毎度「天邪鬼」な大河ドラマレビューを書いております。批判的な分析を主旨としておりますため、世間一般の論調とはかなり乖離しているかと思います。そのため、ご不快に思われる方もおられるかもしれません。前もってお詫びいたします。(以下ネタバレも含みます)。
第10話「月夜の陰謀」の感想
今回は、「素直に」かなり面白い回でした。特に和歌や漢詩をうまくつかった文化面での演出は非常に素晴らしかったです。
道長は古今和歌集から、「思ふには忍ぶることぞ負けにける、色には出でじと思ひしものを」(詠み人知らず)など3首を送ります。いずれも「もう気持ちが抑えられないから、会いたい」という気持ちを表現しています。対する、「まひろ」は漢詩(陶淵明)で返すというのが素晴らしい。漢籍に明るい紫式部ならではの設定でよかったと思います。また、道長の相談にのった行成の学識もまた彼らしい優れたものでした。
ただ、(やはり「天邪鬼」ですいません)この陶淵明の詩の選択と、せっかく「まひろ」から陶淵明を送られた道長の行動には若干違和感がありました。この点は、後半でまた取り上げたいと思います。
ラブシーンについては、色々な意見が出ているようですが、平安時代を始め基本的に日本はオープンな国だったので、史実としてはもっと過激で自由だったのでしょう。ただ、それをゴールデンタイムで放送してよいのかとか、いろいろな意見があるのもわかります。「天邪鬼」な私としましては、逆に直接的に描かないことによる艶めかしさを追求してほしいなどと勝手なことを思いました。ちなみに、考証の倉本氏の説を採れば、この時「まひろ」13歳。(8~16歳ぐらいまで諸説あり・・)。
今回の一番のなぞは、朝廷で平安時代に「おはようございます」はありなのか?ということです。私は昔「おはようございます」は歌舞伎由来と聞いたことがあったので、違和感がありました。このあたりはよくわからなかったので、お詳しい方の解説を探してみたいと思います。
今回は、花山帝出家にいたる「寛和の変」までが、非常にうまく描かれていたと思います。
▼ちなみに、「藤原だらけ」の大河のために、オリジナルの(かえってわかりにくい?)藤原家系図を作っております。ご参考までに。
陶淵明の詩
今回、「まひろ」が選んだのは陶淵明の「帰去来の辞(帰去来兮辞)」の一節です。今回はこの詩の背景を少しまとめました。
陶淵明の背景
陶淵明(365-427)は東晋末から南朝の宋(倭の五王で有名)の時代に生きた人です。ちょうど王朝交代の激動の時代で、軍閥が政権を握る時代でした。彼は乗り気ではなかったようですが、北府軍に参軍として従軍していたこともあります。
彼が生きた東晋末期の権力者は、一時的に帝位を簒奪した桓玄から、それを「平定」して皇帝を復位させた劉裕へと移ります。この劉裕は、陶淵明の北府軍時代に同僚だった人物と言われます。(劉裕に仕えたという説もあり)。劉裕は後に東晋を滅ぼして(禅譲)宋を建国した人物であり、東晋も末期的な状態でした。
詩の背景と意味
この詩が作られたのは、官を辞した義熙元年(405年)とされます。(翌年という説もあり)。8月に彭沢県の県令という小官に任命されますが、11月にはすぐに官を辞しています。帰郷にあたっての決意表明のような形で作られた詩と言えます。
官を辞して引退しようとしたのは、混乱の時代にあって、竹林の七賢のような「田園生活」への強い憧れがあったからと言われます。また、不遇だったということもあるでしょう。辞任した年の2月にはかつての同僚であった劉裕が朝廷で全ての実権を握っています。作家の陳舜臣さんは、かつて同僚だった劉裕がトップに君臨する一方で、自分は不遇であることから官界に見切りを付けた(ばかばかしくなった)のかもしれないと言っています。1 多くの軍人や政治家たちが悲惨な最期を遂げたことも、彼に影響をあたえたかもしれません。
この詩の原題でもあり、詩中でも繰り返される「帰去来兮」は、古来「かえりなんいざ」と訓読しますが、中国語としては「帰(帰去)」という部分だけに意味があり、「来」部分は助詞で、「兮」が語気を表すとされます。(「去来」で解する説もある)。現代の中国人も「来」に一体何の意味があるの?と不思議に思うようです。なので、そのまま訳せば「かえろう!」となります。
