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書評「古代イスラエル史」(B. U. シッパー著。山我哲雄訳)

世界史

最近は、中東情勢がかなり緊迫していますが、中東史を理解することは極めて重要だと思う今日この頃です。イスラム関係の本は多い気がするのですが、イスラエル史に関係した啓蒙書は少ない気がします。日本はキリスト教人口が1%未満ということもあって、この手の本も人気がないのでしょうか。

私はまったく不信仰なもので、あくまで学問的な視点で歴史を学びたいわけなのですが、日本の参考書は(クリスチャンの学者や聖職者が書いているものが多いこともあり)護教的なものが多いのが悩みの種でした。

ただ、今回取り上げる、『古代イスラエル史』(副題: 「ミニマリズム論争」の後で~最新の時代史)は、極めて学術的で参考になりました。今回も「書評」とは名ばかりの、只の「レビュー」ですので悪しからず。

古代イスラエル史: 「ミニマリズム論争」の後で:最新の時代史
教文館
一神教と無縁のユダヤ教があった? エルサレムは最大の神殿ではなかった? ダビデとソロモンの大王国は虚像? 旧約聖書の史料的価値を争った「ミニマリズム論争」と、古代オリエント世界の最新の考古学研究を経て激変した、真の「イスラエル」像を知る格好の入門書。

紹介

著者のB. U. シッパー氏は、ドイツの旧約学者で2024年現在、国際旧約学会の会長を務めている方です。著者の立ち位置は、「ミニマリスト」~「マキシマリスト」(ある種の蔑称ですが)の間でプロットするなら、ちょうど中間的という感じでしょうか。内容を読んでみると、確かに極端過ぎる主張はなく、非常に学問的で冷静な著書でした。

冒頭の「序章」には本書について以下のように紹介されています。

本書が関わるのは学者たちの信仰でもなければ、パレスチナ/イスラエル考古学の政治的次元でもない。その中心をなすのは、古代イスラエル史の批判的再構成であり、その歴史が聖書外史料や聖書の諸資料からどのようなものだったと推察できるのか、ということである。そこで本書では、出土物やテキストや遺構の縺れ合った藪を抜けながら、古代イスラエルの基本線が辿られることになる。

『古代イスラエル史』B.U.シッパー(教文館) p10

1990年代に激化した「ミニマリズム論争」(聖書の記述を最大Maximumに信用するか、Minimumにしか信用しないかの論争)を経て以降、学会の定説も激変し、「四資料仮説」などはもはや通用しない時代になりました。「ミニマリズム論争」はエスカレートして学者同士の人格批判というような様相も呈していましたが、ここへ来てようやくちょっと落ち着いてきたのかなとは思います。とはいえ、悲しいかな、宗教がらみの学問はこれからも(特に感情的な)論争が続いて行くのでしょう。

本書は、基本的に歴史学や考古学的な視点からイスラエル史を描写しています。日本の殆どの「イスラエル史」は、(教科書を含めて)聖書を無条件に受け入れて著述されているものが多いので、本書のような視点は非常に貴重だと思います。従って、聖書はあくまで参考程度にしか出てきません。

ただ、コンパクトでページ数も少ない割に専門的な内容なので、前提とする知識がないと困惑するかもしれません。特に聖書の主張するイスラエルの歴史を知った上でないと読みにくいとは思います。さらに、ここ100年ぐらいの旧約聖書学の動向も大まかに知っていると分かり易いとも思います。

事前知識として、個人的にお勧めなのは、本書の訳者である山我哲雄氏の以下の本です。基本的に「聖書物語」としての部分を維持しつつ、聖書学の見地からのリベラルな解説を随時加えたものでお勧めです。

聖書時代史 旧約篇 (岩波現代文庫 学術 98)
岩波書店
旧約聖書はイスラエル・ユダヤ民族の波瀾万丈の歴史を記すが、そこで描かれるのはあくまで、後の時代に「信じられた」歴史である。本書は最新の歴史的・考古学的研究の成果を盛り込み、イスラエル人のパレスチナ定着からローマのユダヤ征服に至るまでの聖書の記述の背後に、どのような「もう一つの」真実の歴史があったのかを明らかにする。

