

「神児」という依り代によって境内下まで誘われた神を最後に境内へと導く行為、それが「上げ馬神事」なのではないだろうか。上げ馬の成功によって豊凶を占ったり、上がった順番で早稲・中稲・晩稲といった稲の作付けを占ったりは、あとから付会されたものであり、神事の本質ではないと考える。

上げ馬神事は、境内下へと依り代である「神児」によって誘われた神を、最後の行為として境内への導くことが神事の本質なのではなかろうか。「神児」の存在と坂上げ、そして御旅所への神輿渡御までの一連の行事は、つながりを持った連続する神事として捉え得るのではないだろうか。

BIOSTORY vol.32: 人と自然の新しい物語 p102,107 「神ののりものとしての馬: 多度大社上げ馬神事試論」

この説明がもっとも分かり易いと思う。古来、神は神馬に乗ると言われるので、依り代である「神児」が馬に乗るのも同じなのだろう。神社に馬そのものを奉納することや、その代替として「絵馬」を奉納することも日本中で見られ、神と馬の関係を示している。

神事の全体的進行については、『三重県下の特殊神事』が大変詳しいが、石神氏の上記記事にも、大まかな(そして現在の)行事の進行がまとまっている。石神氏の記事は短いものだが、祭りの本来の意味を論じている点で非常に興味深かった。(ただ、「上げ馬神事」の是非や歴史的な経緯はほとんど考察されない)。

こう考えると、確かに障害物を乗り越えるのも大事であるが、そもそもは「神を運ぶこと」が大事なので、「壁」自体が低くなっても問題はないのではと勝手なことを思ってしまった。

上賀茂神社の「競べ馬」「葵祭」との関係

ちなみに関係があるのかはわからないが、多度祭は5月4,5日(本来は5日が本番)とのことだが、古代の「くらべ馬」「馬かけ」は、朝廷の行事として5月5日に行われていた。一時途絶えたが、堀河天皇のころ(1093年)に再興され上賀茂神社の祭礼となり今に至る。

同じ月に行われる「葵祭(賀茂祭)」の最後には「山駆け」があるが、これは神を馬に乗せて返すという意味があるらしい。葵祭では「走馬」~非公開の「山駆け」で終わる。

石神氏も、『多度大神縁略起』を引用し、多度祭の上げ馬神事がもともと「上賀茂神社とつながりがあった可能性」に言及している。

上賀茂神社の競べ馬が5月5日という点が多度祭と同じだし、その後の葵祭の「山駆け」の意味は、「上げ馬」にも通じるところがある。いずれにしても、神が馬に乗るという考えは共通している。

家畜としての馬

古来日本において、馬は家畜であり重要な資産であった。(牛は農耕、馬は軍馬・輸送等)。したがって、その観点から言っても、馬が怪我をするとか、その結果役に立たなくなるということは大きな不利益だったはずである

逆に言えば、現代社会は労働力をもはや馬や牛に頼っていないため、神事で馬が怪我をしても(乱暴な言い方だが)意に介さなくなったという気もする。(別の批判は出るだろうが)。供犠的な意味があるなら別だが、馬の価値を考えるともう少し違うやり方だったのではとも思う。

もっとも、昔は「動物愛護」という視点はなかっただろうし、本来馬は軍馬でもあり、騎乗・騎射は武士のたしなみでもあるので、多少の危険が伴っても武術の一環として、神事とも結びついて始まったのだろうか。このあたりの詳しいことは前述の通りわからなかった。

肉食のこと

横道にそれるが、関連して食肉ということについてメモ

牛や馬を食べることは、古くから禁忌。農耕や軍馬としての貴重さ故の禁忌と宗教的な禁忌が両方関係しているのか。平安時代は特に穢れを気にした時代であるが、死刑に相当する刑罰として「馬肉の刑」というのがあり、馬肉を食べると死ぬという迷信を利用した刑罰らしい。(『小右記』『将門記』『太平記』などにも描写あり)。

禁忌は明治初めまで続き、明治5年に大分で発生した一揆の訴状には、「牛馬を殺し候事」とあり、肉食が明治天皇以下「公に」始まった明治でも、肉食が穢れを持ち込むと本気で信じた人達もいた。3

一方で、薬という「いいわけ」をしつつ食してきた面もある。江戸時代には彦根藩の「牛の味噌漬け」は献上品(一応薬)として有名。猪なら「山くじら」「牡丹」、馬肉を「さくら」など隠語を使いつつ食べた。そもそも、時の政権が禁令を出すということは、「食べていた」ということだろう。

禁忌という側面がありつつも、食べてきたというのが実状だが、それでも牛や馬など家畜を食べることには抵抗があった模様。(財産としての価値も当然関係)。だが、野生の獣肉は害獣駆除の結果として食べるケースは多かった。