全体は序と詩本文からなり、かなり長いので本文の冒頭から数句と、中間を割愛して最後の一句を引用します。
帰去来兮辞(帰去来の辞)
帰去來兮 田園将蕪胡不帰
(帰りなんいざ、田園将に蕪れなんとす 胡ぞ帰らざる)
既自以心為形役 奚惆悵而独悲
(既に自ら心を以て形の役と為す、奚ぞ惆悵として独り悲しまん)
悟已往之不諫 知来者之可追
(已往の諫められざるを悟り、来者の追う可きを知る)
実迷途其未遠 覺今是而昨非
(実に途に迷うこと其れ未だ遠からず、今の是にして昨の非なるを覚る)
・・・中略・・・
楽夫天命復奚疑
(夫の天命を楽しみて復た奚をか疑はん)
最初の句は、「さあかえろう!田畑は荒れようとしているのだから今こそ帰らねば!」と始まります。そして続く3句(黄色の下線を引いた句)が今回「まひろ」が3通に分けて引用した句になります。以下ドラマにあわせて3分割し、訳の一例を引用します。(ドラマ内でも意訳されていました)。
1通目:
訳文のみ:釜谷武志「中国の古典『陶淵明』」(角川ソフィア文庫)p200
自分から精神を肉体のしもべとしてしまったのだ、
どうしてそれをひとり嘆き悲しんでいてよいだろうか。
2通目:
過去は訂正できないと悟り、
未来を追い求めるべきだと知った。
3通目:
まことに道には迷ったがそれほど遠くへは行っていない、
(引き返してみて)今が正しく昨日までがまちがっていたことに気づいた。
最初に「まひろ」が送った句の「既自以心為形役」という言葉は(解釈は色々あるようですが)、「意に反する仕官をしたのも自分の決定なのだから、どうしてそれを今更嘆くことがあろう」という意味になると思います。
今回「まひろ」は引用しませんでしたが、上記引用にあるように、「帰去来の辞」は「あの天命なるものを楽しんでもう何をも疑わない(楽夫天命復奚疑)」2と言う宣言で終わります。この「楽夫天命」という考えは彼の終生のポリシーでした。この詩から20年余後に自分の死を意識して書かれた「自祭文」というものがありますが、その中でも「楽天委分」という言葉が出てきます。「天を楽しみ分を委ね」と読みますが、天命に委ねて与えられた生を楽しむという態度が重ねて表明されています。これは『周易』の「楽天知命、故不憂」(天を楽しみ命を知る、故に憂えず)に基づくと言われます。3彼は晩年にどんな境地にいたったのでしょうか。
彼の詩の魅力は人間味あふれるところかなと思います。「帰去来の辞」以後も、志を遂げられなかったことを悔しく思って夜も眠られないという詩を書いたことがあります。4 竹林の七賢の老荘思想に憧れると同時に、儒教的にきちっとしている面があり、かなり真面目です。天才的な詩人でありましたが、どうも「実務の才能においては無に等しかった」5ようです。「文」では生きにくい動乱の時代に、「詩文」に人生を懸けた希有な人物でした。
「まひろ」が「帰去来の辞」を贈った意味はあったのか
さて、道長が熱い思いを和歌で吐露するのに対して、「まひろ」は冷静に前述の漢詩「帰去来の辞」で答えました。この演出自体は、素晴らしかったと思います。
ただ、「まひろ」が「帰去来の辞」を選んだことについては、若干の違和感がありました。この詩を選んだ理由は、「あの人の心はまだあそこに・・」という言葉に表れているとは思います。贈られた和歌を読んで、そう判断した理由ははっきりとはしませんが、おそらく「恋心を隠そうと苦しむ」という文意を汲んだのでしょう。その結果、陶淵明の「帰去来の辞」の一句を贈ります。
「まひろ」としては、道長に後ろを振り返らずに前に進んでほしいということなのはわかります。しかし、この句が彼の和歌や彼の状態にぴったりなのかと言うとちょっと疑問に思いました。「帰去来の辞」の一般的な解釈は次のようなものです。
『帰去来の辞』が陶淵明の作品の中でも,最も代表的な作品の一つで、前半生の生き方を反省して優柔不断な過去の生活に別れを告げ、新しい生き方を貫こうとする宣言の文章であるという点で諸家の意見は一致している。
石田公道「帰去来の辞について」北海道教育大学 1971(太字下線筆者)