そのほかには、「ユダヤ人」という点に特化して歴史を綴った長谷川修一氏の以下の本もおすすめです。こちらはおそらく学生さんを意識した丁寧な記述になっています。

世界史のリテラシー ユダヤ人は、いつユダヤ人になったのか バビロニア捕囚
NHK出版
バビロニアに強制移住された半世紀――彼らはそこで「神」と「聖書」を生み出した。世界の今を解くカギは、すべて歴史の中にある――。誰もが一度は耳にしたことがある「歴史的事件」と、誰もが疑問を抱く一つの「問い」を軸に、各国史の第一人者が過去と現在をつないで未来を見通す新シリーズの第4弾! 世界中で長い期間にわたって迫害されたユダヤ人。なぜ彼らは迫害されたのか? そして彼らはいつから存在し、なぜ世界の各地に散らばって生活していたのか? さらには迫害のなかで、どのようにして自分たちのアイデンティティを保つことができたのか? 紀元前の中東で半世紀以上にわたって拘束された「バビロニア捕囚」をキーワードに、知っているようで実は知らない「ユダヤ人」の成り立ちを見る。

本書の感想

嘆きの壁

全体的に歴史学や考古学で分かってきた最新の情報がよくまとめられています。俗に言うリベラルな聖書学ということになりますが、著者は基本的に「確実」と言えることはきちんと主張し、聖書の主張で受け入れられることや、受け入れられないことをきちんと選別して記載しています。基本的に著者自身の主張が比較的少なく、あくまで現在において妥当とされる学説を提示しつつ、異説や類推できることが併記されているのも、良い点です。

冒頭で引用した「序章」の説明通り、著者の学問的、「批判的再構成」が十分なされた本です。昨今の旧約聖書学会は「定説なし」と言われるほど混乱が見られますが、本書ではできる限り宗教的な偏見や主張を排除しているため、私のような門外漢でも安心して読める本でした。

イスラエル統一王国時代から南北王朝時代

本書は、創世記の族長時代など考古学や聖書外史料で検証できない歴史はバッサリとカットされ、学問的に確認できる時代から始まります。メルエンプタハ碑文の「イスラエル」に始まり、それがどのように国家となって行くかが歴史的に検証されます。

聖書が主張するイスラエル統一王国から南北に分裂した王国時代についての、学問的な検証もよくまとまっていました。この辺の史実性は、現在の中東問題や、現イスラエルの建国の前提とも関わってくるので、知識としてはとても重要だと思いました。

考古学的に最初に確認できるのは、聖書では悪役として描かれる北のイスラエル王国のようです。まず北が栄えてから、いわば「主役」の南のユダ王国が栄えたという、聖書とは違った歴史が考古学的な痕跡から分かるようです。

またそのユダ王国についても、後期の王たちについては色々と分かっていることがあるようです。ユダ王国の場合、聖書では「良い王」と「悪い王」が繰り返し登場しますけれども、以外に「悪い王」とレッテルを貼られた王の治世が非常に繁栄していることも分かっています。例えば、聖書では滅亡の原因を作った悪王とされるマナセは、考古学的にはユダを繁栄に導いた優秀な王という姿が見えてきます。そもそも、旧約聖書にもその治世は50年以上の最長不倒として記録されており、結果として「悪い王がなぜそんなに長い治世を誇れたのか」という神学的な問題を引き起こしました。その答えとして後世「歴代誌」を書いた筆者(たち)は歴史を書き換え「彼は反省して良い王になった」という解釈を追加するようにもなったようなのです。聖書はあくまで、後代にその歴史を宗教的に解釈しなおしたものと考えられるので、王の善し悪しも宗教的な判断で行われているのでしょう。

本書は、当時の国際情勢の中にイスラエルやユダを位置づけており、そこから見えてくる歴史も大変興味深いものでした。

特に大きく変わったペルシャ帝国時代の歴史

この本で特に強調されているのは、ペルシャ時代についての学説の大きな変化です。

たとえば、ペルシャ帝国は宗教政策に非常に寛容で、それゆえにエルサレム神殿の再興を許可したということが語られてきました。これはほぼ聖書の説明を踏襲したものです。しかし、昨今分かってきたのは、ペルシャは必ずしも広くまんべんなく寛容な宗教政策を採っていたわけではないということです。かなりの弾圧も行っているのです。また聖書が述べるように、キュロス大王の治世のごく初期に「エルサレム神殿再建」の勅書がでること自体、考えにくいと言われるようになりました。

この時代についての最近の学説を本書から簡単にまとめてみます。

1.バビロニア捕囚は、聖書が述べるように全ての人が連れ去られたわけではなく、神殿も完全には破壊されず、引き続き使用されていた可能性が高い。
2.BC5~4世紀において中心的なヤハウェ聖所はエルサレムではなくサマリアであった。
3.エルサレム聖所が重要性を再獲得するのは、BC450年以降である。
4.この時期以降、保守的なエルサレムとサマリア、開放的なエジプトとバビロンという構図ができる。(エジプトには神殿もあった)。
5.これらの宗教文化圏はお互いに交流し、最終的に聖書にそのアイデンティティを残している。(エズラ記の異民族婚を否定する考えと、ルツ記の異民族婚を擁護するの共存など)。