食べることとは違うが、古墳時代ぐらいの場合は、重要な祭祀で馬を犠牲として捧げることはあったらしい。このあたりの兼ね合いが難しそう。

「上げ馬」と肉食に直接関係があるわけではないが、馬や牛を家畜として貴重なものとする背景は重要ではないか? 家畜は高価な財産でもあるので、馬が怪我をするほどの祭りを行うかという疑問もある。(多度神社(大社)は馬に関連が深く、信仰の上でも馬を大切にしてきただろうし)。

近代以前は現代的な「動物愛護」という観点はないと思われるので、ここではあくまで家畜の資産的な貴重さや肉食の禁忌との関わりを想像してみた。

まとめ

このメモでは祭りの是非は論じなかったが、考慮すべき要素を私見として最後にまとめる。

●現在の祭りが在来馬ではなくサラブレッドのような競走馬で行われる問題
●伝統とはあまりあてにはならない。随時変化するし、どんな伝統も「一番最初」が存在する。
●変わらない祭りはないし、廃絶してきた祭りや習慣も無数に存在する。保存の努力は貴重であるが、時代にあわせて変わって行くのも伝統である。

あまり過敏な反応も良くないが、逆に命というものに対してあまりに無頓着になるのも問題。我々は、犬や猫をかわいがりながら、牛や豚、鶏(時には馬肉も)を食べる。これはある種の矛盾だが、この矛盾を乗り越えるために重要なのは「命を大切にする」「食べるのなら無駄なく感謝して」ということか。神事を始め、様々な人間と動物の関わり方を今後も問い続けることが重要なのだろう。「温故知新」とは至言だと思う。

この祭りで最も重要なことは、神を馬に乗せて運ぶことにあるという点は、今後を考えるヒントになるだろう。祭りの記録が損なわれているため、歴史的情報が少ないのが残念。

(2021.1初稿。2024年更新)


追記:2024年9月

2024年9月に確認した多度大社側の資料では、「従来の祭馬の曳き方については現状にはそぐわないとの指摘を受け、祭馬のストレスとならない曳き方に改めるべく、今後も継続して検討を重ねることとする」とある。(令和6年「本年の上げ馬神事を終えて」pdfで確認)。

再び刑事告発が民間団体からあったようだ。今後の展開に注目したい。


▼「上げ馬神事」についての資料はネット上には少ないが、今回引用した下記の記事が一番よくまとまっている。雑誌内「神ののりものとしての馬 : 多度大社上げ馬神事試論」参照。(最近は古書でないと手に入らない)。

BIOSTORY vol.32: 人と自然の新しい物語 (SEIBUNDO Mook)
誠文堂新光社
近年、京野菜ほか国内の「伝統野菜」が注目されているが、世界的な視野でみると日本は野菜の起源地ではない。日本の野菜は、いつどこで生まれて日本に導入され現在に至るのか、野菜と文化とのかかわり方、わが国の最新の野菜事情など、日本の野菜と人との多面的なかかわり方を生き物文化誌の視点から展望する。(今号に、上記引用の記事あり)

▼こちらは『馬の世界史』。注意点としては、こちらはあくまで世界史で、日本についての言及はごく一部。「上げ馬」についての記載は無い

馬の世界史 (中公文庫 も 33-1)
中央公論新社
馬は、人間の社会のなかで、多種多様な役割を担わされてきた。人が馬を乗りこなさなかった、歴史はもっと緩やかに流れていただろう。馬から歴史を捉え直す。

▼こちらは網野 善彦氏と森 浩一氏の対談という贅沢な名著『馬・船・常民』。最初の部分で馬についての議論あり。「上げ馬」の話はないが、日本人と馬を考えるには良い。(持っているのが「河合出版」版のため、以下の版では変わっているかもしれない)

馬・船・常民 (講談社学術文庫 1400)
講談社
考古学と中世史の論客が、日本の歴史学から抜け落ちていた事柄を掬いとり、それぞれの観点から縦横に論じ合う。東国騎馬軍団の活動、雄大なスケールで行われた海の交通、さまざまな物資のダイナミックな交流、知られざる女性たちの活躍……。そして「日本」とはなにか。常識を打ち破ったところに真の日本が立ち現われる。

  1. 黒須 憲「弓射神事に関する一考察—流鏑馬神事—」2019 ↩︎
  2. レファレンス共同データベースの「七度半」の解説。https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000318267
    「…この七度半すなわち七・五という数字の根拠は、日本人の時の観察が基本となっている。月が満ちては欠け、ふたたび成長して満月になる。すなわち望から望までの一区切り、それがまさに一月であり、望で上弦と下弦に二分されると、七日で一つの区切りとなり、それが週日の考えとも一致する。すでに平安時代の暦本の中に七曜暦と称する七を単位とするものがあり、民間習俗においても誕生祝いの七夜の祝儀、仏式葬送儀礼の初七日から七七日までの儀礼、神仏祈願の七日単位などがあり、祭りに際しても七日間の忌籠りを基本とした。」。2024年9月追加。 ↩︎
  3. 原田信男「日本人の食はどう変わってきたか」 ↩︎