「新しい生き方を貫く」という意味では確かに適合するとは思うのですが、「帰去来の辞」はある意味自己反省の文でもあるので、読んで感動した人が自分で読んで「座右の銘」にするのは大変いいと思うのです。ただ、人に贈る場合はどうなのだろうかということです。極端に言い換えれば、「自分で選んだ結果こうなったんだから、悔やんでもしょうがないよ」と言っていることになりますので、なかなか人にこういうアドバイスはしにくい気がします。(それほどの信頼関係だったとするならわかりますが・・)。
同じように、2回目と3回目に贈った句も、「過去の訂正」「道に迷う」というように、過去の失敗に言及する詩です。やはり人に贈るにはためらわれる内容かと思います。(内容的には「正しい」ことを言っているけれども)。
また、道長からの3つの和歌への返事を、同じ「帰去来の辞」の続きの部分から返事しているのが、どうも安直過ぎる気がしました。今回は漢文が苦手な道長も、一瞬で「陶淵明」と理解しました。そうなると、最初に贈られた言葉の続きも十分知っていることになり、道長としても「ただ続きを贈ってきているだけか・・」という感じになってしまいます。せっかく漢籍に通じた「まひろ」なのですから、いろいろな漢詩から引用してほしかったところです。これは先回の「漢詩の会」でも感じたことです。
それから細かいようですが、「手紙」を読んだ際に「古今和歌集・・なんで?」と述べているのが気になりました。平安貴族なら、文章ではなく和歌が贈られることは日常のことだったでしょうし、古今和歌集が贈られることも珍しくはなかったでしょう。そう考えると、(あくまで推測ですが)「なんで」という言葉で一瞬の分析を表現し、その結果が「あの人の心は・・・」となるように脚本が書かれたのかもしれません。ただ、そうであるなら「なんで」という言葉の位置が早すぎますし、声に出して「なんで」と述べることで、道長という人間に対する理解の浅さを(一瞬ですが)露呈した気がします。なので、個人的にはあの台詞はいらなかったと思います。(素人が偉そうにすいません・・)。彼女なら、贈られた和歌を読むだけで、道長の心が「まだあそこにある」と判断したはずではないか・・と勝手な推測をしました。(もちろん脚本家にはもっと他の意図があったのかもしれません)。
一方で、漢詩を受け取った道長の行動は、さらに不可解でした。強調しておきたいのは、彼の和歌だけで漢詩がなければ、まだ理解できる場面展開だったと思うのです。(もちろん、和歌と漢詩の応酬という設定は素晴らしいと思いますが)。言い換えれば、「帰去来の辞」の意味はあったのか?(通じていたのか)という疑問でもあります。
前述の通り、今の道長に「帰去来の辞」の一節を贈るのは若干違和感はあります。でも、これを人生訓として道長に贈った彼女は、「直秀事件」を過去のものとして整理し、前を向いて生きるということを期待たのでしょう。しかし道長は、「二人で駆け落ちしよう」という気持ちなってしまったのです。感情がほとばしって、彼女の意図を汲む余裕がなかったのでしょうか。
今回の彼女の台詞からすると、彼女はずっと以前に「駆け落ち」という選択肢はないと悟っていました。陶淵明の詩を贈ったのも、そのような覚悟があった上ででしょう。そう考えると、なんとなく二人の気持ちが(というか脚本が)すれ違っている気がしました。せっかく歌と詩のやりとりをするのですから、二人が詩や歌に込められた意味をじっくり考えた上で実際に会う、という設定なら良かったかなと思いました。
もっとも、道長が陶淵明に共鳴して「帰去来の辞」の如く「田舎に隠棲しよう!」と決意したというのなら(何もかも捨てるべきだと早とちりしたのなら)、何も言えませんが・・。(ただ、「帰去来の辞」の引用部分は、その主旨の句ではなかった)。
まとめ
色々とうるさいことを申しましたが、とても面白い回だったと思います。漢詩は大好きなので、ちょっと力が入りすぎて冗長な文章になりました。
以上は、個人的な感想や分析に過ぎません。まったく違った見方も出来ると思いますので、色々な方の感想をチェックしてみたいと思います。今回もお読みいただき、ありがとうございました。