学問的な発見の積み重ねから分かるのは、やはり聖書はあくまでヤハウェ崇拝中心となった後世に作り上げた神学で書かれているということです。信仰の問題は別にして、歴史としては(引き続き論争は続くけれども)旧約聖書とはかなり乖離したものであることは確かなようです。

もちろんそうであったとしても、旧約聖書がバビロン捕囚からヘレニズム時代を生き抜いたユダヤ人たちの、貴重な「信仰の記録」だということは変わりません。それが現代まで残っているというのは歴史の奇跡でもあり、奥が深いなと感じました。

本書の意味

本書は、「序章」で述べられていた通り、聖書学や聖書考古学の本であり、現在の国際情勢(「政治的次元」)を論じるものではありません。しかし、冒頭から申しあげている通り、現在の国際情勢を俯瞰する意味でも重要な情報を提供していると思います。ユダヤ教やキリスト教信仰そのものは自由であり肯定されるべきものでしょうけれども、その背景や歴史を学問的に理解しておくことは、信者の方達だけではなく私たちすべてにも益があるのではと思います。

もちろん、紛争当事者同士では歴史的な事実よりも、信じていることや感情が優先されるという現実は、今後もなかなか変わらないでしょう。でも、少なくとも第三者的立場にいる私たち日本人は少し冷静な考察をすべきではあります。本書の提供する情報は、物事を冷静に議論する材料になるのではと思いました。

また、「歴史に絶対はない」「分からないことはたくさんある」という視点も、宗教的な論争や学問的な極端な論争(ミニマリズム論争)を脱却するためには重要なのだろうとも感じました。

まとめ

著者のB. U. シッパー氏の論調は非常に淡々としており、信仰も絡んで過熱しがちな「旧約聖書学」を極めて学問的に展開しています。コンパクトなペーパーバックで読みやすい分量の本ですが、内容はとても濃い本でした。

また、古希を過ぎた本書訳者の山我哲雄氏は「あとがき」で、「激変する学会の趨勢から落ちこぼれた老古代イスラエル学者が、変貌著しい現代の古代イスラエル史像の一端を広く知っていただこうと願い、適書を選んで訳出したものである」と述べられています。ご謙遜が過ぎる感じがしますが、山我氏のようななスタンスの学者には、まだまだご活躍いただきたいものです。

私自身いつも反省するのですが、歴史を学ぶ時に「自分が聞きたい答えを探す」傾向があります。自分にとって耳障りのよい説に魅力を感じるのは人の性でしょうけれども、やはり歴史を学び、今を見つめるためには常に冷静で広い視点が必要だなと改めて思いました。世界情勢を分析するときも、やはり背景を理解することは大変重要ですね。

本書は、聖書の前提知識が若干必要であるとは言え、最新の聖書考古学がしっかりと詰まった好著でした。お勧めです。


▼宗教史として学びたい場合は、同じ山我氏翻訳でM・ティリー とW・ツヴィッケル共著の以下がお勧めです。

古代イスラエル宗教史: 先史時代からユダヤ教・キリスト教の成立まで
教文館
パレスチナで成立した二つの世界宗教はどのようにして形成されたのか? 聖書世界ではどのような祭儀が行われていたのか? 唯一神教の萌芽はいつから看取できるのか? 約1 万年前から紀元後70 年までの聖地に生きた諸共同体により営まれた多種多様な宗教実践の姿を、考古学的遺物や文献資料から浮き彫りにする。

▼ちなみに、現在のイスラエルの政治的部分と歴史の兼ね合いを論じたものでは、ちょっと古いですが以下の本が大変面白かったです。イスラエルの歴史家が非常に冷静に「ユダヤ人とは何か」を論じた好著です。

ユダヤ人の起源 (ちくま学芸文庫 サ 38-1)
筑摩書房
二千年にわたる「追放=離郷」、そして約束の地への「帰還」。このユダヤの物語をもとにイスラエルは建国された。だが、そこに歴史的正当性はあるのか、そもそも、ユダヤ人とは何者か。著者は精緻な検証作業で、イスラエルにおける集団的アイデンティティを根底から突き崩す。民族の神話と出自は近代の創作であると暴露され、現国家に対し再出発を迫る。どうすればイスラエルは未来を拓くことができるのか。タブーを破り、イスラエル本国をはじめ、世界各国で反響を巻き起こした画期的大著、ついに文庫化。